法 話(第13話)


寂莫道人


更賜寿命



 無始の元初より、無終の永劫に至るまで、年々歳々、改まる年の始の新しき吾人の欲求は何てあらう。人類の願望は何であらう。其は「更賜寿命」である。

 年末の喧嘩面越されずに越せし苦労は何処へやら、明けまして御目出度ござります。旧年は御厚情に預りました。本年も相変りませずと、晴れやかな祝詞の、人民相互の更賜寿命の応答ではあるまいか。昨年は殊に劇げしき世路の艱難を凌がせていただきし事を感謝いたします。

 本年も願くは大なる御力を下し賜はれと報恩し祈願するのは、長上に対し神仏に対する更賜寿命てあらう。一身の健康、一家の和合、一国の興隆、世界の平和、何れも寿命を離れぬ。健康を損すれぱ生命にかゝはる。和合を破れぱ破産をする、興隆が止れぱ滅亡に向ふ。平和が破れぱ大争乱起り、皆大小夫々の寿命を縮むるのである。

 新年の祝福が過ぎての暴飲暴食流連荒亡、身を破りて病院入り、家を破りて落城蟄塞能くある事である。家内和合が過ぎての我侭喧嘩、不貞寝する人があり、遊び廻る人ができ、瞬く間に一家の破滅、貸しや札が斜に張られる気の毒な事である。

 我党の奉公ぶりを誰に見せようとて揚足とり、屁理屈、贅小言、誠意抜きの政争三昧、挙国一致は何のまじない、高じては国を危くする。是又無き事ではあるまい。パビロニヤ国がなくなった。フェニシア国もエジプト国も、広大なるローマ国も滅亡した。ジュー族も散乱した。ハワイ族、アイヌ族も苗族も減少するぱかりだ。

 併し何れの人、何れの種族、何れの国も、皆己れを誼ふものはなからう。新年の祝福、平生の願望に、平和栄光永久の意を除外するものはなからう。少数の厭世者と反家庭主義者と極端なる非国家主義者の外には、世界の滅亡を祈り人類の絶望を夢みる者はなからう。けれども国家や民族が、此の少数の反道徳者にのみよりて衰滅した事はない。熱心なる祝福者、激越なる現世執著者が得てして国家を危くする。一口に穢なく云へぱ貪慾の所為、上品に云へぱ優越慾の所為ぢや。残害の行為も高慢の心も修羅の心も、皆此に伴ふのである。貪慾から起りて所謂食ひしんぽうで、日本料理ござれ支那料理ござれ、洋食も結構だと貪ぼりながら、己れの胃は豪気なものぢや。己れの舌は百味を識ると優越の己惚れを起す。厭くことなき獣慾にかられて色を江湖に漁りながら、己れには自然に美人を悦服せしめ、天下を挙げて妻妾にするのが艶徳を有すると優越がる色男があると、偶には男子は甘いものぢや、妾の美容と蜜舌には衆星の北辰に向ふ如く、甘きに寄り来る蟻の如くに、きざ男どもが慕い来る奴等を翻弄し尽して、恋の廃兵の山を築き、世界の男子を侍豎たらしめて女王の権威を示さん等の、新しき所謂オッに自覚したる女子もあるとの事。

 周の穆王が造父を御として八駿を駈り、崑崙山に西王母を訪ふたるも、秦の始皇帝が渤海に鷁首を浮べて蓬莱方丈の神仙を求めたるも、漢の武帝が天下の膏血をしぼりて柏梁台を起し、承露盤を設けて神仙の下向を待ったのも、唐宋の帝王たちが道士を崇めて金丹を練ったのも、皆現世貪着で食膳方丈後宮三千百官聳伏の帝王の尊貴が捨てがたく、此の優越慾にかられて現世の寿命無量を祈る為であったが、結果は反比例で、皆病気で早死をして、贏と得たものは、其の贅費を民の膏血で埋め合せ、国民を疲弊せしめて、国を衰弱せしめただけだとは憫笑の至りぢやが、欧州大戦乱の禍の根には、此の国王の権威、国家の隆興の優越慾が、其の帝王にも人民にも溢ふれてる国があるからであらう。

 併し現代は、食膳方丈後宮三千的の貪慾は欧州の皇帝間にも少なからうが、王者の高矜だけはあらうと思ふ。自分のやうな現世に迂遠な道人には、能くも分からぬが、其れは独逸皇帝ぢやといふ事、若し何れにしても、不幸にして身を破り家を破り国を亡す等の不祥事に陥られなけれぱ幸いぢやと念じてをる。

