『教団における偽書の生成と展開』

日蓮の場合

今成元昭
 

 はじめに

 本日は、日蓮について、全く御存知の無い方も沢山おみえだと思いますので、まず市販されている『仏教辞典』によって、日蓮の特質とされている所を一点だけ指摘しておきます。

 龍谷大学発行の『仏教大辞彙』を見ますと、その「摂受折伏(ショウジュシャクブク)の項に、「折伏とは折破催伏の義」で「特に日蓮宗の教義として知らるゝものであること、そして「折伏は只摂受か為めの前関を張るに過ぎざるなり。然るに日蓮宗に於ては之に反して……摂受よりも寧ろ折伏を重視したり。」とあります。また『望月・仏教大辞典』には、「(日蓮は)特に折伏を以て弘教の方法とし、盛に権門の理を罵倒せり。」(「折伏摂受」項)と記されています。

 このような解説は、総ての辞典類が軌を一にしている所でありまして、日蓮を折伏本意の人であるとする説は、いわば通説化しているかの観を呈しているのでありますが、実は、そのような日蓮像は、偽書(偽撰の日蓮遺文)によって形成されたものである、ということを明らかにする、というのが本日の講演の主旨であります。

 

 日蓮を折伏本意の人とする典拠

 『曰蓮宗事典』(日蓮宗宗務院発行)の「摂折論」の項には、「聖人滅後、教団の伸張に伴い弘通の方軌としての摂折二門の進退用捨が論ぜられるようになった」として、「直弟流伝の時代から門流分立を見る鎌倉末から室町期は折伏主義が本宗の主流であり、安土・桃山を経て江戸前期は摂受主流の宗風となる。」といった変遷の様相が示されているのですが、その解説は「(江戸末期)宗門の大勢は摂受論に帰したのである。そして折伏論は、むしろ田中智学らの在家仏教者の間に継承されていったのである。」と結ばれています。

 ここに特筆されている田中智学には、摂折問題を論じて日蓮門下に大きな影響を及ぼした著書『本化摂折論』(明治35年発行)がありますが、その中に、日蓮を折伏本意の人と認定するに当っての根本資料とされる日蓮遺文2点が明記されていますので、その原文を次に挙げます。

 @摂折異目の分別をなされた御自判はと謂ふと、別して『開目鈔』と『如説修行鈔』の二書を挙げねばならぬ。(36頁)

 A『開目鈔』に(中略)「邪智諸法ノ者多キ時ハ、折伏ヲ キトス、常不軽品ノ如シ」とある。この「常不軽品の如し」の一断案は、実に全仏教の進退と諸宗の成敗に於ける、破天荒の[*]断である。(26頁)

 B『如説修行鈔』が即ち全篇折伏立行の専証である。『開目鈔』の義判と相照らして完璧満光している。(42頁)

 このような、『開目抄』の中の常不軽菩薩を折伏の人として特筆している一節と、『如説修行鈔』全篇とが、日蓮を折伏本意の人であると特定するに至る基礎資料であるとする考え方は、広く一般にも受け入れられて今日に至っています。

 ところが、右に取り上げられている2つの作品2節と1篇)に文学的もしくは文献学的な検証を加えますと、何れも日蓮の述作とするには不適当な要素を数多く含んでいる偽作であることが判明します。以下、その検証に入ることにします。

 

 『開目抄』の一節をめぐって

(1)思想上の問題

 まず『開目抄』でありますが、文永9年2月に佐渡の塚原で脱稿した『開目抄』は、摂受・折伏という言葉が見られる第2番目の作品でありまして、第1番目は前年の10月に相模の依智で佐渡送りを待機している時に書いた『転重軽受法門』、そして第3番目・第4番目は何れも佐渡の一谷で書かれた『富木殿御返事』(文末9年4月)と『観心本尊抄』(文永10年4月)とであって、日蓮が摂受・折伏ということについて自分との関わりを述べているのは、以上の僅か1ヶ月半ほどの間に書かれた4篇の遺文に過ぎません。

