【堀上人に富士宗門史を聞く】

 

 

(1)

 

富士日興上人詳傅に引きつづいて本誌55号より掲載されておりました富士宗門史は、堀上人の御都合にて一時中断しておりました。そこで、要集編纂等で御多忙の堀上人に特にお願いし、畑毛にお伺いしまして、日時上人より日寛上人ころまでの宗門史を語っていただきました。

 

【戦国時代の富士教學】

 ○ 大石寺五世の日時上人のころは、ちようど保田の日郷の方と、大石寺の方とが、係争の真最中だと思いますが、そのころ、日時上人の書かれた本因妙抄のお寫しが大石寺にあるということはやはり、日興上人以来の正しい教学というものを相富大石寺の方で強く打ち立てておられたものと思われますが、いかがで しようか。宗祖滅後百年ごろには妙蓮寺日眼師がおられたし、又もっと以前には三位日順師もおられたのですが……

 【堀上人】 それはですね、北山にそういう古い文献がないんですよ。そして大石寺に本因妙抄等がある。それによって、大聖人の教義を大事にしていたというしるしにすることができるのです。 

 それに、三位日順のあゝいう一連の各書類がですね、北山に一冊もなくて、みんな大石寺にある。もっとも北山には、日順の直接の筆ものがあるけれども。それは重大なもんではないですよ。日順の筆に相逞ないですけれどもですね。それは、ほとんど御開山の教義を直接に書いたものではなくて、ほかからきたのを日順が寫しておいたというような、そういうものは北山にある。いつか寫眞で大白蓮華に説明したことがありましたですね。とにかく大事な日順の誓状始め、あゝいうものが北山にないです。

  そして戦國時代の寫本が大石寺にあります。しかし、その書いた人の行蹟がわかりません。まあ、その寫された時代は戦国時代から織田・豊臣時代までですね。このような戦国時代としては古い方の書類が、全部大石寺にきているんです。もう少し研究すると、その寫本の主人公がわかりますがね。今では名前だけで行蹟が全然わからん残念です。

 ○ 特に教義とか歴史とか……

 【堀上人】 いえ、三位日順のすべてのものがほとんど、どこにもないのです。あるのは大石寺に一度きたのを、要法寺の人が寫して、そして要法寺へ持っていって、それを今度は北山に寫してあげたのが北山に残っている。ですから大石寺の三帳本ですね。大石寺のが一番古くて――古くてといってもですね、日順の本じやないんじや、日順の本を寫した人が、何人かあつて、それが日順の古い本を、みな大石寺にもつてきた。どういう動機でもってきたかも、寫本の主の経胆がわかりませんから不明だし年代もわからんです。たゞ紙や筆法でもって、この時代じやろうといって、わたしどもが鑑定するだけのものでね。

 ○ そうすると、三位日順の本因妙抄口決なども?

 【堀上人】 えゝそうです。口決などもそうです。あゝいうものが、ほかにないから、本因妙抄ロ決などを要法寺あたりでは、偽書だなんていっている。それに、文體が他の物と違うですからね。普通の三位日順の立派なこしらえ上げた、修理された漢文體のものはたくさんある。けれども書きっぱなしのものが、保田の妙本寺から出たですね。それは妙本寺日安あたりが書いたものですから。日安というと、お山の日有上人時代ですね。とにかくそれは漢文體でなくて仮名混り漠文體のいたってまずい文體になつていますがね。それからみると、本因妙口決などは、漢文にはなっていますけれども、文體がほかの三位日順の修正された文章にくらべてみると、ほとんど似つかない拙文です。それで、これを偽書だというのです。けれど、その、ほかに日安の寫した古いものによってみるというと、同し種類の日順のものがあったのです。ですから拙文だからといって偽書ではありません。

 ○ それは宗學要集にも、のっておりますか。

 【堀上人】 ええ、のっております。たヾ残念なのは、百六箇抄が本山に残ってない。 本因妙抄が残っているから、百六箇抄も、むろんあったに違いない。本山でもですねあの時代は直接の法門に関係あるものは大事にしたか知れませんけれども、そういう難しいものは、平常は使わない。大事にしすぎて使わないでいて、なくなったかしらんと思う。あまり大事にすると、しよっちゅう、みないんですからね、いつかしら、見ないうちに無くなってしまう。大事にして、しょっちゅう、寫し寫しているというと、どっかに帳寫本がありますけれども。寫しもしないで大事にどっかに、しまっておくというと無くなってしまう。

 

【有師と板御本尊】

 ○ ちようど、大石寺の日時上人から、日有上人ころまでが、戦国時代の真最中なわけですね。このころには、特にこれといった事件はなかったでしようか、日有上人までは。

 【堀上人】 それは日有上人の御苦労の歴史しかない。それから日有上人によって東北地方の古い末寺が保存されたという程度ですね。ですから小金井の蓮行寺でも、それから磐城の妙法寺でも、みな日有上人の、例の紫宸殿の御本尊を寫された板御本尊がある。

 ○ 磐城といいますと、

 【堀上人】 福島県の、黒須野のこっちの海岸通りの方ですね。そういうのが間違えられて日有上人が板御本尊を偽造したなんていうことをいう。その日有上人の残された本尊がみな大きいのです。それから、今天王堂の本尊というのが御本山にありますがね あの御本尊様もかなり大きいですよ。そういう板本尊の古いのは、ほかの富士門流にはないです。ないですから、日有上人が紫宸殿の御本尊崇拝ですから、紫宸殿の御本尊をいくつも彫っておかれたのです。 もっとも御自分で彫ったのじやない。佛師が彫つたのです。なんていう名前の人かは書いていないですね。  それが大石寺と北山とは、ほとんど例の二品読誦(注、方便品を読むか読まないかについて日代日仙の問答)以来からの、あまり親しい仲じゃないのですから。ですから、何か、北山では、大石寺のアラを探ろうという學匠が多かつたのです。そんな人が日有上人が板本尊を偽造したなんていうことをいい始めている。自分たちが作ったことはないから……。

 ○ 日有上人の以前に板御本尊を御作りになつたということはないでしようか。

 【堀上人】 東北地方の古い御開山時代からの末寺などの板御本尊は、みな新しいですね。

 ○ 今大石寺に安置してある日興上人の御本尊で、持佛堂の御本尊がありますけれども、あの御本尊はもつと古い?

 【堀上人】 あれは御開山時代ですから。

 ○ 彫刻が、

 【堀上人】 ええ、ええ。持佛堂の御本尊というのが、いくつもあります。持佛堂の本尊として残つているのが、栃木県の信行寺に残つていますね。それから、東京の芝の上行寺に残ってています。

 ○ 芝の上行寺つて、大石寺じゃなくて…。

 【堀上人】 ええ、西山系です。その上行寺は東京の芝ですがね、それから千葉県の中田の日蓮正宗真光寺に残っています。

 ○ それから、六壷の御本尊像はあれも持佛堂常住となっておりますが、

 【堀上人】 ええ、ええ。

 ○ 前は蓮蔵坊に安置してあった御本尊様ですか。板御本尊様。

 【堀上人】 六壺の御本尊はね、始めて私の師匠が六壷を復興された。そのときの御本尊は、そういう立派なものじやなかった。あとで私が古い御本尊と入れ替えたような記憶がある。それは古い板御本尊ですね。

 ○ そうすると、よく身延なんかで、御本尊様を彫刻なさったのは、日有上人が日蓮宗で始めてだみたいのようにいいますけれども、そんなことはない……

 

【身延の板本尊】

 【堀上人】 そりゃ、身延にあるんです。板御本尊が。

 ○ ああ、そうですか。

 【堀上人】 身延にね、一とう古いのは民部日向のがある。

 ○ ははあ。それが板御本尊ですか。

 【堀上人】 そうです。形は小さいです。

 ○ ははあ。

 【堀上人】 そりゃ、見せないんですよ、

 ○ あゝそうですか。

 【堀上人】 中蔵にある。どんな者が行っても中蔵や東蔵には案内しない。私は、いろんな関係があったからね。東蔵に何度も……こっちからも要求して行くし、むこうからも、あんたに見せた方が良いからといって、私を再々、東蔵に案内したです。

 ○ はあ。

 【堀上人】 うまいことに図書の係りと連絡があったんですから……。むこうの貫首なんかに相談すると、そんなことはダメです。いいアンバイに、図書の係りが、私に縁の深い人が二代いたものですから。先には『島智良』というのね。あれは海軍の軍人上りですがね、でも壮年にして出家して、そして、あっちでも、ちょっと成つた、その何といって、良いですかな。欲を離れた昔の聖僧みたいな行体をする人でね。それでむしろ、身延の町などでもですね。とても島智良というのは信用が強くてね、佛様扱いにされていた。それが、身延の図書の係になった。 その以前に、東京で池上の、日宗新報を永く出していた『加藤文雅』が池上でもって、東京に布教をしましてね、そして京橋方面で講中をもっていたですね、そして三つの講中があってね、その三つの講中が、みんな申し合わせたように、大石寺の信徒に成っちやった。けれども、そういうことは、ほとんど問題にしないでですね、わたしが小梅にいた時分に、加藤文雅と、ちょっと縁故ができましたから、それで交通して、私のところに加藤文雅の弟子たちが、しょっちゅう、材料とりにきてましてね、そんな縁故でですな、表面は私を敵にしなくちやならんのだが、一向、敵にしないでいた。この加藤文雅にょってですな、いろいろな向うの寺に賓物なんかの調査に行ったこともありますよ。  そのうちに島智良がですね、身延に入って、行學院日朝の古い文献を裏打ちして修理することになった。そんなことでですねちょうど、加藤文雅の講頭の中で、銀座に松岡という菓子店がありましてね。その主人がやはり、こちらに改宗した一員でした それがまた、賓に成った男で、ほかのところに行かないんです。わしのところにくるけれども、ほかの寺に行かない。面白い男でね、信仰は強いんですよ。その松岡が紹介して、こういう成つた坊さんがいるからつきあってくれといって、わしのところへ島智良をもってきたんです。それから縁が深くなつてね、しょっちゅう、きますし……それがまた、ごく真正直な男ですからねいいたいことは、、どんどんいって、しょっちゅう、わしと喧嘩していた。稲田みたいに、シンが強くて外のやさしいような人間じゃないですから。内外ともに強硬でしたからね。しょっちゅう喧嘩していた。いたけれど、わしの心持ちもよく分るとみえてわしの望んでいるものは知つていますからね、そして。゛こうこい゛といいますから、身延へ行ったです。表面じや、行けないですけれどもね。行って、そして、わしが注文しないでも、中蔵や東蔵から、いろいろなものを持ち出してくる。゛これは見たか゛なんてね。とつても便宜をはかつてくれたですね。今では、そんなことは、できやしないです。

