法 話(第12話)


信 乗 坊

 

 自分は、御開山日興御上人、三祖日目御上人の重須・上野の御事跡を考ふると、少欲知足の御苦労の跡の勿体なさに暗涙に咽ぶ事がある。

 其は御開山の方も目師の方も、農作を為されたやうである。其御手作の瓜なんどを上野より重須の興師に献ぜられた事が度々ある。重須の方でも、今年は畑が日焼けで一つも瓜の顔を見ぬのに、珍らしい物であると書かれた消息もある。又、御開山の質素の御暮しを見らるゝは、年の暮の二十九日に至りても、年頭用の御酒が用意してなかった事があるに、目師より種々の供物と共に酒を献ぜられたで懇の御礼状が残ってをる。

 現代とは違って、何事にも酒を先とする僧俗一般の此時代に、酒に不自由を為されし事、勿体ない限りである。と思ふて大酒家は幾分の節約を為さるのも修養の為にならう。殊に其当時の上野ときては医士などあらう筈はない。病気の時の御困苦は如何ばかりであらう。

 或御消息の端書に、かういふことがある。

 「労ハサウヤウノ無サニ、麦飯一トイモ五ト食ヒテ、カツエシニ卜同事也」

 此の労とあるは所労、即ち病気の事で、目師は大病をしたけれど医士もなく薬もなく、仕方がないから麦飯一椀と芋五個とを食べてをる。此では、追付餓死するであらうと云はれたのである。

 此の御病気は足の踝の痛みで、曽て奥州往復の際に痛められて、左足のツブブシ(くるぶし)右足の側裏等と、度々必死の労ひを為されたのである。長途御行化節々の御苦労の為である。

 殊に正慶3年10月下旬には、74の御老体を以て遥々天奏諌言の為めに京都に赴かれる。此時は御足の持病が全快しとも思へぬ。よし小康の時でも陰暦11月始めの寒空に、殊に美濃の高地なる風雪の名物なる垂井関ケ原に懸られては、持病の再発は疑ひない。馬に召されし訳でもない。駕篭に乗る時でもない。草履に足を托して水にむ雪にも浸たる事なれば、持病の再発無論である。11月15日の垂井の御遷化も多分此の御病気に基くのであらうと思ふ。

 但し、御随行且は御案内の日尊上人は68歳の御老体である。又御随行の日郷上人も50有余の老人である。何と宗門発展国家安泰の為め献身的に西上せらるゝの御意気は、師弟共に中々の壮烈のものではあるまいか。馬がほしい駕篭がほしい、雨を厭い雪を避くる底の吾々愚僧どものやうな我利我利の柔弱漢に出来る事でない。少欲知足・死身弘法の大行者に自づと備っていられるのである。

 仮令、目師は空しく壮志を懐いて中途に倒れ給ふとも、其意気は法子法孫に伝はりて千万年の後の儒夫をも奮起せしむる訳である。

 況してや宗祖大聖人の御一生は申すも愚かや、全くを正直と少欲知足との体現である。南都北嶺掛錫の始は云はずもがな、清澄建宗の当初に寸分も欲に眼の暗らみたまふ事があったら、清澄山主といふ好餌を思はれたら、念仏無間の音も真言亡国の声も、喉から引込んだであらう。まして千古未有の南無妙法蓮華経の大声に於てをやである。四箇度の大難無数の小難、更に痛痒を感じたまはぬは此の徳である。伊東の荒波、佐渡の風雪、肉食者流の甘んじ得らるゝものでない。身延の御山籠申す言の葉もない。人跡絶へたる山ふところ僅に膝を容るゝの菴室にも、少欲知足余慶を法界に布くの大徳には光りを蔽ふ衣もなく、徳を慕うて寄りくるは、寄りくるは、