 数100篇も伝承されている日蓮遺文の中での4篇という数は、日蓮が摂受・折伏ということについて、余り大きな関心を寄せていなかった事を示すものですが、それは又、何故この時機だけにそのような発言が集中してあったのかという、別の興味を唆られる事実でもあります。

 この疑問については明確な解答が用意されます。なぜなら、文永8年9月に刑死の床に坐らされ、続いて遠島配流に処せられることになった日蓮には、

汝、この経文に相違する故に、天に捨てられたるか。(『開目抄』)

 という非難が浴びせられていたからです。ここに「この経文」といわれているのは、『法華経』安楽行品に説かれているところの、摂受を勧める一文でありますので、日蓮は「折伏をするからひどい目に会っているのだ」と弾劾されていたのです。

 それに対して日蓮は、仏典を引用して摂受・折伏の本義を解説し、「与奪、途を殊にすと雖も、倶に利益せしむ」(智『摩訶止観』)とか、「取捨、宜しきを得て一向にすべからず」(章安『涅槃経疏』)とか云われている通りであって、摂受だけを是とする難詰者の発言は偏頗である とたしなめているのが『開目抄』の摂折問答部分なのですが、そこで特に注目しなければならないのは、日蓮の云う折伏とは、『涅槃経』に説かれているところの、「刀杖を執持し、乃至、首を斬る」という、武力・暴力の行使を容認するものであるということです。

 したがって日蓮は、『涅槃経』そのものだけではなく、天台智の『摩訶止観』や『法華文句』、妙楽湛然の『摩訶止観輔行伝弘決』などを引用して折伏と弓箭刀杖との関わりを繰り返し説いているのですが、僅かに存在するという『法華経』中の折伏関連記述についても、天台智の『法華文句』の説を受け入れて、『法華経』を誹謗する者は「頭が七分に破れる」という陀羅尼品の一節を挙げているのです。

 要するに日蓮の認識する折伏とは、武力・暴力の介在を容認するものでありました。従ってそれは出家者には許されない行為なのであります。出家者と折伏との関係は、その出家者の有する宗数的真価に信伏した為政者や天神らが、それぞれの威力によって邪法の徒に懲罰を加えるという形で存在するものなのであります。

 それは、『勝鬘経』に「正法に違背し、諸の外道に習いて種子を腐敗せる者は、当に王の力、及び天・龍・鬼神の力を以て、之を調伏すべし」(勝鬘章)と説かれている通りで、具体的に申し上げるならば、『涅槃経』では覚徳比丘を護り戦って殉死した有徳国王、『法華経』では説法者を悩ます者の頭を破ると宣言した+羅刹女らの行為がそれに当るというわけですが、そのような考え方は、日蓮独自のものではありません。例えば永仁3年(1295)に成った天台宗の歌僧による『野守鏡』は、「建長・正嘉・正元うちつぐき人のやみうせ飢饉せし事」や「文末に彗星いで」だことから「異国の難きたりし」ことまで総て「神明の護持し給ふ顕密の法」に反する「愚学の禅定」「僻案の専修」が跋扈しているからだといって嘆いているのですが、このような発想は顕密仏教圈一般のものであったことが知られるのです。

 そこで明らかにしておかなければならないことは、秀れた宗教者は、その卓越した人格によって折伏を(間接的に)出現させる存在であり、折伏の(直接的な)実行は、神や為政者が担当するということです。この関係を日蓮は『観心本尊抄』の中で、

(末法の世に娑婆世界に法華経を弘める菩薩は)。
  折伏を現ずる 丶丶丶丶丶丶 時は賢王と成りて愚王を誡責し、 摂受を行ずる 丶丶丶丶丶丶 時は僧と成りて正法を弘持す。

と正確に表現しています。

 そのような次第ですから、『法華経』常不軽菩薩品の主人公で、あらゆる人の内に潜む仏性を拝み廻ったという不軽菩薩の営みが折伏行であるなどと、日蓮が考える筈は全くありません。『開目抄』の「邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす。」に続くところの「常不軽品の如し」の一句が、日蓮以外の人物によって添加されたものであることは、思想・信仰の上から云って、火を見るよりも明らかなことであります。

 