 ○ その中で、これはというのは、民部日向の御本尊くらいですか。

 【堀上人】 ええ、民部日向の御本尊。それは私が東蔵に入らないうちに小さいですから、中蔵から持ってきたですね。『日蓮幽霊』と書いてありますがね。

 ○ 日向が書いたもの……

 【堀上人】 ええ、日向の書いたもの。

 ○ ははあ、

 【堀上人】 これくらいの。(手でさし示さるニ尺弱)。それから、何年かして、後で身延に行ったときには、島智良の師匠分になっている、内房の本成寺の冷泉養惇(れいぜいようじゅん)というね、こりゃ、頑固な、とっても偉い商売気を離れた学者でした。それが永いこと身延の総監やつていましたから。それが、わしと島智良との関係を知っていますからね。その人が、弟子がわしの世話になつたからといってね、あんたのために何かしなくちゃならんというて、再々呼んでくれたです。東蔵に案内されたのはそのときです そのときの蔵番(図書館主任)が今身延で山務総監か何かゃっています、江利山というが、まあ、何かのですかね、それが主任でしたから。それが案内したです。そうすると、その、民部日向の板本尊ばかりじゃないんじゃ。例の身延の『重遠乾』の三人ね、日重、日遠、日乾、あゝいう人にまで板本尊があるんですよ。

 ○ はあ。

 【堀上人】 それは誰も見た者はないです。見せないんじや。立派ですよ。ほとんど六尺くらいですかね。それぞれに寸法は違いますけれども……。そんな大きな板本尊だったですよ。

 ○ そのころは、身延でも、あんな狐のようなものは祀らないで、そういう板本尊を祀って拝んだのでしょうか。

 【堀上人】 どうも、そうらしいですね。狐などは後らしいですね。(笑)七面は古いね。七面は古いですけれども、例の日朗上人なぞをかつぐのは後の偽造ですね。日朗以後らしいですね。日朗があまり身延に登山しないでね、そして身延の山にそういうものをおくということはない。日朗の名を騙(かた)って後の人が七面をこしらえた。ですから七面は行學日朝時代でしょ。

 ○ 行學日朝は日有上人時代ですか……

 【堀上人】 ええ、日有上人とほとんど同じ生年は少し日有上人が後れるでしょう。

注・身延の板本尊(堀上人の記録より)板本尊は延山に多数ある、中にも日向の添書に「正安二年庚子十二月 日。右日蓮幽霊成佛得道乃至法界衆生平等利益ノ為二之ヲ造立ス」とある丈貳尺七寸幅一尺八寸の大聖人の御筆を寫した板本尊が■蔵に嚴護せられてあるが、殆んど秘佛で一般には、公開せられてないのは何の為かを知りぬ。  (大白蓮華第十八号九頁富士日興上人詳傅より)   一般の板曼荼羅の思想は比叡山にも又御門下にも幾分か有ったものと見え、延山の中蔵に民部向師の書寫で「日蓮幽霊」云々の脇書有る板本尊があり、又東蔵には中世の数枚の板本尊がある。 (大白蓮華策十四号十一頁 富士日興上人諸伝より )

 

【中興の祖、日有上人】

○ 日有上人は、ずい分、地方をお廻りになったわけですね。

 【堀上人】 それはですね、家中抄などにはあまり詳しく出ていないのですよ。もっと家中抄に日有上人の傳記を長く出す必要あるですけれども、ほかの簿記が材料がないですから、日有上人のばかり出すのはおかしいという考えであったか又は精師が日有上人の材料をそれだけしか持っていなかったか、というわけで、日有上人の傳記は家中抄にはそう澤山出ていないのですよ。 日有上人には後の聞き書きが澤山ありまして、聞き書きなるものも、あまり本山で使わない聞き書きが多うございましてね。わしが、そちこちから集めたのです。その中でみると、歴史的にいろいろ變つたことがあります。これは聞き書きとして要集に編さんされてありますから、ごらんになっているでしょう。聞き書きが四通ばかりありますね。それから又、これにのっていない聞き書きがあるんです。それは金澤から出ましたね。それが揃っていない。まあ、日因上人の佳跡という聞き書きの注釋文がある。それが上巻だけでね、中下二巻がないです。それで、中下二巻がどっかになくてはならんが、とこにも見っからない。たヾ金澤に残っているのは、中下二巻のうちじやろうと思っているのが、ようやく、二十箇條ありますかね。その方は本が三四部ありましたから、全部わしのところに取っておきましたが。それをみると、いろいろ變つたことがあります。ですから、日有上人の伝記も、精師の伝記よりも、もっと廣くしなくちやならん。そうなんですから、私が宗門史を書いて、日有上人の綱目に入るというとですね、どうも、精師の家中抄で飽き足らなくて、いろいろの材料をここにもってこなくちや具合が悪いのです。そして叉、日有上人を中興開山として尊敬するということからいっても、日精上人の書きツぶりじゃ、どうも具合が悪い。

 ○ 家中抄に、日影上人が血脈を伝える人がないから、油野浄蓮に血脈を伝えたとある。それじゃ、日有上人は血脈をうけていないしゃないかということになると、他宗派でいいますが、これは何の根拠もないのでしようか。

 【堀上人】 精師がどこからもってきたのかわからない。わからないけれども、油野浄蓮という人は日有上人に関係の深い人であった。ですけれどもね、その年代が、日有上人の晩年に、油野浄蓮がいたんですからね。ですから、その浄蓮に影師が血脈を伝えるとなると年代があわない。影師の遷化の時分は、日有上人は少年ですから……。そして日有上人が七十餘歳で亡くなられている。油野浄蓮が、もし、日有上人が少年で血脈をうけることができないから、かりに、それをうけたとするということですね やはり相當の年でなくちやいけない。そうすると、日有上人の晩年にですね、油野浄蓮がいたとすると、どうしても油野浄蓮は百歳ぐらいでなくちゃならない。ですからどうも年代が合わない。

  しかし浄蓮と日有上人の関係が深いからそれをもってきたんしゃないかと思う。関係が深いということは文献があるんです。 黒須野の妙本寺の本尊に、油野浄蓮に與えることになっているんです。紫宸殿の御本尊を書いてね、油野浄蓮に與えるということになっているんです。それから又、例の房州の記録によってみるというと、日有上人の晩年にですね、文明14年ですか、妙本寺の末寺の僧侶が大勢と、北山の貫首と連合してですね、大石寺に例の談判にやつてきた。そのときですね、油野浄蓮がいたんです。ですから、どっちからみてもですね油野浄蓮という人は、日有上人の晩年にいたに違いないです。だから年代が合わないええ。ですから、これは、ただですね、有帥と浄蓮との関係が深いから、それを、精師が深く検討しないで浄蓮に影帥が相傅したというようにしたんじやないかと思う。

  精帥の記録にですね、余り根拠を書いてないというのが多いのですよ、家中抄始めね。どこから、もってきたのがわからんのが多い。根拠もないままに、相承する人がないから浄蓮に相承したなんていうことはですね、ちよっと具合が悪い。その例に三位日順を引張り出してある。三位日順は相承をうけた人じゃないんじや。どうも、そこのところは、精師の書き方が、ちょつと具合が悪いんです。それで、根拠のない事が多いのですから、わしは日蓮宗と関係のある時分に、日蓮宗々學全書ね、あの編さんのときにですね、むこうの日蓮宗の注文は、その精師の家中抄を入れてくれという注文だった。で、わしは出したくない。そんな記事が多いからな。それから又、あの時分に、馬鹿に本山のいろいろなことに肝入りしていました大阪の荒木清勇というのが、もう、それ以前に、心配してね。時の日就上人に手紙出して、どうもその日蓮宗全書には富士関係の本が出るから、もし、あれの第二巻に日精上人の家中抄でも出されるというと、例の油野浄蓮の相承なんていう、あゝいうイカサマが出ると困るから堀に、あゝいう家中抄などは提出しないように、あんたから申しつけてくれろといつて、手紙がきていた。しかし手紙までもない、わしが、あゝいうのは、精師には、どうも根拠の不明なものが多いから、あゝいうものを出すというと、かえって困るから出さないっもりだった。

  それから、わしは後に何で精師がそんなことを書いたのかと思って、いろいろなものを、しょっちゅう、しらべてみたけれども、何にもその根拠がないんですね。たヾ浄蓮と有師との関係が深いということをとってですね、そして浄蓮にコジツケたものと思いますね。けれどもですね、何かその影師の亡くなるときに、有師が壮年でなかったんですからね。相承を取次いだ人があったことは考えられる。それは、この浄蓮でなくって、誰か、記録に残っていない人に、そういうことがあったと思いますね。 そこだけは推測でぎますが、全然わからない。

 

【癩病などはデタラメ】

 ○ 最後の甲州杉山でお亡くなりになったということですね。

 【堀上人】 その記録がですね、ほとんど、確かな記録はないですね。それを書いてあるのの古いのはですね、そうですね、御本尊の端にでもですね、杉山から送ったということの、記録があるといいですけれどもね、相當に有師の本尊はありますけれどもですね、そういう記録はないです。それから、お手紙は有師のお手紙はほとんどありませんでね、一体、有師という方は永いこと御在世であったですけれども、どうも、その御筆物が残っていない。お手紙は根方の本廣寺に一通あるきりでね、それは京都の御天奏にお出でになったときの手紙ですね。それも詳しいことはない。ちょっとしたことの、その、通知があっただけで。ほかに有師のお筆らしいのは手紙も残っていなければですね。有師のなにがしの寫本とか記録とかいうものも残っていないですね その割にですね、聞き書きはこの要集に発表しておいたように、澤山あるですからな有師の下にはですね、全國から特殊な人がしょっちゅう、きてですね、法門を聞いたに違いない。聞き書きが残っているくらいですから。今あれだけのものが残っているのですから、もっと澤山あっちのに違いないです。

 ○ どういう病気で下部へ行かれたというような……

 【堀上人】 ええ、病気はわからない……

 ○ わからないわけですね。

 【堀上人】 わからんけれどもですね、癩病なんて、そういう病気じゃない。そんならあんた、往復できやしない、みっともなくて。しよつちゆう、往復してござつたです……。  で、病気については、むこうにも詳しい記録はないですけれども、晩年にはですね伝説によれば、つまり、杉山にこもって、そうして、「俺はここで亡くなるから、鐘の音が聞えなくなったならば、亡くなったと思え」なんていって、入定されたというような伝説があるけれどもね、これは、どうも、あまり信用はできないですね。もう亡くなったのは杉山で亡くなったのには違いないと思いますが。  それを明らかに書いて残したのは、何ですね。要法寺の僧侶で、中之郷の妙縁寺にいて、檀林の関係ですね、もと中之輝の妙縁寺というのは要法寺で作った寺ですからで、わしの師匠の代になって、むこうで裁判したんですから。裁判に応じてこつちが勝って、そして大石寺の末寺になった。それは安政年間です。ですから、その妙縁寺は古くは、ほとんど要法寺から住職がきていたんです。その中にですね、壽圓日舒という人がおって、そしてこの、妙縁寺から檀林に通っていた。そうすると、壽圓日舒という人はですね、妙縁寺にいるくらいですから大石寺にも時々きていた。その人の日有上人の縁起を書いたものが、一番古いんですね。それは、杉山詣でという記録です。それは、ほとんど発表になっておりませんですけれども、今度の講集には、それも入れようと思う。