 貪慾としても優越慾としても、一身のみに立脚し一家一国の為のみの祝福の更賜寿命は、動ともすれぱ意外に不幸の結果を招きて、却て永久の寿命を得られない。永世の平和を得られない。此はこの寿命といふやつが、有形的であるからである、肉身的であるからであらう。若し此に超越した無形的な仮に心霊的な寿命であったら、其の様な不都合はあるまい。其れぱかりでなく、其の無形の幸福の中に有形を包有し、心霊の平和の中に肉身を包容するであらうと思ふ。肉の長生不死は西王母の桃を盗んでも覚束ない、金丹を服してもだめだ。現代の進歩せる衛生の道を尽しても百五十歳迄はどうであらうか。大隈伯の125も其暁にならねぱ定まらぬ。霊の常住は修徳に依りて出来るのみならず、肉の長生をあきらめて霊に活きんとして、却って肉を永持せしむる事は有勝である。

 『法華経の寿量品』の文に「更ニ寿命ヲ賜へ」といふのは、文に滞ふれぱ、病める子が医師の父に病をなをして命を活かして呉れと願ふのてあるから、肉体の事のやうであるけれども

頭に「譬如良医」云々とありて、全く譬喩にひかれたもので、経文の意は良医の父は御本仏で、「今留在此」の良薬は妙法蓮華経の御大法で、病める子は且夕に迫れる、失心の子は貪慾に眼闇らめる優越慾に逆上してをる吾々一同である。

 「更に寿命を賜へ」とせがむのは、肉身ぱかりぢやない。御本仏の常住の御寿命に帰入したいといふのである。そこで肉身の方が寿命なら、此の方は慧命といふべきである。浮世の罪福によりて連持せられたる彼に生れ此の死する五十年百年の消えて無くなるはかなき人生ぢやない。智徳の結晶で、琢けぱ磨くほど玲瓏に、働らけぱ作らくほど堅実に、拡ぐれぱ弘ぐるほど無辺に、耐ゆれぱ堪ゆるほど永久に活くるものである。其れも真如とか法性とか真理とか、雲つかむやうな抽象名辞のものでない。上は法身理性に冥じ、下は随縁衆生に契ふ仏智てある。報身如来とも、自受用報身仏とも称してある。但し空虚なる神仏を以て顕はすべきでない。擬人偶像を以て表はすべきでない。

 吾々は、宗祖日蓮大聖人が正に此の慧命の全体を御内証せられてあると尊信する。『涅槃経』をぱ贖命教と称してある。其れは釈迦牟尼仏御入滅の後は、印度の人々現世に放逸に流れ、宗教に辺見を懐きて、道を尊まず教を重ぜず、慧命正に断へなんとするに、『涅槃経』の扶律談常、即ち戒律復古のちんまりとした教風は能く其の命を贖なふたとある。贖命壹涅槃のみならんや、教勢推移の時、道風過度の際には必ず大小の贖命者が出でねぱならぬ。

 吾が蓮祖は、釈尊の末法をして、更に本仏の正法に廻瀾せしむべき大贖命者である。台密・東密の貴僧に悩まされ、禅・念仏の空喝哀音に淫されて、気息掩々として将に絶へなんずる釈尊の慧命を贖はれたのである。

 御開山日興上人・目目上人以下の聖僧方は、勿論其の芳燭を継がれたる大贖命者である。吾々僧俗一般の宗徒等、おうけなく小贖命者を以て自任して、敢て其の天職に恥じざらん事を期すべきてある。

 「久遠即末法、末法即久遠」とは時間的に、「日蓮が五大は法界の五大、法界の五大は日蓮が五大」と喝破せられたのは空間的に法界の智徳を一身に呑吐する自受用身の内証を示されるものと拝すべきぢや。

 「日蓮ガ慈悲広大ナラパ、南無妙法蓮華経八万年ノ外、未来マデモ流布スベシシ」とは、時間的に本仏の大慈尽きる際なき事を示し、 「日本乃至漢土・月氏・一閲浮提ニ、人ゴトニ有智無智ヲキラハズ、一同ニ他事ヲステ南無 妙法蓮華経卜唱フベシ」とは、空間的に本法の広布を教令せられたのである。

 斯の如き、宗祖も出発点は「更賜寿命」と叫ぱれたのである。叫んで与へられた慧命を増進して、軈がて先仏釈尊の慧命を相続せられた。況んや吾人は新年の始めに「更賜寿命」と叫けんで、目新の生命を得べきである。更に進んで、年分の智徳の増進を油断なく心懸けねぱならぬ。国民としては充実せる生活を、宗徒としては溌溂たる信行を重ね、本仏偏法界の智徳の実現を促進せにやならぬ。

 蓮祖御滅後633個の新年を迎へ、開山富士の基礎成りて猶627年の星霜を送るに、宗門微々として存在を疑はれ、宗祖報身慧命の表徳は、日本国土にすら暁天の星寂寥たるに類するのは、時の到らざるか、宗徒の惰眠なりしか、長大息の至りである。

 さりながら、過ぎたるものは追ふべからず。吾人は、茲に新に私心を去り、貪心を捨てゝ純浄に、切実に「更賜寿命」を叫ぶことを得せしめよ。久遠の生命活溌に発現し元初の浄智湛々として溢れ出でんこと、疑なかるべしである。


                              『自然鳴』大正4年1月号

 

 

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