(2)文章構成上の問題

 『開目抄』の、摂受・折伏に関して述べられている一文については、その構成上からも、「常不軽品の如し」が不当な一句であることが指摘されます。なぜなら、日蓮は、折伏を解説するに当って、繰り返し『涅槃経』だけを引用してきたのですから、今、問題としている部分に、依拠すべき経典名を配置するとするならば、「涅槃経(大経)の如し」としなければならない筈なのです。そこに「常不軽品」が登場する必然性は全くありません。

 「折伏」を「常不軽品の如し」とする一句の、『開目抄』原典からの存在を認めようとする人は、それが、「摂受」を「安楽行品の如し」とする直前の一句に対応するものであると考えているようですが、それは違います。なぜなら、このあたりの文章は、日蓮の行為が安楽行品の経文に違背しているという冒頭の非難に應えたものでありますから、構文は、「常不軽品の如し」の一句以前で完結しているのであります。

 

(3)用語上の問題

 日蓮の、『昭和定本日蓮聖人遺文』(身延山久遠寺発行)の第1巻・第2巻に収録されている433篇の遺文の中には、不軽品や不軽菩薩が100回近くも登場するのですが、『開目抄』の件の一句のように、「常不軽品(菩薩)」と「常」の字を冠した言い方をしている例は、他に全く見当りません。即ち「常不軽品(菩薩)」という言葉は日蓮の用語法の埓外にあるものであり、他人の加筆であることを立証するに足る語であるのです。

 

(4)文献上の問題

 「折伏」を「常不軽品の如し」とする一句は、『開目抄』の本文を今に伝える古い文献には存在しません。即ち、日蓮の直弟子日興の講義を記録した『開目抄要文』(北山本門寺蔵)には見当りませんし、『開目抄』の写本でも、現存最古の日存本(1416年写)や、次に古い平賀本(1443年写)には件の一句が欠けています。もっとも平賀本には該当部分の行間に「如常不軽品」とありますが、この書き入れが何時なされたものであるかは明らかではありません。なお1488年写の本隆寺本には「常不軽品ノコトシ」とありますので15世紀後半には、その言句が添加されていたことが知られます。

 また今日、多くの方がたが御覧になる『開目抄』、すなわち岩波書店発行の文庫『日蓮文集』や日本思想大系・古典文学大系などの『日蓮集』に収められている『開目抄』には「常不軽菩薩の如し」の一句は存在しません。これは慶長9年(1604)に、身延山の寂照院日乾が、同山に所蔵されていた日蓮の真蹟と対校した写本の「常不軽のごとし」の部分に「御本に無し」と注記をした、その「日乾本」を底本としているからであります。従って今日のお話は、日蓮教団系で継承されている伝本に関してのことであることをお断りしておきます。

 

 『如説修行鈔」をめぐって

 『本化摂折論』の中で「全篇折伏立行の専証である」と強調されている『如説修行鈔』が、実は全篇偽作であると認定されることについて申し上げます。

 

(1)思想上の問題

 まず第一に、『如説修行鈔』で主張されている「折伏」の理念は、日蓮のものとは異ることを知らなければなりません。

 『如説修行鈔』には、「法華は折伏にして権門の理を破す」という『法華玄義』の文言が再三にわたって引用され、それを典據として、

今の時は権教即ち実教の敵となるなり。一乗流布の時は権教有て敵と成てまぎらはしくは実教より之を責むべし。これを摂折二門の中には 法華経の折伏 丶丶丶丶丶丶 と申すなり。

といったことが繰返し説かれているのですが、日蓮の真蹟遺文類には、そのような発想は全く無く、『法華玄義』の「法華折伏破権門理」という成句の引用など『注法華経』にさえ一度も見られません。

 日蓮が、『法華経』と折伏との関連について述べているのは、『開目抄』の摂受・折伏論議の中に引用されているところの、『法華文句』の「この経(『法華経』)は偏に摂受を明かせども、頭破七分といふ、折伏なきにあらず」という一節だけであります。このことは、『涅槃経』の「刀杖を執持し、乃至首を斬る」のが折伏であるとする考え方と軌を一にするものでありまして、日蓮の摂受・折伏観は、武力・暴力に関わるという行軌の範躊を出るものではありません。『如説修行鈔』に強調されているような、思想や言論に関する折伏などは全く考えられていないのです。