 ○ はあ、そうですか。

 【堀上人】 それにはですね、その時分に、いろんな伝説があってですね、例の日有上人の体験談なんかもあったらしいです。それは、ことごとく書いてあります。書いてありまして、ほかの伝記にはないようなことも、いくらでもあります。ありますが、その人の意見ではですね、「正法に不思議なしなんていうようなことをいっているけれども、不思議というものは、ないようで実際あるべきものだ」と、日有上人の伝の記録の序文に、そういうことを書いております。そして、日有上人のいろいろの不思議のことも、そこにのっておりますね。

 ○ ああ。そうしますと、全然デタラメですね、癩病で死んだとかいうのは……

 【堀上人】 ええ、全然デタラメです。

 ○ 日有上人と日隆との関係は……。

 【堀上人】 ああ、あの関係もですね、不明ですよ。八品派でも、そういっていないから。四帖抄を作って、日有上人に日隆が献じたとか、それで日有上人は四帖抄を見なかったとか、それについて回答しなかったと、そういうふうに家中抄には書いてあるんです。けれどもですね、日有上人が四帖抄をうけて、打っちやっておくということはないです。

 ○ 最近になっていい出したんでしょうこれは。

 【堀上人】 ええ。それで、有師と八品日隆との関係はないとみなくちやならない。

 ○ はあ。

 【堀上人】 それで、ありとすればですね。 八品日隆と岡の宮の日朝からやはり有師の方へ、なにがしかのことが伺ってこなくちやならないとは常識的に考えられるけれどもですね、その時分には、ほとんど岡の宮と大右寺との関係はなくなっているんです。ですから、何にも交通はないです。私は、もう、そういうふうに決めている。材料が新しく出れば問題外ですけれどもね。

 

【代官が大石寺を売つた】

 ○ このころの事件で代官がでてきますけれども……

 【堀上人】 日有上人の晩年の本山の寺務のことを書いたものがですね、房州家の記録本の端にあるんじや。それにはですね、しよつ中、日有上人は全國を行脚してござったんだから、寺には相當の代官がおいてあった。その名前がですね、五六人のっている。五六人のっているんですが、一人も過去帳なんかにのっている人はないです。ないがですね、こういうことを書いておるんですね。

 あの時分に叡山が衰微しましてね、叡山の戒壇も衰微して、戒をうける人もないし、學問もですね、叡山に行ってわざわざ学問する人もなし、むしろ地方の田舎天台といって、地方に相当の学者がおって、學問をする、それの一つが柏原の檀林ですね美濃の柏原です。柏原という騨があるでしよう。こっちから行くとね、右手の方の一寸した山の裾に、気をつけてみると、・建物が見えますがね。そこに相当の寺があってね、その中に、田舎天台で一つの檀林があった。田舎天台の檀林ですけれども學匠が大勢集っておった。そこに慶舜という人がおって、相当の學者ですから、柏原案立なんていう本が今残っておりますがね。いろいろな本を書いた人で、その本も発行されて残っておりますが。その柏原案立の慶舜という人と日有上人が懇意で、ときどき行かれたらしいです。

  慶舜に會うたびに、日有上人は、大石寺の跡のことを次のように話されたという。 つまり三人の代官をおいた、しかるに、三人の代官がグルになって、大石寺を売っちまったということが書いてある。それで日有上人が帰って、三人を追拂つて、そして、ほかの代官をおいたなんていうことが書いてある。その三人、四人という人がですね、相当の身分の人ですって、みな阿闍梨号をもっていますからね。あの時分の阿闍梨号をもっているのは、相当の者でなくちや阿闍梨号はつけないです。だが、それが不幸にして、一人も過去帳なんかに名がのこっていない。ですから、どうも、その日有上人時代の記録が完全でないから、わからないけれどもですね、そういうことをわざわざ偽造する人はありませんからね。名前を偽造することもないんじゃ。

 ○ 大石寺を売ったということ……

 【堀上人】 ええ売ったということね。それは日有上人の條目をおいて書いてあるのもですね、大石寺を売ったという事件は書いてある。

 ○ ああ、そうですか。

 【堀上人】 売ったから自分が買って、30何貫文を出して、そして又もとに返してしまつた。何でも20貫文かそこらで売ったと書いてある。それはですね、

 あの時分は何でもないです。中央政府があやふやですね。ですから、あの邊のすべての政治上の関係は鎌倉管領でしょう。それは鎌倉管領なるものはあってもですね、地方の豪族に左右され、今川の盛んな時分はですね、むしろ、この鎌倉の支配を待たないで、今川家でもって支配した。その今川家なるものもですね、どっちかというと今川家の主人公が支配しないでですね、下等の代官である興津なんていう家でもって富士郡あたりのことをしていた。ですから70年の房州とのいろいろな、あの文書の中にもですね、それが出ているでしょう。

 ○ ははあ。

 【堀上人】 あの事件でも房州で今度は自分の手に入れるために、30貫も拂つているんです。それは買うんじやなくつてね、いろいろ手数をしてですね。そしてこの、房州なら房州の中納言日傅なら日傅の名前にするために、その手数料を30貫文拂つたと。そういう勝手なことができたんですから、ですから手数料さえ出せばですね、すぐに売り買いができたんです。そういう無造作なことができたらしい。

 ○ その日有上人のときは、買つたのは誰だかわからないでしょう。

 【堀上人】 買つたのは誰の名儀にしたかわからない。

 ○ ああそうですか。

 【堀上人】 自分の名儀にしたんでしょう。代官の奴が。それがですね、根■のある、ほかの者がやったのならば、仲々あけ渡ししないんです。あけ渡しは容易じゃない。叱りつけたくらいではあけ渡ししない。ですから、寺にいる人がですね、自分の勝手な名儀にしたんでしょう。30貫文で買い戻したということはですね、日有上人の例の聞き書きの中にありますから。これはほかの房州家あたりの聞き書きでなくて、日有上人自身の聞き書きだ。それが聞き書きの上の巻の始めの方にのつている。

 

【左京阿日教の事蹟】

 ○ それから、次は日鎮上人。日鎮上人のときなんかは相当、こう、諸堂を建立したり……、

 【堀上人】 それはですな、この日有上人が相当下地を作つておかつしやつたから。そういうふうにですね、煩いのないようにしておかつしやつたのです。ですから70年の例の争いの始末はですね、日有上人がつけて、そして大石寺が独立していけるようにしておかれたのです。ですから、鎮師が若いときに貫首になったのですけれども、鎮師の御意見番というようなものがあったですね。

  それは例の左京日教という人がですね。あの人が要法寺からきて、日有上人の門下になって、そしていろくな大石寺の内外の寺務にたずさわっていたらしいです。その人があとに残って鎮師を補佐してきたのです。ですから、鎮師のときは何の煩いもなくって、だんだんのびていく方ですからですから諸堂の建立もできた。

 ○ そのころは、まだ世の中は乱れている最中ですね。

 【堀上人】 ええ、まだまだ。例の徳政の最中ですからね。

 ○ ははあ、

 【堀上人】 徳政というやっがね、徳政にあずかる方は、いいけれどもね、徳政をかけられる方は災難でね、徳政のために財産を失う者が多かったのです。

 ○ 左京日教という人はですね――要法寺から大石寺にきた――相当に學問もあったんですか。

 【堀上人】 いや、學問よりも経歴がいい。経歴の方がよい。雲州の牧(馬木)の安養寺にいたんですから。牧の安養寺というのはですね、要法寺が二つになってね、上行院、住本寺と二つになった。住本寺というのがですね。日尊の弟子の日大の寺です。その住本寺というのが上行院より大きいのです。 上行院は日印という人の寺です。関東方面には主に上行院の本寺があって、関西方面にはですね、住本寺の本寺が多い。どっちかというと、関東方面の本寺は数が少い。関西方面の山陰地方の本寺が多いです。それですから、牧の安養寺がですね、山陰道の一つの田舎本山で、そして、この、今全然こっちの本寺になっております會津の賓成寺はですね、あれは関東方面の本山であった。けれども、その統卒している寺院は、関西の住本寺系の半分もないのです。それからむしろ住本寺系が弘まって、上行院系がほとんど弘まらない。  まあ、例の日辰がですね、両寺を合併して、例の天文法難以後、二つの寺を一つにした。一つにしたけれども、やつぱり内部は元の通りでね、上行院系と住本寺系とがやっぱり分離していたんですね。そして、この住本寺系の方が大きくつていたんですから、住本寺の貫首はですね、ほとんど例の、爾巻抄の百六箇抄、本因妙抄の相傅、それから御本尊もどうかすると免許で書いたんじやないですか。そういう特権をもっていたんですね。特権もつよりもですね、賓力を蓄えた。住本寺の本山もですね、本寺を統一してるところの牧の安養寺の貫首の左右するところになったのですから、牧の安養寺の貫首の御機嫌ではですね、要法寺そのものが立ち行かないような財政上の困難を来していたわけだ。ですから安養寺というのは、とても堂々たる本山であったのです。そこから出た人です。そこの貫首です。ですから、ただ左京日教が單獨で一人でこの、日有上人の弟子になったというわけじやないですね。背景があつたてす。 背景があって、左京日教と内々ですね、相通じているところの本寺の人が大分あったらしいです。

 ○ ちょうど、今、身延から孤立して大石寺に入ったようなものですね。

 【堀上人】 ええ、そうそう。その左京日教が日鎮上人の御意見番ですね。日有上人の晩年にですね、亡くなる四、五年前にですね、すつかり、お山にきて仕えていた。で法義のできる人ですから、まあ、日有上人が亡くなられても後は左京日教が日鎮上人に學問を仕込んだ。

 ○ 本佛論なども立てていた方ですね。

 【堀上人】 そうです。それはですね、本佛論などもですね。雲州にいる時分からその気配があったのです。ですから要集の中に百五十箇條というのがあるでしよう。あれは、まだ要法寺時代の本ですから。ですから法義が充分じやない。充分でないですけれども、その中に芽生えております。