人ナキ時ハ四十人、アルトキハ六十人。イカニセキ候へドモ、コレニアル人々ノ兄トテ出来シ、舎弟トテサシイテ、シキイ侯ヌレハ、カゝバヤサニ、イカニトモ申へズ、心ニハ静ニ菴室結ビテ小法師卜我身計御経ヨミマイラセントコソ存テ侯ニ、カゝルワヅラワシキ事侯ハズ。又年明ケ侯ハゞ、何クヘモ逃ゲント存侯ゾ。」(『兵衛志殿御返事』縮遺1824頁)

と、歎声を池上氏に発せらる。されども妙常日妙尼へは、

又、今度寄セナバ(蒙古ノ大軍也=堀師ノ私注)、先ニハ似ルベクモアルベカラズ。前ニ支度シテ何処へモ逃ゲサセ給へ。乃至、如何ナル事モ出来侯ハゞ、是へ御ワタリアルベシ、奉見。山中ニテ共二餓死シ侯ハン。」(『乙御前書』 縮遺1295頁)

と云はれ、南条殿へは

如何ナル事アリトモ歎カセ給フベカラズ。フット思ヒ切テ所領ナンドモ違フ事アラバ、イヨイヨ悦トコソ思ヒテ、打チウソブキテ此へワタラセ給へ。」(縮遣1593頁)

と仰せられてある。

 多勢押寄せて煩らはしいから、何処かに逃げだそうと云はるゝもの私慾の為ではない。一人二人の小僧相手に閑所に退かんと云はるゝもの小人閑居の為ではない。困った時には何日でもこい。一食一飯をも分たうぞと云はれるも、身勝手の為でない。何れも少欲知足の行体の多面の表現である。宗祖の少欲知足の御徳は、孤ならんとして孤なる能はず。恰かも諸遊星の恒星を囲むがごとくに、甲斐に駿河に遠江に伊豆に相模に武蔵に房総野に、又は飛び離れて佐渡に越後に、弟子檀方雲霞の如く取囲んで、末代の大聖人我等が御本仏と取すがった。此れも一口に久遠の本仏の大徳を備へ給ふ故ぢゃと云へば、何の事もないが、愚僧等の凡見には正直にして少欲知足なる真実僧の標準と拝し奉るのが、却て愚僧等行学切磋の便宜を得るものではあるまいかと思ふ。当世子、夫れ何と恩召すぞや。

 目今、欧州には万古未曽有の大戦争が始まってある。数百里の戦線に数百万の軍隊が火花を散してをる。其余波が東洋に及ぼして、我国も、支那山東の一角に事有ると云ふ騒ぎぢゃ。其は何より起るかと云へば、種々複雑の縁由はあらうが、要は独逸皇帝の強慾に在りとの事ぢゃ。

 然るに独逸の国風は上も下も至って質素の生活であって、農民などは無論のこと、皇室までも勿体ないほど少欲知足の生活ぶりであるそうな。併し、皇帝の頭には欧州統一を夢み大ナポレヲンを夢みて居られる。世界統一も結構ぢゃが、其れは正義高徳に依らねばならぬ。正義高徳は迂闊なりとて、瞬間に富と兵と詐を以て敵国を併呑せんとするは、自身自国如何に少欲知足を窮行したりとて、其は邪曲に伴なう少欲知足ぢゃで、天下の擯斥する所となるは知れた事であり、却て身を損じ国を破らねばよいがと危ぶまれる。

 吾邦が数度の義戦を経て数十万の犠牲を払って、一躍世界の強国に列し東洋の君子国と東西に観望せらるゝのも、畢竟国民に個人としての少欲知足の分子多く、国の上にも少欲知足の文明的の外交多かりし事に帰するのであらう。併し、世界の戦乱各国の興廃は、転々極まる所なきものであれば、国民たるもの平素の覚悟一段と深重なるを要するであらう。況んや世界統一、宗教統一、広宣流布を理想とする者に於ては尚更の事である (完)


                              『自然鳴』大正三年十一月号

 

 

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