 なお、摂受・折伏ということを行軌の方便として、把えるのが、日蓮個有の発想ではなくて、当時の一般的なものであったということは銘記しておく必要があるでしょう。それは文永9年(1272)3月13日の『澄憲願文』(西大寺文書)に、

 犯戒の者を教化諌諭するに、折伏摂受の方便を廻らし、顕密権実大小の法、一一遍法界に弘通す。

とあり、無住道暁(1226-1312)が『沙石集』に、

地蔵は大日の柔軟の方便の至極、不動は強剛の方便の至極と云えり。ただ折伏。摂受の至極なり。

と記し、また円頓坊尊海(1253-1332)が『即位法門』で、

折伏は無間地獄に極まりたり。摂受は妙覚果満に極まれり。

と云っていることによって知られます。

 また日蓮の云う折伏が、行儀の中でも武力・暴力の介入を認めるものであるということは、日蓮が引用している『涅槃経』や『法華経』の文言によって明らかであることは前に述べましたが、これも当時の一般的な認識でありました。

 『沙石集』にも『太平記』にも、また日蓮の遺文『佐渡御書』にも、摂受と折伏とは、文と武とに譬えて説明されています。特に顕著な例示が見られるのは尊海の『即位法門』で、同書には、牛の皮を生け剥ぎにして天照大神の機織り部屋に投げ込んだ素戔鳴尊の行為が折伏であるとされています。日蓮の折伏についての発言が、経典の中の「刀杖」「斬首」「頭破」といった部分に限ってなされているのは、当時の、きわめて常識的なことであったわけです。

 

(2)文章構成上の問題

 日蓮は、頭脳明晰であって、その文章は、総体の構成にしろ部分の用語にしろ、配慮が行き届いていて隙がありません。しかし『如説修行鈔』は文章構成の乱れや用語の不統一が目立つ悪文で、とても日蓮の文章とは思われません。

 まず総体の構成について云うならば、『如説修行鈔』は、『立正安国論』と同じように、問者と日蓮とが問答をする形式になっているのですが、その第2問の「如説修行の行者と申さんは何様に信ずるを申すべきや」という問者の質問に対して、「答へて云く。当世、日本国中の諸人一同に如説修行の人と申し候は……」と答弁する人物は日蓮であるはずであるのに、その人物の発言は、「予が云はく。然らず。」と、日蓮によって否定されるという混乱が見られます。また、一篇の後半すべてが一人物(日蓮)の発言で占められていて問答体構成の前半と体裁を異にしているのも、作者の構想力の貧困さが指摘されることであります。

 

(3)用語上の問題

 第3に問題となるのは用語に関わることです。『如説修行鈔』には、その書名にもなっております「如説修行」という言葉が13回も使われています。この言葉は、『法華経』に9回登場するほか、各経典のあちこちに見られる魅力的な熟語なのですが、日蓮の真蹟遺文中には、1度も用いられていません。この、奇異な事実の裏には、次のような事情があったと考えられます。

 「如説修行」という言葉は、『梁塵秘抄』の今様に、

女の殊に持たむは 薬王品に如くは無し 如説修行 年経れば 往生極楽疑はず

と歌われていますように、『法華経』の薬王菩薩本事品を典拠として、女性が阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを保証する合言葉として流行していました。いや女性ばかりでなく、それが男性社会でも同様の信仰のもとで迎えられていたことは、『今昔物語集』(巻17の第40話)に収載されている悪党改心談によって明らかなところでありまして、「如説修行」と云えば極楽往生の果報が想われる、というのが日蓮を取り巻く一般的な情勢でありました。とすると、日蓮が「如説修行」という言葉を一言も発していないのは、けだし当然なことであったと云えます。浄土教批判に余念の無かった日蓮が、もし「如説修行」と云ったとすると、忽ちにして念仏者たちの攻撃の矢面に立たされてしまうのは間違いないことなのです。比叡山で10余年も研鑽に励んだ問答の名手日蓮に、そのような隙があろうはずはありません。