 ○ 日鎮上人の大石記について……

 【堀上人】ああそれはですね。鎮師の書いたものが要法寺に残っているという。

 ○ ああ、そうですか。

 【堀上人】 ですが、それも要法寺にない。本山にはですね、それは残つてない。鎮師が寫したのが要法寺に残つて、要法寺日辰が又寫しておいた。それが今要法寺にある勘定ですけれども、それが果してあるかどうかわからない。御義口傅の中にも、要法寺にある御義口傅なら確かですからね。ですけれども、その要法寺の版の御義口伝というのが、どうも原本が怪しいんですよ。 今、わしの方にある御義口伝の上の巻というのと大分違うんです。ですから、その上の巻によって今の学会本の御書は作っておいた。ですからキズがないんです。  要法寺版の普通の御義口伝はキズが多すぎる。キズが多すぎるから日宗新報で清水龍山に頼んで、そして御義口伝の訂正をしてもらった。それは、いくらかキズが少いですけれどもですね、清水という人は自分の頭でヤリクリする人ですからな、ちょいと怪しい。要法寺の、その元■四年の寫本というのが、とても立派です。四年の寫本が、大石寺にあって、上の巻があって、下の巻が要法寺にある。あるが、あそこの學頭がわしの懇意ですから、失くしたかもしれない。それの下の巻きがあるというとですね、御義口伝がもっとも訂正ができる。

  ○ このころは、大体、そういう教學の面は、もちろんでしようけれども、北山には、日淨とかいうような、日有上人の悪口なんかいったのがおりましたですね。おりましたけれども、やっぱり、大石寺には、兄さん格のような、兄貴格のような空気があったのでしょうか、その当時には。

 

【敬台院の事蹟】

 【堀上人】 それはですな、勢力からいうとですね、幕府になって、そうですね、三代将軍……五代将軍あたりまでは、やはり、この、重須が一等有力だった。 

 ○ 五代というと、徳川の……

 【堀上人】 ええ、徳川の……。そして、この、どっちかというとですね、敬台院の関係からですね、大石寺が少し頭をもち上げた。伽藍もですね。今の本堂が敬合院によってできたのですから。あの時分は、もうですね、普通の庶民で作る寺というのはとつても、金力もなしね、それから、この権力をもたないですから、いいものができなかった。始めて大石寺が、そういうものに結びついたのは敬台院のためです。

 ○ はあ。すると、あの方はどういう方だったんですか。

 【堀上人】 敬台院は、要法寺にいわせるというとね、あの人の蜂須賀の先祖ですね。 蜂須賀小六とよくいいますね、あの人がですね、秀吉公との例の関係からね、幼年時代の関係から、とても有力であった。それがですね、蜂須賀公の伜の至鎮(よししげ)という人が徳島に知行を興えられて、そして逢庵(ほうあん)公も又生きていたんですから。正しく徳島の御大名として特待をうけていた。そのおつかさんの、至鎮公の奥さんですね、それが例の神君のね、家康公の養女として、その蜂須賀公に縁づいたのです。例のその、家康公の政略上としてね、あちこちの大名の娘を自分の娘にして、偉い大名に縁づかせた。 自分の味方を作るために。その一人ですから。それですから、逢庵公はいたけれどもね、逢庵公よりも、その方の幕府の関係の深いですね、幕府の御養女の奥様の方が勢カあったんです。逢庵公がいくらか要法寺との関係があった。それで、その、敬台院殿がその縁故で要法寺に多少の関係はあったらしいです。

  それはそれとして、今度は、なんですね大石寺と縁が深くなった。そして、この鳥越の池田侯の屋敷にですね、法詔寺というのができた。その鳥越の法詔寺がですね、今度は屋敷内におくというと、あんまり寺が粗末になるというので、その阿波の徳島に知行がきまったから、この法詔寺が阿波に移ったん、ですね。それが今の敬台寺のもとですけれども。昔の圖なんかみると、今のは十分の一もないですね。とってもデカイものをこしらえたらしいです。 その餘波としてですね、お山にやはり本堂が小さかったですから、今の大きな本堂ができたのですね。敬台院殿のすべての計いです。それですから、大石寺住職なるものが、今度はほかの諸本山と同じことにですね、獨禮席になった。普通の小大名は總禮席といって、ずっと並んだところに、その、将軍家が出てくるということになる。獨禮というと一人々々で、一對一で對遇ができた。大勢並んだところに上段に将軍家がきて、頭をこっちから下げるのでなくてですね、もう、将軍家一人、上人一人でもつ、その對遇ができることになった。それは、必ずしも寺が大きいというわけでない。特別の禮遇でもって、そうなった。その独礼席になったのが寛師の前の日宥上人時代ですからその邊からですね、大石寺が少し認められてきたですね。

 

【封建時代の弾圧】

 【堀上人】 それ以前の大石寺の布教なるものはとっても微弱だった。だから金澤なんて、始めから法難のし通しでしよう。金澤の信者は日精上人時代からですから。それで、みんな法難をうけちやった。

 ○ 認められなかった?

 【堀上人】 認めない。というのは、幕府の方針としてですね、その大名の支配内に、その宗門の寺があれば布教ができた。ですから、その大名の支配内にですね、ある本山の末寺がないというと布教ができなかった。

 ○ 金澤は前田百萬石の殿様が彈壓したわけですか。         

 【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ ひどいもんだなあ。

【堀上人】 尾張は尾張で弾圧した。尾張の方は100年ぐらいだつたが、金澤の方は明治まで300年近く弾圧くった。弾圧のくい通し……。

 ○ 日精上人のころから、ずーツと續いたわけですか。

 【堀上人】 ええ、ずーツと。

 ○ ははあ、大変なもんですね、ひどいですね……

 【堀上人】 この常時は正しいことがいえなかったのです。自讃毀他というのが問題になっているから、どんなに良くても、自分の方を讃めて他を毀るということは騒ぎの元だというので、それを止めちやつた。法義の如何にかかわからず……。ただ穏やかにお互いに仲良く布教するなら、そりゃ随意だ。自分を正しくするために人をこき下すということは禁制だ。争いのもとだというそれが幕府の本心ですから布教はできないですから、ほどんどですね、幕府に入ってからの大石寺の布教に、法難の伴わないものはない。

 ○ 金澤の法難も宗学要集の中に入っておりますか。

 【堀上人】 入っております。入ってますがですね、全部じゃない。要點をとってありますから。金澤の方はまだ材料が澤山ありますから。お話は違うけれども今度それ、学会の法難を宗学要宗に入れんけりやならんですがな。この本であまり澤山入れると具合悪いですから、そうだな、30頁くらいにして編さんしてもらえないかね、この次入れますから。30頁くらいできるでしよう。

 ○ かしこまりました。

 

【大石寺と要法寺の関係】

 ○ それから、次は第十四世日主上人ですね、日主上人が、小金井の蓮行寺へ行かれたわけですね。

 【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ その跡へ要法寺から日昌上人がお出でになった。その頃のいきさつは……

 【堀上人】 その、日主上人についてはですね、これも他團の悪口があるです。主師が何かその、酒とか女とかいう問題でもって失敗して、そして、小金井に行ったなんていうことをいうのです。それから、地方の村の人の伝説にもそれがある。そうですけれども、そういうことはないらしい。ないらしいけれどもですね、實生活の上から小金井の方がよかった。なぜ小金井がいいかというとですね、小金井は足利尊氏が知行をくれた。

 ○ ああ小金井に。

 【堀上人】 ええ、日行上人が小金井蓮行寺を開いた。行師はやはり小金井地方の下野の方の出身で、それで、やはり、あの邊の地頭と縁故があったらしい。それでまあ、小さな寺(蓮行寺)をこしらえたのですね。 それが少々のびてきて、そしてこの蓮行寺の方が良くなった。それも一つはですね、日有上人が行つて、小金井を又良くした。ですから、主師時代はもう、その、小金井の方はだんだん良くなったのだ、あれで大石寺よりも生活が楽だったらしい。

 ○ ははあ。

 【堀上人】 だから主師がですね、小金井に引込んだわけではない。そういうわけで、小金井の寺に用が多くて、大石寺の方は例のその70年の係争のあと、有師がようやく、まあ、復興したというだけですね、いろいろの面でまだやりにくかったらしいですね。

 ○ ははあ。その後、要法寺からこられたということは、やはり……、

 【堀上人】 要法寺からこられたもとはですね、やはり、この、日尊上人と日道上人との関係からもきているのですね。道師も尊師も奥州出身ですからな。今の登米郡内の人じやから。姓は尊節の姓と道師の姓と一つということはいえない。どつちも藤原かもしれんですけれどもね。藤原というからといって懇意なわけではない、藤原は多いですからね。ただ同郷の出身ということであるのですね。同郷の出身であるというけれどもですね。

 道師は宮城県で生れたんじやない。ここで(畑毛)今の雪山荘のところで生れたんですからね。尊師は、登米郡の例のあそこに観音があります。観音の横で生れられている。けれども、やっぱり同郷で、やはり日目上人やなんかに関係の深い人です。それで、同し目師の門下として、つきあいが親密であった。こんなわけで大石寺と要法寺との関係が何となく、そこで結ぼつていたですね。  それでこの日有上人の晩年にもですね、三位阿闍梨という人が要法寺からきて、そしてこの、大石寺の所化たちの監督をしていたです。それは大石寺の記録にはないけれども、房州の記録にはあります。三位阿闍梨のことをいってあります。その、三位阿闍梨なんていう人が、土佐の大乗坊の住職にもなったことがあるのです。それが又お山から行って土佐の大乗坊の住職にもなったことがある。三位阿闍梨授興の御本尊が大阪にありましたがね、惜しい御本尊じやけれども蓮華寺の焼けるとき焼いちやつた。まあこんなわけで三位阿闍梨日猊という人がですね、要法寺からきて、日有上人の下に仕えて、今の左京阿阿闍梨日教なんかと一しよに仕えていたわけだ。そういう、この、日有上人の時代に要法寺との関係があった。  そんな関係につづいてですね、この大石寺の日主上人と、むこうの要法寺の、当時の貫首との関係が結ばった。その関係を結んだ人はですね、粟田口の清という人が関係を結んだ。つまり粟田口の清という豪族が取りもってですね、要法寺から入ることになった。そこに大石寺はですね、例の有名な日性を入れるつもりだった。日性というと、日辰の門下の一等學者で、とても京都方面では幅がきく人で、そこら中の公卿から招待せられて講義に行く、又宮中からも呼ばれるというほどでね、學者で何でもできるんですから。ええ、もう、神道の講義でも何でもやるんですから……。佛教の講義ばかりじゃやないんですから、重要な人物だったんですね。そういう人を連れてきたら、大石寺が繁昌するじゃろうということをいっていましたけれども、むこうじゃ離さない、それはむこうで役に立ちますからね。

