聖訓一百題(第24)



堀 慈琳 謹講


 袋キタナシトテ金ヲ捨ル事ナカレ。伊蘭ヲニクマバ栴檀アルべカラス。谷ノ池ヲ不浄ナリト嫌ハヾ蓮ヲ取ラザルべシ。

  (縮遺906頁)


 『祈祷抄』の御文である。法華経の行者は、行者其れ自身の戒行薫習の徳で、法華経の利益を顕はすと云ふ理のものでない。法華経其ものの御徳で以て行者が光るのである。「法貴きが故に人貴し」とも、「戒能く身を持つ」とも仰せられてるのが其れである。其は、経力の偉大なる事を顕はすためとも見ゆる。

 他の教行では、行者、信者自身の、戒行功徳を主とするのであるから、却って其経教の狭小なる事を顕はさんとしてあるのである。其経教に指したる価値も無いのに、何彼と尾鰭を付けて、法華の経力の偉大さに似せて、労小功多の誇りを為すのは、一種の瞞着である。易行と云ふのも、大行と云ふのも、王三昧と云ふのも、決して当てにはならぬ。売薬の能書、温泉の効能書ほでも無い事である。寧ろ此は劣教は劣教、権教は権教と自覚して、自らの努力を以て、其依経の不足な所を補ふ方が利根である。

 或は却って勝教の、実教の信行者の、漫りに其依経に信頼し過ぎて、怠慢の限を尽すものよりも、自他の効果が多いかも知れぬ。円人の実相誇りが破れ大乗と貶さるる。有名無実の大乗戒よりも、小面倒でも具体的な小乗戒の方が善いと云はれた時代のあつた事を、吾人は忘れてはならぬ。

 「法貴きが故に人貴し」と云ふことも、「戒能く身を持つ」と云ふことも、其は究極せる本然の道理である。達観せられた大原則である。けれども吾等底下の愚者、昧者、未究者、未達者、牛羊の如き普通人には、通りが悪るいのである事は、悲しい哉事実であるから仕方がない。
「依法不依人」も、「法貴故人貴」も、「戒能持身」も、「末法無戒」の語も、此を信ずる自行者には、大権威であり大功徳であるが、此を信ぜざる側からは、却って冒涜であり、懶惰であるとの嘲笑を買ふに過ぎぬ。

 さすれば自行に利あるも化他に大損あるので、二利円満と行かぬ。弘教者が、仮令、粉骨砕身、不惜身命に、一生を送る者が幾百人あつても、世界悉檀を失するから世界の益を受けぬので、一向に能率が揚らぬ事になつてをる。宗門の狭少なのは、此に縁由する所が多いではなからうかと、密に按ずるのである。

 願くば、此辺に細心なる深き注意を払はれたきものである。其は、一口に何と云へば善いか、叱咤怒号の強折の裏には、主師親の大慈悲の必在すべきであるやうに、折檻打擲の笞の下には、慈愛の涙が流れてあらねばならぬやうに「戒能持身」「末法無戒」の裏には、必ず慚愧報恩のやるせない不断の自責が必要であり、「依法不依人」「法貴故人貴」の下には、人法不二、境智冥合の聖域に達するまでの無休不退の努力が必要であると云ったら善からうと思ふ。

 選ばれたる特権者でもあるかの様に、徒に無戒に誇りて、乱暴を極めてはならぬ。法貴に慢じて、夜郎自大を定めこんではならぬ。日々の行作進退にも、祖書経文拝読の上にも、比謹粛の意遣ひが第一であらうと、老婆親切を書いて見る。 

 別して本引文の所に、深く此感じがある。但し先達有識の御方には、此等の文字が御目障りであらう事を御詫してをく。

 本題引文の文字が、余りに解り易いと思ったから、後に付加すべき注意が先に飛び出しましたで、元に還って一通りの注釈を試みる。

 「袋穢シトテ、金ヲ捨ツル事ナカレ」 とは、容器が汚れていても、破れていても、又其本質が鹿末であつても、中に在る黄金の価値に変化はない。多少の金錆があつても、何等の故障にはならぬ。仮令、兌換紙幣でも猶然りである。手の切れるやうな新しき日本銀行直受のものでも、使はれて使はれて、皺クチャになり、ヲマケに負傷して膏薬張りのミットモナイのでも、五十銭は五十銭で通用して、一銭の損もなすに及ばぬ。ましてや、其穢い紙幣が、其れ巳上のヨゴした財布に入っていたとて、捨つる者は無い筈である。此譬への、袋は行者である信者である、黄金は法華経であり御題目である。