 ところが『如説修行鈔』の作者は、自らを「如説修行」の者であると誇示し、

我らを 如説修行 丶丶丶丶 の者といはずは、釈尊・天台・伝教等の三人も 如説修行 丶丶丶丶 の人なるべからず。

といった具合に、日蓮が禁句とした言葉を連発して省みないのですから、日蓮とは異質な文化圏に息づく人であったと考えざるを得ません。

 なお、用語に関してはもう一つ、日蓮は摂受・折伏の語を必ず一双で用いて論を展開する人である事が真蹟遺文に徴して明らかであります(資料『開目抄』参照)ので、「折伏」ばかりを多用強調している『如説修行鈔』の偽書性は、その点からも指摘されることを申し添えておきます。

 

(4)文飾の問題

 第4には、文飾に関する問題点が指摘されます。『如説修行鈔』の作者は、自らを法戦の闘将に見立てて、

法王の宣旨、背きがたければ、経文に任せて権実二教のいくさを起し、忍辱の鎧を着て妙教の剣を提げ、二部八巻の肝心妙法五字の旗を指上げて、未顕真実の弓をはり、正直捨権の箭をはげて、大白牛車に打乗て、権門をかっぱと破り、かしこへおしかけ、こゝへおしよせ、念仏・真言・禅・律等の八宗十宗の敵人をせむるに、或はにげ、或はひきしりぞき、或は生取られし者は我が弟子となる。或はせめ返し、せめをとしすれども、かたきは多勢なり。法王の一人は無勢なり。今に至りて軍やむ事なし。「法華折伏破権門理」の金言なれば、終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、……

と、軍談調の躍動的な美文を綴っているのですが、日蓮の真蹟類には、このような文飾を見出すことができません。特に注目されるのは、「権実二教のいくさを起し」「正直権捨」「権門を破り」「権教権門の輩をせめをとし」といった具合に、文章全体が、日蓮の全く採用しなかった「法華折伏破権門理」(『法華玄義』)の一句を敷衍することに終止していることであって、この側面からも日蓮の述作では無いことが知られるのです。

 

 「偽撰遺文の作者と動機

 以上、『開目抄』における「折伏」を「常不軽品の如し」とする一句と、『如説修行鈔』の全篇とが、日蓮の筆になるものではないことを明らかにしましたが、次には、それらの偽撰遺文が、誰によって、どのような動機で作成されたのかという謎を解いてみたいと思います。

 そこで、問題の2作品を比べてみますと、両者には共通する目的・意図があることが分かります。それは、日蓮を折伏本意の人であると特定し、その門下は折伏行に邁進しなければならないという行動軌範を強く打ち出そうとするものであります。

 そのために、『如説修行鈔』は、日蓮が唯一絶対のものとして信奉する『法華経』が権経の教理を破折する折伏経典であるということを強く主張し、『開目抄』の一節は、日蓮が理想的宗教者と仰ぐ不軽菩薩を、折伏本位の人であると特定しているのです。確かにその2件が証明されるならば、日蓮は間違いなく折伏本意の人であるということになるのですが、実は何れもが、日蓮の真撰遺文の内容とは違背するものであることが判明しました。

 では、それらの偽書類は誰によって作制されたのでしょうか。この疑問に対する解答は『如説修行鈔』の次の一節から得られます。

今の時は権教即実教の敵と成る也。二乗流布の時は権教有て敵と成て、まぎらはしくは実教より可。是を摂折二門の中には法華経の折伏と申也。天台云「法華折伏破権門理」まことに故ある哉。然に摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、冬種子を下して春菓を求る者にあらずや。鶏の暁に鳴は用也。宵に鳴は物怪也。権実雑乱の時、法華経の御敵を不シテ 山林に閉寵り 丶丶丶丶丶丶 摂受を修行せんは 丶丶丶丶丶丶丶 、豈法華経修行の時を失う 物怪 丶丶 にあらずや。

 ここにも『法華玄義』の「法華折伏破権門理」の一句を引き、「法華経の折伏」ということを強調するという非日蓮的特質が指摘されるのですが、特に注日されるのは、 山林に入ることを摂受と認定 丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶 し、それは物怪の仕業であるとする弾劾がなされていることです。