 ○ ■定とは別の人が来られたわけですね。

 【堀上人】 ええ、日性は本地院日性というそれで、なんですね、日昌上人がこられたんです。この人も、ものができるんですよ

 ○ それから、つづいてしばらく要法寺の人が……。

 【堀上人】 ええ、それから9代。9代ですけれども、それは始めのうちはね、要法寺で相当でき上つた人がきたです。後にはね精師以後はですな、精師そのものも、でき上ってきたんじゃないのです。若いとき、きたのです。そして大石寺にきて、江戸ヘ出て、そして、偉くなった。精師以前の人はですね、大石寺にきて大きくなるんでなくて、むこうから大きくなった成人した人がきたんです。精師以後の人は、みんな、大石寺にきて大きくなった。所化できたのが多いですね。ですから要法寺からきたといっても、ただその、身体をもらっただけです。

 ○ ははあ、実際には、かせがなかったわけですね。

 【堀上人】 ええ。それですから、学問なんかでもですね。一々要法寺流をもってきたわけじやないですね。えゝでも、いくらか要法寺の弊害は残つたですね。それをすつかり改めたのが同じ要法寺出の日俊上人、あの人が要法寺から出ていながら要法寺の弊害をキレイに大石寺から洗つた人です。

 ○ この日俊上人が、そういう佛像なんかを壊された。

 【堀上人】 ええ、佛像なんかをとっちやった。

 ○ それで、最後が日啓上人ですね。

【堀上人】 そうです。この日俊上人は手がうまいです。日啓上人はちよっと手が、まずいとはいえないけれども、字がわからないですね。とっても雑物です。俊師の手は大がいの人がよめる。手がうまくてあんまり乱暴に書いていないですから。

 

 


 

 

(2)

 

【日辰、日我の時代】

 ○ この二箇の相承が紛失したのは、いつだったですか。

 【堀上人】 重須の日殿。

 ○ ああ日殿。日殿というと……

 【堀上人】 日殿というとてすね、日我の弟子の日儀という人が小泉にいましてね、そして、北山との関係が深くなって、北山に呼ばれて移っちやったです。

 ○ その日儀が日殿という人ですか。

 【堀上人】 ええ、日殿です。

 ○ それで紛失して。

 【堀上人】 ええ、紛失した。

 ○ 日殿は断食して死んだ。

 【堀上人】 ええ。紛失というよりも、武田氏にたきつけて強奪したのですね。それは西山の日春の計いです。日春というは偉い人だったんですね、そんなこと、やつちやつたが。

 ○ この当時、日辰とか、日我とか、おりましたですね。日辰や日我が盛んにやつているころは……

 【堀上人】 やつているころは不思議なもんで、この日辰と日我の仲かぴったり行かなかった。その縁がありそうなもんですけれども、おかしなもんですね、機会がなかつたですね。

 ○ 両方とも自分が偉いと思っている。

 【堀上人】 ええ、そりゃ、そうでしよう。それもあったでしよう。

 ○ その当時は大石寺は日院上人のころだったですか。

 【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ 大石寺は割合、默つていたですね。別にとりたてて……

 【堀上人】 いや默つていないです。默つていないけれどもね、日辰から例の……日辰という人は悪くいうと山師でね、よくいうと熱心ですね。富士の諸山を連合してね仲良くして、そして、この要法寺と和合して大きくしようという頭だった。それに日辰の方針はね、富士が二箇の相承なんかにそんなものにこだわっているからダメだ。 二箇の相承なんか、打っちやつてしまえ、それが邪魔になる、二箇の相承を振り廻すのなら、二箇の相承を振り廻すだけの勢力をもつてから振り廻せ、今のような劣勢で二箇の相承を持ってるからといつたんじゃ世間が通らない。そんなことしや仕様がない、キレイに二箇の相承を忘れてしまえ、そうすりや、今度は自分のカで行くんじゃから、もっと立派になるんじゃ、君らは二箇相承なんかを頼んでいるからダメだ、そういうその、日辰の主義だつたんですね。 そんな風ですから、大石寺にきたつてね、大石寺は硬いからね、色んなこという奴は相手にならんと、それで院師が交通を断つちやつた。

 ○ それが日院上人のときですね。

 【堀上人】 その手紙は今でもあります。断った手紙が要法寺に残っております。ええもう婉曲に断ってある。

 ○ それで日辰は、日有上人が癩病でもって死んだなんて、余計なことを書いたんですね。

 【堀上人】 そりや、日辰が書いたけれども日辰の説じゃないんじゃ。北山で聞いたからといって、祖師傅の中に書き加えてあるので、日辰の説じゃない。

 ○ この日辰や日我が、盛んに勉強していた時代ですね、信長のころですか。そのころは、やはり太閤記なんかみると、どこの寺でも、念佛なんか、ずいぶん、兵隊を養成していたようですね。武器なんか集めて、僧兵なんか……

 【堀上人】 ええ、僧兵がやつばり叡山むきでもって、僧兵が、ずいぶん盛んだった。 けれども一般には坊さんそのものが僧兵にならんでも、その、檀家――檀家というと少し……あの時分は檀家がなくて信徒ですからな――信徒そのものがですね、自分の属している信仰の、そういう、イザというときのつつかえ棒になった。武人の信仰が多いですから。叡山のように、坊さんがすぐにその鎧を着て、薙刀をもって歩くというわけじゃなかった。武器をもっことは、ほとんど差し支えない。この時代の日有上人あたりの條目でもですね、武器をもつことは差し支えないことにしてある。けれども禮盤にのぼるときなんかは、武器をもってのぽるなとなっている。道中するときなんかは差し支えない。そういうものを持つていなくちや、危くて歩けない。

 ○ やはり勉強も盛んだったんでしようか、このころは。

 【堀上人】 勉強は、そうですね、一般にその各宗門ともにですね、必ず、青年ほどつか學問の盛んなところに行ってというわけじゃなかったんです。志のある人は遊學したです。遊學するときは、その遊学する本山の宗風に同化してですね、自分の信を打つちやっても良いという覚悟でやったんですね。

 ○ 要法寺の日陽が大石寺にきたのは。

 【堀上人】 昌師時代ですね。

 ○ いろくな御■■を拝見したという……。

 【堀上人】ええ、重須にも行きましたけれども、大石寺の方がですね、親しかったですね。ついでに重須に行ったくらいのものですから。

 ○ 二箇の相承の紛失した後だったんですね。

【堀上人】 ええ、後ですよ。日陽は日辰門下ですから。これから後が、例の不受不施問題でね。あれはひどい目に合ったですからね。弾圧のために、表向きには、お題目を唱えられなかつたですよ。陰で人の聞かないところで唱えるくらいのことでして。

 

【小梅常泉寺】

 ……註……   化儀抄(富士宗学要集相伝・信条部)   一、出仕の時は太刀を一つ中間に特たすべし、折伏修行の化儀なるが故なり、但し禮盤に登る時、御霊供へ参る時は刀をぬいて傍に置くべきなり云云。   日興遺誠置文(御書全集一六一八頁) 一、刀杖等に於ては佛法守護の為に之を許す。但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事。

 ○ 江戸小梅常泉寺建立というのがありますけれども、これが今の常泉寺の始めでしようね。

 【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ 慶長二年です。

 【堀上人】 それは、大石寺で作つたんじやない。

 ○ ああ、そうですか。

 【堀上人】 もと天台宗でできた。天台宗でできたものが今度ですね、什門派の妙滿寺の方で又それを補った。本行坊の日優という人が、その時代に日精上人の教化をうけた。

 ○ ははあ。それで日精上人のときに大石寺に移った。

【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ ああ、そうですか。

 【堀上人】 眞光寺がそのときにできた。そんな関係で、そのですね、大石寺が総本山という名称ができた。総本山という名称はですね、小さな本山にはつけられなかつたんですよ。政府の制度でね。ですから、孫末、曾孫本寺ができたのですからね。常泉寺の今度は本寺の真光寺というふうになった。真光寺に本寺がありますから、曾孫末を持っているから、今度は、総本山といえるようになった。ですから、総本山という名称を大石寺がもらったのは、その、わしどもの働きなんじや。それをうまく利用したから総本山にしてくれた。百坊以下の、その小さな本山には総本山なんという名称はくれなかつた。曾孫本をもっているんじやから総本山にしてもらった。そりや大本山と総本山は同じようなものだけども、やっぱり総本山の方が良いからな。大きいように思われる。今なら総本山でも差し支えないけれどもね。明治の30年ころじや。 60、70の末寺をもって総本山というと笑われちまう。そんな総本山はないです。

 

【紫宸殿御本尊】

 ○ その要法寺の日性という人ですね。この人が紫宸殿御本尊をどうした、こうしたなんて…… 

【堀上人】 ええ、そうです。それは宮中の御出入りをしていたから。ですから、その陛下から望まれて、紫宸殿の御本尊じやない本尊――ただその要法寺の何といいますかな、あまり立派なものじやないですよ。 今でも残っていますがね。いえば偽物というほうですね。山中喜八なんかは御本尊集の中に入れていないでしよう。まずいからね。相手がまずいんじや。それをもっていつたけれどもね、宮中じや、日蓮聖人の本尊の見分けがつく人はいないですからね。日性がですね、奉持して宮中に行つたもんですから、紫宸殿にかけて拝まれたということです。それで紫宸殿の御本尊というようになった。

 ○ 大石寺の紫宸殿の御本尊……

 【堀上人】 大石寺の御本尊は、まだ紫宸殿に入っていないんじや。

 ○ 全然いわれが違う。

 【堀上人】 そう、紫宸殿におさめるという意味。要法寺のは偽物でも何でもかまわん紫宸殿におまつりしたことがあるから紫宸殿の御本尊という。大石寺の方は日性が宮中にもって上る以前から、すでに紫宸殿の御本尊ということはいっている。日陽時代にももう、紫宸殿の御本尊を拝するといつている。だから紫宸殿の御本尊というのはごく古いときからいっている。紫宸殿のタチがちがう。一方は紫宸殿に上つたという一方は広宣流布のときに紫宸殿にあげるという。まるで、規模がまるっきり違う。それをですね、大石寺の紫宸殿の御本尊は日性の紫宸殿の御本尊のマネゴトだ、なんて悪口いうのはとんでもない話だ。

 ○ 本末顛倒ですね。

 【堀上人】 この紫宸殿の御本尊は、弘安の本尊の中では立派ですよ。お山に正筆が澤山ありますけれどもね、紫宸殿の御本尊ほど立派な御本年はないですよ。そこで日有上人が目をっけてですね。自分の関係のところへ紫宸殿の御本尊の御寫しを安置したわけですね。けれども、あの当時は技術が下手ですからね、ですから、うまくいかなかつたのです。わしの紫宸殿の御本尊は立派じや。寫真からとつたんじやから。すつかり、そのままです。寫真からとって、それを引き延してやったんですから御正筆と少しも變わらないですから、■稱の連中は私のところへきて御本尊を拝んでもね、よく目を光らしてみていきますよ。立派ですから。