 「伊蘭ヲ憎クマバ、栴檀アルべカラズ」とは、印度の国に末利山と云ふがあつて、其山に伊蘭と栴檀とが同生してをる。伊蘭と云ふは筍ほどの草で、一帯に密生して美しい紅い花が咲くが、猛烈な毒を持ってをるのみならず、悪臭が数百里に及ぶと云ふことである。其叢の中に牛頭栴檀が発生する。地に芽ぐんでる時は、伊蘭の悪臭に圧せられて、何の香も聞へぬが、地上に生ひ出づると、直に上妙な馨香を放ちて、四囲の伊蘭の悪臭も忽に聞へなくなると云ふ事である。
其上妙の銘香木、牛頭栴檀を求むるには、一度は伊蘭のイヤナイヤ叢に入らねばならぬ。此譬えは、末代の行者信者は伊蘭の如き、鼻持のならぬ者であるけれども、其品行の悪るい智恵の乏しい少しも尊敬の念を起すに足らぬ者共が、却って上妙の香気ある栴檀のやうな、法華経御題目をひしと懐き持って居るとの事である。

 「谷ノ池ヲ不浄ナリト嫌ハゞ、蓮ヲ取ラザルべシ」とは、谷も池も、地の窪んだ所に水の溜つてをる所である。別して蓮池は、汚穢な水を要する。蓮の栄養に適するだけの肥料を持つ池でなければならぬ。清浄にして、手にも掬すべき池水には、蓮華も、蓮根も能く育たぬのであるから、蓮田の池の水は不浄と定まってをる。若し清水の岩間を泄れ出づる底の所には、蓮藕は出来ぬ。即ち蓮根は取れないのである。此譬えは、信者行者軍は、蓮田のやうに汚穢いものである。精神も操行もがだ。然れども、其れに、法華経の御題の蓮華が咲き蓮根を持っていると云ふ事である。

 此で、一通り本題の御文は理解し得らるゝが、本抄が『祈祷抄』であるで、此文の次上と次下との御文を参考に列べて、宗祖の御意を明かにしませう。

 「大地ハ指サバ外ヅルゝトモ、虚空ヲ繋グ者ハアリトモ、潮ノ満干ヌ事ハアリトモ、日ハ西ヨリ出ヅルトモ、法華経ノ行者ノ祈ノカナハヌ事ハアルベカラズ。法華経ノ行者ヲ諸ノ菩薩人天八部等、二聖二天十羅剰等、千ニ一モ来テ守り給ハヌ事侍ラバ、上ハ釈迦諸仏ヲ蔑り奉リ、下ハ九界ヲ誑カス失アリ。行者ハ必ズ不実ナリトモ、智恵ハ愚ナリトモ、身ハ不浄ナリトモ、戒徳ハ備へズトモ、南無妙法蓮華経ト申サバ必ズ守護シ給フベシ」

此下が、即、本題の引文である。其次は、

 「行者ヲ嫌ヒ給ハゞ、誓ヲ破り給ヒナン。正像既ニ過ギヌレバ、持戒ハ市ノ中ノ虎ノ如シ。智者ハ麟角ヨリモ希ナラン。月ヲ待ツマデハ、燈ヲ憑ムベシ。宝珠ノ無キ処ニハ金銀モ宝ナリ。白鳥ノ恩ヲバ、黒鳥ニ報ズベシ。聖僧ノ恩ヲバ凡僧ニ報ズべシ。疾ク利生ヲ授ケ給へト、強盛ニ申スナラバ、如何デカ祈ノ叶ハザルベキ」

 本題と、此等の文とを拝する毎に、仏恩の広大なる事を悦ばねばならぬ。何として、致し方なき無智放埓の凡夫を、斯くまで慈しみくださるであらうと、慙愧の次ぎには、無間の行願を起して、広宣流布の御手伝に勇しまねばならぬ。不退の菩薩行を、何なりと縁に任せて社会の標的となるやうに励まねばならぬ事を御互に警策して進みませう。

 猶、「市中の虎」等の『燈明記』の法門は、更に折に会って委しく申上げませう。



                                 『大日蓮』大正十三年十月号

 

 

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