 佐渡にあって、鎌倉在住の弟子檀越たちを叱咤激励していた日蓮には、自分が遠からずして山林に寵る身になろうとは夢にも思われなかったことでしょう。ところが、文永11年(1274)3月26日に佐渡から鎌倉に帰着した日蓮は、5月12日には鎌倉を立って身延山中に隠棲してしまいます。

 入山後の書簡には、

結句は一人になりて日本国に流浪すべきみにて候。(文永11年5月17日付『富木殿御書』)

度々あだをなさるれば、力をよばず山林にまじはり候ひぬ。(文永111111日付『上野殿御返事』)

鎌倉中に且らくも身をやどし、迹をとどむべき処なければ、かゝる山中の石のはざま、松の下に身を隠し、(建治元年4月付『法蓮鈔』)

去年かまくらより此ところへにげ入り候。(建治元年7月12日)

などといった、不本意な入山を歎く文言が散見されるのですが、日蓮が、このような苦境に立たされることになった原因は一つしか考えられません。それは、門弟間に不協和音が増幅して収拾がつかなくなったことです。

 日蓮の流刑地佐渡からの帰着、それを待ち受けた門弟といえば、度重なる弾圧にも屈することなく、ひたすらに日蓮の教えを信奉し、教線の拡張に挺身しようとする精鋭たちであった筈です。

 彼らが純心であればあるほど、教団の運営方針の意見対立は尖鋭化したに違いありません。即ち、教団壊滅の危険を省ずに強硬路線をばく進するべきであるとする、いわば折伏派と、教団百年の計を慮って迂回路線も組み込むべきであるという、いわば摂受派との対立です。

 日蓮が、いかなる困難にもめげずに信念を貫くひとであったことは、その受難の人生が語って余りあるところですが、その日蓮が、「鎌倉に且らくも身をやどし、迹をとどむべき処なければ」「力をよばず山林に」「にげ入り候」と告白しなければならなくなった事態とは、日蓮が且て経験したことのない危機であったことは間違いないでしょう。とするならば、それは外部からの圧力ではなくて、教団内部に於て、にわかには結着のつきかねる対立が発生し、日蓮は、その何れにも組することのできない立場に追い込まれてしまった と考えざるを得ないのです。

 日蓮の山林退隠は、「結句は一人になりて日本国に流浪すべき身」になるかも知れないと危ぶまれるほどに、確たる見通しの立たないところの苦渋の選択であったわけですが、そのような道を選んだ日蓮に対して、直ちに従者を遣わしたり、供物を贈ったりする弟子もいました。然し、その反面、強固な反対の烽火を上げる人びともいたのです。

 「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして山林に閉じ寵り、摂受を修行せんは、あに法華経修行の時を失う物怪にあらずや」とは、まさに、身延山に退いた日蓮、および日蓮の行為を容認する弟子たちに対する非難の怒聾であると考えざるを得ません。つまり、日蓮の身延山人山を不満とする折伏派の人たちによって作られたのが、今日話題にしている偽書であると思われます。

 それらの偽書は、日蓮教団内部の、主として摂受派の人々を対象として発信されるものですから、広く社会に通用するものである必要はありません。一般性を欠いていても構わないのであります。『開目抄』で、常不軽菩薩の礼拝行を折伏であるとしているのも、それが、悪道に落ちた母を救う孟蘭盆会の行事として7月14日に盛行していた(『閑居友』上の9。『明月記』)という当時の習俗に背くものですし、『如説修行鈔』が、日蓮の一度も口にしなかったところの「法華は折伏にして権門の理を破す」や「如説修行」という言葉を平然として多く用いているのも、社会性を逸脱していることなのです。

 『如説修行鈔』の宛名が「人々御中へ」となっており、「此の書、御身を離さず、常に御覧あるべく候」という注意書きを伴っているのも、この遺文の閉鎖性を示すものとして注目されるところであります。

 

 日蓮の実像とは

 『開目抄』の、常不軽菩薩を折伏行の人であると特定している部分と、全篇一貫して折伏に徹することを勧めている『如説修行鈔』とは、身延山に寵った日蓮を、摂受に堕した者として非難し、折伏路線を邁進すべきであると主張する弟子たちによって作られた偽書であることが、明らかになったと思います。