 

【十八世、日精上人】

 ○ 日精上人というお方はやはり、こう、政治的にも相当力があったのでしようか。

 【堀上人】 そうですね、政治的にはどうですかね。政治上に運動された形跡はないですがね、その敬台院はですね、馬鹿に精師を、精師の青年時代から、精師を、何といったらいいか、育ててきた人ですからね。

 ○ 敬台院と、ちようど、同じ時代の人だったんですね。

 【堀上人】そう、そうです。

 ○ その後、敬台院と仲が悪くなった。

 【堀上人】 それは何から仲が悪くなったか知らんけれども、敬台院の書いたものによるとですね。日精上人の書いた御本尊などは拝みたくないとなんということを書いてあるくらいですからね。信仰上の衝突だと思うね。精師のやり方がどうも、敬台院の方からいうと、誠意がないとかどうとかいう問題じやないですかね。

 ○ 敬台院という方は熱心に信心しておられる方なんですね。

 【堀上人】 ええ、熱心です。

 ○ こんなに大石寺を応援して下さるんですから。

  京都の本国寺と越後の本成寺とが本本を争って、その證■は大石寺にあるなんていうのがあったのですね。門徒存知抄を持ってこられて、その證■にしたなんて出ている……敬台院の生れたのは慶長五年……。

 【堀上人】 ええ。

 ○ 寛永のころですから、そろそろ、世の中なんかも落ちついてきたから、こういう家中抄なんかも編さんされた。

 【堀上人】 ええ、家中抄は漢文ですからね幕府が落ち着いてからです。

 ○ このころ金澤に布教したわけですか

 【堀上人】 いや、金澤はね、今の常在寺がですね、下谷町二丁目で、昔はあそこを提燈棚といつたんですね。竹町提燈棚といつた。雁鍋は今はないですが雁鍋の裏でね、せんの池袋の前の常在寺でね。それがですね。上野ができるために、上野から立ち退きを命ぜられてきた。上野の今の美術學校の方にあがる坂ですね、あの坂のもっと、この、北の方にあったんしやないですか。 それを、上野ができるためにですね、あのデカイ法城を寛永寺の敷地ときめたのですから。ジャマになるから随意にどこにでも立ち退けといって、そして今の竹町の雁鍋の裏のところに移ったんです。それですかも、金澤家の例の前田大納言のですね、邸が今の東京大学でしよう。あそこに屋敷があつた。あそこに屋敷があって、近番者がみな詰めていたんですから。その人たちがその、常在寺へ参詣したらしいですね。むこうの人の金澤の伝説なんかでは日精上人が、どうかすると、道路演説をやつたといつている。それはどうかと思いますね。やった方がよいけれども、道路演説はやったということは書いてありませんね。道路演誕はできないらしいですからな。そんなことをやったら、すぐに縛られてしまう。結局、まあ、上野から提燈棚に下って相当に布教されたらしいですね。そこで近いですからね、再々前田家の屋敷から忍んで参詣にきたらしい。それがもとになってですね叉國に帰って信仰したらしい。ですから、精師の布教がもとですね。

 

【金澤の法難】

 ○ そうすると、それ以来、徳川時代をずっと通して、とうとうその加賀では免許にならなかったんですね。

 【堀上人】 ならない。運動はあったです。 その間に運動はあったですけれども、とうとう免許にならない。やはり、つかまったりした。ええ、つかまって切腹した人が一人二人あつたんじやないですか。というのは、その、尾張の法難の方はね、士分はなかつたんですね。百姓町人が多かった。金澤の方はね、士分が多い。百姓はむろんないですがね、町人はあまり少なかった。大がい士分だつたです。中に以ですね、役づきをした相当な人があつたですよ。家老というほどではなくともね、何かの奉行みたいなことをやった人があったんですよ。それでも、表向きの信仰はできなかった。

 ○ で、つかまったり切腹したり……

 【堀上人】 ええ、ですが、あの時分のすべてのですね、木山のことを書いたものとかまたはいろいろなことについての記録はですね、金澤の方が多いです。とってあるです。その記録がその後どうしてあるですかね。最近では、もう、失くしちやつたんじやないかね。もつと欲ばつて自分のところへ抱きこんでおけばよかつたけれどもね、人の手紙を、そう、やたらと、持ってくるわけにはいかんから。やればやれたんです。そんなことを、むこうじや大事にしないからね。そうはいかんですね。今失くしたんじやないですかね。

 ○ 今、お寺が……

 【堀上人】 寺はあります。寺はありますけれどもね、住職に、御存知かしら、品川にいた、有本の弟子が妙喜寺の住職になって行くといいますから、ぼくのところにきたから、「君、何だ、妙喜寺に行ってどうするんだ」といった。妙喜寺というのは、檀家がですね、六軒しかなかった。「布教やるのか」といつたら、「布教はダメでしょうけれども、何とかやります」なんてね、山師ですからな。何とかやると思っていたんですけれども、何とかやらなかつたんでしよう。ですから出ちやって、それで尾張の妙道寺の兼務寺になっちやった。そんなふうで、一時ね、学校の教員上りの人が、恩給でもって食えるんですから、寺を自分の寺として、そここ寝起きしてですね、そして、まあ、頭剃って坊さんになったんです。それが永く継いてくれればよかったんですけれども、その人が不幸にして早く死んじやった。それは固い人でしたがね。その人の時代にわしはそこへ行ったんです。 行ったから、頼まれるんですから、わしの方で東京の信徒にすすめて、木造制限などがありましたからね、コバ葺きでしたから屋根を瓦にして、内部の造作を変えて、今度は土塀を――子供が乗り越えられるような穴がありましたからね――土塀を塗りかえて、まあ、寺へ盡くしたですがね。その人が、もう十年も生きてくれると良かったんですけれども。何しろ、その時分、檀家が六軒しかなかったんですからね。

 ○ 今、また金澤に学会員がたくさんできております。  

 【堀上人】 今はできておる。ただ寺の場所が悪い。

 ○ お寺にも史料は残っていないわけですか。

 【堀上人】 あればいいと恩ってね。尊いという史料ではありませんですけれどもね。御信者がみな苦心した史料だから。非常にみな、そういうものを書く人はね、士分の侍でね、能筆の人が書いたんですから。誰がみても、よく分る字で書いてある。

 ○ 毎月、信者ができましてね、盛大になっております。やはり、お寺は名古屋からお出でになるようです。

 

【御書の編さん、興學】

 ○ 御書を編さんし始めたのは、いつころからでしようか。

 【堀上人】 御書の編さんはですね、確かの記録はないですね。ないですけれども、身延の録外というのが、相当に古いですね。 で、身延の録外と今の録外は違う。今の録外ができたのは、まあ、そうですね、録内のできたあとで、できたんですから。録内のできたのがですね、日我あたりの元本が房州にありますからな、録内の……。

 ○ ああ、そうですか。

 【堀上人】 その時分は、ほとんど録内という名稱はなくともですね、今の録内というものが、いくらかあった勘定ですね。それはですね、京都の日住という人が發起してそして関東の諸山を廻って、御書を集めたのですね。それは、そうですね、戦国時代の、いくらか早い方ですね。ですから、今から500年も、もっと前ですか。

 ○ はあ。そうすると、妙蓮寺日眼のころですか。五人所破抄見聞のころ………

 【堀上人】 いや、あれより、ずっと後ですその人は、大石寺にはこなかった。北山にもこなかったらしいですけれども、関東の一流の寺には、みな出入りしたですね。そして、まあ、ほとんど親密につきあって、そして、いろいろ集めたらしいです。 ですから、御書の編さん史などは、ほとんど、明細にはわからんですね。大がい、その邊で想像して、おつつけておりますがね。ただ名稱は録外というものが、いく種類もありますからね。

 ○ 本満寺とか……

 【堀上人】 身延の録外、本満寺の録外と、いろいろありますから。

 ○ どうして、あんな馬鹿なことをいい出したんでしようね。六老僣が集って池上に一週忌で集めたなんて。

 【堀上人】 あれは、ずつと後じやろう。ああでもいわんというと、録内が光らんから。

 ○ 同しウソを書くにしても。ずいぶん頭の悪い連中のウソですね……

 【堀上人】 ええ。

 ○ このころから、日精上人の後ころから、各宗派とも學問が盛んになったのですね……啓蒙の日講ですね、あの人のころなんかが、相当研究が盛んだったらしいですが……

 【堀上人】 ええ、あの時分は盛んです。盛んで叉その例の関東の檀林がね、檀林は戦国時代からありますけれどもですね。檀林が非常に盛んになったのは、やはりですね幕府に入ってからです。それで啓蒙日講なども、その、檀林の學間のお蔭でね、あんなに、佐土原に流罪されておりますけれども、待遇が流人待遇じやないですからな。 お客さま待遇です。始めから六人扶持(ふら)という待遇ですからね。六人扶持で、一人は側に公然と使うことができるような待遇です六人扶持というと相当に食えますからね。 そういう名稱で日向に流されて、流されたですけれども、やっぱり、備前の浅野家に関係が深かったですから、浅野家から、いろいろのものを送った。後には、浅野家との縁が切れたけれども佐土原の方じや、殿様が馬鹿に信用していた。  それは檀林の能化で、相当に学問があつたんですから。そこで、いろくな学問を藩内の士分に教授したんです。神道の講義さえもやったんですからね。神道の講義でも、禅宗の講義でも、何でもござれだったからね。そんなじやったから、他宗の坊さんも頭下げて日講の講義を聞きにきたという。

 ○ それでは、信仰というよりも、本当の学者、学問の切り■りですね。

 【堀上人】 ええ、そう。それで、そういう人が不受不施ですからな。不受不施というのは、人から謗法の世話を受けないというのが大事だけれともですね。自分でも謗法者に物を與えるということはできないわけです。ですから、日蓮宗の学問を堂々と人に教えるのなら良いですけれどもね、神道の学問を教えたり、それから儒家の講義をしたりするのは良くない。それは法施じや。 法の施しをするようなものじや。それを平気でやっているんだからな。(笑)そこに不受不施というものが叉純潔でないことがわかるわけですね。頭からそういうふうにして、晩年まで立派な待遇でもって亡くなったんですね。屋敷なども何度となく變ったんですよ、いい屋敷にね。殿様が出張ってきて、そして日講と一しよにお酒飲むなんていうことをやつたらしいですからね。

 ○ 殿様も閑で困っていた。(笑)

 【堀上人】 ええ、閑だから。(笑)まあ、江戸に行けばね、相当の用があるけれども、國に帰っている時代は用がないから。政治は家老まかせだからね。

 ○ 日精上人のころから、お像を作るのが盛んになったのですか。

 【堀上人】 そりゃ、常在寺の御影様は作ったでしようけれども。どうですかね。御兩尊といってね、宗祖開山の御木像はですね余り作らなかった。それは、ないわけじやないけれども。お山の御木像は、あれは日時上人の時代にできたのですが、各末寺に戦國時代にできた御影様というのは、そうありませんね。奥州あたりも、ほとんどないです。ですから、幕府になってからということになるが、精師時代から御影ができたということも信ぜられんですね。両尊はまあ、早くからあったですね。

 

【中興の祖、日寛上人】

 ○ じや、次に、日寛上人様ですね。日寛上人の教学が、日蓮宗各派の謬説を破折した、しめくくりのようなことになりますね……。

 【堀上人】 まあですね、寛師でなくちや、寛師以後は夜も日も明けなかったですね。  それは、寛師の學間というよりも、むしろですね、寛師の行体じやないですか。偉く学問ができて、偉く能辯であってもですね普段の行体がだらしないというと、曾俗の信仰を集めることができないですからね。 その點、寛師は非常に謹直であった。そんなわけで寛師の信仰が一般の人にしみ渡っているのじやないですか。學問はむろんですけれどもね。

  學間だってヤタラと、その、手廣くやって、縦横自在にですね、法義を作るとか、又はいろいろな歴史を書くとかいうことはしない人ですね。ですから、ほとんど寛師は歴史上のことなんか無関心ですよ。それほど大事にしない。六巻抄を中心にして大聖人の御正義を完べきに打ち立てられた。

  又三大部をはじめ、大台の法義には明るい。三大部の引用などは、とっても綿密なものですからね。わしが日蓮宗の者らと交際する時分に、あっちの清水學長や、前の脇田学長なんかは、非常に、その、寛師をほめていましたよ。「おなたの方の日寛上人という方は三大部はえらいですね。ああいうように巧みに引くことは容易じやないですよ」なんてほめていましたけれども。 というのはですね。その時分の細草談林ですが、傅了日崇という人が談林の初祖でねその人が八品ですけれども、とっても三大部に明るい人でね、その人の學風が残っていたですから。ですから、その、寛師は所化時代から三大部に明るかったです。ですから、今お山では、あまり大事にしておりませんですけれどもね、三大部の、いや、その四教義なんかの講義の本が、寛帥の直筆で残っていますよ。ほとんど若い者はみないですよ。みろといっていますけれどもね、わからないから。今度はそれもお山ヘ行ったら、和譯して読ませようと思う。容易じやないです。

  それから、わしが手入れした手入れ残りはね、図書館の中にですね、こう、そうですね、四尺四方ぐらいあります。バラバラの本がね。あれも、まあ、一つ整理しておきたいと思います。なかく容易じやないです、手がとどかなくて。そのように、まあ、寛師は、傅了日崇の跡をうけて三大部に明るかったです。

 ○ 日寛上人の学問といいましても、さっきの啓蒙日講なんかとは、全然、もう、本質が違うわけですね。

 【堀上人】 ええ、啓蒙日講はその代り、何でもできた。さっきもいいましたけれども神道の講義する、禅宗の講義するという具合ですからね、廣いから世間うけはいい。 寛師はそういう無駄な学問はしてござらんそのくせ、若いときのですね、いろんな書いたもの見るとですね、何といっていいですか、歌なんかよまれてね、詩なんかも作っておられる。ですから、本山あたりの古い人の話ではですね、寛師は俳諧の點取師だと、そんなような悪口いう。悪口じやないけれどもね、そんなこという説が残っているんですよ。そのくらいに、やはり、この俗っぽいところもあったですね。

 ○ おそばと角力が有名だった……

 【堀上人】 角力はまあ、後からつけたもんでしよう。(笑)それから、おそばは好きでいらっしゃった。それは寛師ばかりじゃない。今あまり坊さんに、そば好きはないですけれどもね、わしどもの青年時代はね坊さんの御馳走はそばが一等でしたよ。だから、自分たちがそば好きでしたからね、客がくると、すぐそばです。「そば打て」といわれるときは、貫首さん、よほど機嫌のよいときです。わしどもの師匠なんかはそば好きでね。うどんよりも、そばでしたよ。何か、この、御馳走食いたいということになるとそばです。「そば打て」ということになる。そしてですね、例の東京のざるそばの五杯や六杯じや承知しない。十杯ぐらい平気で食ったものです。それがですね、だしが何かというとてすね。イモガラです。イモガラというやつは、ちょっと、こう、うでるというとね、いい味が出ます。うで方がまずいというと、おかしく渋くなりますけれども、イモガラです。椎茸なんか、高いから頁わない。よくて人参です。それから秋のキノコ。キノコといっても、あの邊は初茸が少いですからね、モグサのなんかの。そういうものがダシですねわしの師匠がそば好きで、わしが、この、ダシがまずいから自分で研究して、渋柿の皮を干してですね。それをダシにした。渋柿は皮をむいて干すでしょう。それをうっちゃるんでしょう。それを天気のよいときからからに乾かしてね、それを、さっと、うでる。すると、いいダシがでる、それはわしが発明したん’じゃ。(笑)それであげたらね、「きさま、不器用だけれども、どうして、こんないい味をでかすんだ」といつてね。

 ○渋柿のダシ

 【堀上人】 ええ、うまかった。大体、取りようが悪いと渋が出ますからね。そういうふうで、とっても、そばが盛んに出ますけれども、うまいダシなんかなかつたですね まあ東京のお客さんなんかくるというと、「御本山のそばはうまいけれども、ダシがまずいから、今度きたときは、そばやからタレをもつてこなくちや」なんていう客が多かつたです。

 ○ はあ。もっとも、あの頃では、ほかに食べるものがなかった、

【堀上人】 ええ。

 

【日寛上人の業蹟】

 ○ 今の、大石寺に日寛上人の御書きになったものは御法蔵にある。

 【堀上人】 ええ、御法蔵にある。六巻抄から、御書の文段もある。御書の文段が、ほとんど明治30年ごろまで、ないときまっておったです。わしは、それでムダやってね、いろんな古い寫本集めて自分で校訂して寛記撮要というものをこしらえていたです。そしたら明治40何年ですか、大正になる間際に御法蔵で発見したです。御法蔵も狭いところでないから、特に気をつければよかったけれどもね。また後で、手をつけると叱られるからね、棚の上にあげてあった。ほつぼり出して。誰も気がっかなかった。ないことにしてしまった。調べてみりや、大がいあるです。散失しているのは少かった。

 ○ 日寛上人様の、この簿記(続家中抄)は正しいですね。

 【堀上人】 量師の寛師の伝記はですね、続家中抄は量師が書かれたものですけれどもね。その量師以前に、日堅上人の伝記があって、それからですね、日詳上人の御説法の中に、寛師のことを書いたのがある。そういうのが材料になっているらしいです。あとで想像して害いたのしやないです。そう.いう確かなものが残っているです。

 ○ この、御金を残されたということも事実ですね。

 【堀上人】 ええ、事実です。それはですねみな、五重の塔に因師が入れちやった。

 ○ ははあ、300両、

 【堀上人】 その300両からですね、今度は住職の、今の貫首の交替のときに100両づつ支度金なんて、そんなものやら、いろんなものを、みな方丈に保管してあるものを、五重の塔の資金が足りないで、そしてですね、因師がそれに使われた。で、そのときのですね、五重の塔の會計の目録がわたしのところにありますがね。4000何100圓かかってくる。4000何100圓かかって、あれは諏訪大工の……名がありませんけれどもね、信州の諏訪に有名な大工がおってね、それが作ったらしいですよ。本山の記録には、大工の名が書いてありませんがね。

 それは一時わしのところにきていた、その、面白い学者がおりましてね、天幕かついで、そこら中しらべて歩く学者だった。(笑) 一つの何ですね、何といいますかな今よくやりますね、そこら中、発掘してねあれのちよっと小さいのですね。自分の調査のですね、地方の了解をうるまでは、テントの中に入って待つというようなね。ですから、テントをかつぐんですから、自分が発掘した材料なんかも持っているです。 それを、わしが貰った。長野県で堀り出した昔のウハバミですね、これくらい骨がありますですね、三寸ばかりありますがね、どのくらいのウハバミじゃろうといいますと、四斗樽ぐらいじゃろうというのです。 立派なものです。中の髄のようなところなどにはね、キラきら光ったものなどがありますね。そりや、ガラスかけるのですよ、それだけ別に取り出して……そんなものまで持っているんです。いろんなものをくれるというが、いらんから、それだけもらった。それで仲々ですね、建築にも明るい。 とうしましたか、有名な人間になるべき人間なんですがね。久しく消息をきかんから死んじゃったんじゃないかとも思う。その男のいうのに、「これは諏訪大工です。この手法はいくらも、ほかにあります」なんて、もっとも、あの頃の田舎大工のやり方とは違うんですから。  

 ○ 当時は、ずいぶん、この、お所化さんの中にも、學者が多かったわけですね。 日寛上人様の御説法、講義をきかれた。

 【堀上人】 何しろ、その門下が大変ですよね。あれで、御説法の聞き書きについてですね。観心本尊抄の聞書が一等多いです。 観心本尊抄の聞書が六種類もありますかねだから、肝心の本尊抄の研究などには、とっても良いですよ。それ、聞き書きですからね、その人の、書いた人の御意見が、いくらか挿入されております。聞き書きちうのは、その場で速記するなんていうことはなかったですからね。頭において後で書いたもんですから。ですから、自分の主観が大分入っている。そこに面白味がある。

 ○ あれだけ残っているくらいですからやはり、もっとあったわけでしよう。

 【堀上人】 ええ、あった。

 ○ そのころ残された300両というお金は、今ではどのくらいの金額なんでしようか。

 【堀上人】 そうね、あれで、小判でですねあの時分の小判が、そうですね、慶長大判とは格が違うですけれどもね。まあ、明治になって残りつている小判の中では、中流以上の格があったでしよう。だんだん後になってくると銅が入ってね、品質が落ちたですけれども。慶長時代のは、ほとんど純金ですからね。入つても、まあ、銀が一割か五分しか入っていない。

 ○ 日精上人の家中抄上中下は歴史的に誤りが多いということはわかりましたが、日量上人の続家中抄はいかがでございましようか。

【堀上人】 続家中抄はですね、近世になって書かれたもので、量師が本山にあつた大途日記(方丈日記という意味)や公用文献などをもとにして書かれなさつたから、誤りは少いんじや。ほとんど信用してもいいと思う。だが、もつと、くわしく書いてもらえばよかつた、近世のものじやからね。

 ○ それでは今日は、日寛上人までで終らせていただきたいと思います。大変にお疲れと存じまして……

 【堀上人】 いや、なに、わしや平気です。くわしく、お話すればきりがないけれどもですね、要点はそれですから。

 ○ はあ……

 【堀上人】 しかし、話が聞えますかしらんわしはね、今から三日ばかり前に歯を入れたばかりで……

 ○ 充分入っております。おかけしてみましよう。   (テープレコーダーをかける)