 彼らの営みは、熱烈な信仰に支えられたものであり、師匠の名誉と教団の発展とを願ってなされたものであることは間違いないでしょうが、もともとが、参籠という日蓮の実践を否定するところから出発した行動なのですから、そこに理想とされている折伏者像が、日蓮の実像に反するものであることは云うまでもありません。

 ところが、15世紀後半以降の『開目抄』の写本が、こぞって、常不軽菩薩を折伏の人であるとする一句を有しているという事実に示されているように、折伏派の伸張は並々ならないものがあって、本日冒頭に紹介しました『仏教大辞彙』の「折伏は只摂受が為めの前関を張るに過ぎざるなり。然るに日蓮宗に於ては之に反して(中略)摂受よりも寧ろ折伏を重視したり」という解説のような認識が一般に浸透しているのが現実であります。しかしそれは、日蓮遺文の、真撰偽撰に関する厳密な検証を怠った結果の誤りであることが、今日の話でお分りいただけたと思います。

 では次に摂受・折伏という弘経の行軌について、日蓮は自分の宗教人生との関わりをどのように把えていたか、ということを考えてみましょう。

 日蓮は、文永9年(127210月、佐渡に流されて直ぐに書き始めた。『開目抄』の中に、

日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。これは魂塊、佐渡の国にいたりて(記す)かたみ(である)。

と述べていますが、そのような臨死体験に続く瀕死の危機は、日蓮を極限状況にまで追いつめていました。

 文永9年4月10日付の『富本殿御返事』が、

日蓮、臨終、一分も疑ひなし。

と筆を起こし、

生涯、もとより思ひ切って候。

と、生きる臨みが断たれたことを告げ、

万事、霊山浄土を期す。

と諦観を表明しており、文末10年閏5月11日付の『顕仏未来記』に、

今年、今月、万が一も身命を脱れ難きなり。

と切迫した状況を報じていることによっても、日蓮の置かれていた立場の酷烈さが、よく知られるのですが、そのような事態の中で、日蓮は、明日にも迫っているの意義と、摂受・折伏という行軌および不軽菩薩の生き方と自分との関連について、明確な結論を得ることになります。

 その結論が一目で見られるのは、摂受・折伏という言葉と、師表としての不軽菩薩とが初めて登場する『転重軽受法門』という遺文です。この遺文は、かろうじて斬首をまぬがれた日蓮が、佐渡への移送を待たされていた相模の依智で、文永8年10月5日に書いたものなのですが、この書には、

『涅槃経』に転重軽受と申す法門あり。先業の重き、今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかふる重苦に値ひ候へば、地獄の苦はつときへて、死に候へば、人・天・三乗・一乗の益をうる事候。不軽菩薩の悪口罵詈せられ、杖木瓦礫をかほるも、ゆへなきにはあらず。過去の誹謗正法のゆへかとみへて、「其罪畢巳」と説て候は、不軽菩薩の何に値ゆえに、過去の罪の滅するかとめみへはんべれり。

と記されています。

 日蓮は、不軽菩薩が受難を てこ 丶丶 として成仏したように、自分も、現在遭遇している苦難によって未来の成仏が保証されることになるという確信を得るに至ったのです。

 そのような心境に達した日蓮にとっては、受難は寧ろ歓迎すべき成仏の契機でありますので、武力・暴力の折伏をもって自分を圧殺しようとする為政者・役人らに対しても、

  諸の悪人は又善知識なり。摂受・折伏の二義、仏説に任する。(文永9年4月10日付『富本殿御返事』)

と、『法華経』の教えにまかせて摂受に徹した感謝の念を懐き、また、

願はくは、我を損する国主等をば最初に之を導かん。(文永10年閏5月11日付『顕仏未来記』)

と、不軽菩薩の営みに習って、加害者の救済を最優先させているのです。 偽書を排除したところに浮かび上ってくる日蓮の実像は、摂受を本意とするものであることを確認しておきたいと思います。

(立正大学名誉教授)

 

戻る