 【堀上人】 うん、これはよく聞える。わしの声は若々しいな……これならあと五年や十年は大じようぶだ。(爆笑)

 ○ 御忙しいところ、どうも永い間ありがとうございました。  (文責在記者)

 

 


 

 

(3)

 

 先月号につづいて御多忙の堀上人を畑毛にお訪ねし、日寛上人以後の富士宗門の歴史について、いろいろ有益なお 話をお聞きした。

 

【學頭寮の復興】

 ○前号では日寛山人までの歴史について概略のお話をねがつたんですけれども、その後の主なできごとについて、今日は引き続きお願いいたします。  始めに學頭でございますが蓮蔵坊を復興なさつたというようにいわれておりますけれども、そのことについて、お願いしたいと思いますが……。

 【堀上人】 ええ、蓮蔵房は例の、道師と郷師との72年の事件のためにですな、御本山では、その当時、ちよっと、あの地所が汚れたというような気持でしよう。ですから、ほとんど、うつちやってあったですね。ですからほとんど建物もなかったらしいです。

  それでですな。日精上人が要法寺から大右寺へ入られてから外形上の復興は敬台院殿の助力でもってできたのです。堂の修理再建、それから寺中の宿坊の割りかえなんかが立派にでき上ったんですけれどもね。 やはり、その學寮はそのまま、うつちやつてあったんですね。敬台院殿は細草檀林の新建に力をいれられたですね。そして、本山の教学の方は、あまり力を入れられなかつたんです。ですから、本堂やいろいろな建物も完備したんですけれども、どうも、學寮の再建までは及ばなかったんです。

  それから、25代の日永上人が、いろいろの計晝をされることが趣味の人で、精師が大きく復興されたあとに、いろいろなまた新しいものをこしらえたのです。ですからいろいろな什具というようなものですね、今の釣鐘であるとか、それから、まだ、そのほかにも、澤山ありますが、そういうものに、永師の銘がはいっていますから。釣鐘はちよっと前にできたんですけれどもね。そして、その事業の中に、今の御経蔵ができたんですね。御経蔵ができて、明本の一切経を買って入れた。相当したでしよう。お山に今日まで残っておりますからね。

○ そのときのが……。

 【堀上人】 ええ、そのときのが。小口書きは日寛上人が書いてござるです。それで虫はつきませんでね。唐紙の薄い地です。そのかわり、扱いを粗末にすると破れちやうです。

  その経蔵もできるし、日永上人によってさまざまな計書が實行されて、學寮もおこされたのです。學寮をおこすについてもですね、學頭になるべき人を、こしらえなけりやならん。そこで、このときに學頭になられたのが寛師です。

  この当時の細草檀林は春秋二季に通ったのです。3ケ月づっ続けてね。その間の6ケ月は、本山にいるか、または地方の住職寺に帰るか、どつちかだったのです。學僧は所化よりもですね、住職務の人が多かったのです。所化もありますけれどもね。寺をもった人が相当に檀林に通っていた。細草檀林ができたためにですね、今の千葉県の本城寺ができて、それから真光寺は、その前にできていて真光寺に寺中が三ケ寺ありましたからね。そういうところにも檀林の休暇中の学僧をいれたんです。それから江戸に帰って、常泉寺・妙縁寺・常在寺というようなところにつとめている若い学僧もあったですね。しかし、どっちかというと本山に還った方が、所化としてはノンキですからね。ですから、本山に帰る方が多いので、そのために本山に學寮ができたわけです。その時にできた学寮は今の図書館の石垣の上に、南を正門として今の図書館の門よりも、ちよっと西の方になりますか。 そこにあって、東西に分れて、所化寮があつたです。その上に今も残っております學寮の講堂ですね。それから学頭のいる庫裡などがあった。ちよっと、永師のときの再建と今のは、様子がちがいますけれども、位置は大がい、あの位置にありました。この日永上人の御建てになったのは慶応2年に焼けて、しばちく再興ができなかったですが、明治23年に私の師匠(日霑常上人)が再建した。そして、今の形はちよっと日恭上人時代に変りましたけれどもですね。 左の佛間の左の方に上段があってね。そこに、■式の台をおいて、そこで御書の講義をするというわけです。師匠(日霑上人)も、それを計畫して自分でやろうという考えでしたが、そのときは74歳だったのです。病気さえなけりや、壮健でしたから自分でやるつもりであったんです。その前に六壹を再建されてね。それで、六壷で御書の講義をやったのですよ。

 ○ 六壺つて、どういう意味なんでしよう。

 【堀上人】 六壷というのはね。あれは宮中に六壷という室があるんですよ。そういう名をうつしたらしいですね。

○ 何をやるところなんでしようか、本来は……

 【堀上人】 そう、六壷というのは、宮中でいろいろな事務をとるところですね。それでで御開山時代の六壷は、たしかな■は残つておりませんけれど、いい傅えによると間口が十二間ですか、十二間四角ぐらいの間口を四つに仕切ってあった。そして、東の入口が佛間で、そこで大ぜいの人が勤行することができた。西南の角が末寺弟子等の集會所。それから西北の方が事務所で、東北の方が御開山上人の居間と。こうなつていたらしいです。

 ○ その全体を六壷といつたのですか。

 【堀上人】 そうです。ですから、六壷の六の字にこうでいしていえばですね。六つの部屋がなくちやいけないですけれどもね。 そういうことは、くわしく説明した本がありません。

 

【學頭日寛上人】

 【堀上人】 それで、先程のお話をつづけますと、日永上人が學寮を作つて日寛上人を学頭にするという■定でできた學寮です。

 ○ この当時からの方は、大てい猊座に上られるまえに学頭になったでしようか。

 【堀上人】 そうです。そういうことですね。 それで、実績からいうと、日永上人が學寮をおこして、そして、日寛上人を学頭にしたんですからね。日寛上人が學頭の初代となるべきですけれどもね。いくらか寛師も御けんそんの意味でしょう。初代の学頭ということをヽうけられなくてねその書きものも残つていませんですけれども、その意味でしょう。ですから、寛師は学頭というものを、日目上人を初代として、二代目が日有上人、三代目が日精上人となつていて、日寛上人は六代目の學順になっていますよ。ともかく、学頭としての職を始められたのは日寛上人です。

 ○ 本来なら、その學頭という方が、お所化さんを集めて講義をなさるという、たてまえなわけですね。

 【堀上人】 ええ、それですけれどもね、どつちかというと、日寛の學頭のはじめは、あまり小さい所化は聴講生、つまり修学生になつていなかつたですよ。壮年の者ばかりですね。ですから、あの時分の所化というものは大所化です。塔中の住職、または末寺の住職としてつとまるような年をとつた人でも、志願して本山にのぼつて、寛師の講席にあずかる。または寛師の講席にあずかるまえに、細草檀林にのぼつておる。 そして檀林の休暇のときに本山に帰って、例の学寮に生活してたんですね。

 ○ この当時の方々は、ほとんど、もう細草檀林へ行かれたのでしようか……

 【堀上人】 そうですね、末寺の人もありますけれどもね、寛師の講義を聞いた人の名が、ところどころ寛師の書きものの端にありますがね。それをみますと、末寺の人もありますけれども、大がい、どつちかというと、末寺の住職でもなくて年をとつた所化で、将来に次の学頭になるとか、能化になるとかというような有望な人が多かつたですね。それから、大ぜいのため学寮ではせまくて本堂でやられたこともある。開目抄などは御堂でしょう。

 O 「予四十九歳の秋、時々御堂に於て開目抄を講ず……」なんて、三重秘伝抄にありますね。

 【堀上人】 ええ、そうです。御堂のときは所化は東西に分れてね、相当の人が集つたらしいですね。40人、50人と書いてあるのがありますからね。それが小僧ではないんです。みんな列席するのは、洛中住職や末寺の住職でなくても、年配はみな、住職のできる年配の人ですから。40ぐらいで講席にでた人がたくさんありますよ。観心本尊抄の寛師の御講義をきいて、その内容を書いた人が5,6人ありますからね。みんな年寄りですよ。そして塔中住職でも何でもないです。ですから、日因上人や日東上人、日忠上人なんていう人も30、40ぐらいの年配ですね。次の学頭になつた日詳上人などは40以上でしょう。

 ○ ああ、そうですか。

 

【細草檀林】

 ○ ちよっと前後しますけれど、細草檀林は、いつできたのでしようか。

 【堀上人】 ええ、あれは大綱ですね。東金の檀林から分離して細草の、ちよっと東金から離れたところにできて、そこからまた分離して細草にできたんです。そして、そのときの講師が八品の妙蓮寺の學曾だったのです。要集にその歴代表がのつております。そのころ細草の地方に地所をあげる人がいたのです。というのは、あの時分、材のいくらか経濟上の関係もあったでしようそういう僧侶の大ぜい集るところができれば、何かと村の調子がいいですから。それで、まあ、地所をあげる人があった。地所はあがつたんですけれども、建物をたてる人がなかった。

 ○ 細草檀林というのは正宗の人ばかりじゃない……

 【堀上人】 ええ、細草檀林はね、富士諸派とね、それから八品だ。顕本はこなかつたです。八品の一部と、富士ですが要法寺はあまりこないのです。要法寺は小栗栖檀林をもっておりますから……。全部こないわけしゃない。地方の関係から、細草に通うのが便利な人は細草に通ったけれども、わざわざ京都から、細草に通う人はなかったらしいです。ですから、まあ、細草檀林のはしめはどつちかというと大石寺が金主で、妙蓮寺の貫主が學頭で能化であって、やつてきたのですね。

 ○ 檀林では佛教だけ教えたんですね。

 【堀上人】 ええ、仏教だけ。というのは、あの時代は大概その學林の親玉である天台宗の叡山の檀林が衰えてね。そして関東に檀林ができたのです。埼玉県の仙波にですね。あそこも田舎檀林として……仙波は川越のそばです。

 ○ 沼田あたりにもあつたでしよう。

 【堀上人】 沼田は、あれは一致派の檀林ですね。

 ○ ああ、そうですか。

 【堀上人】 檀林のおこりはですね、叡山が戦國時代にだんだん衰微して、そして田舎の檀林が各方面にできるですね。関東にできたなかで一番大きいのが、その川越の近くの仙波檀林です。それから相模にも美濃にも檀林があった。まあ、檀林がいくっにも分離してしまったわけです。

 ○ 大石寺の猊下なんかは、みんな細草檀林を通ってきたようですね。

【堀上人】 ええ。その以前はですね。大綱檀林出身もあれば沼田あたりの出身もあるんですよ。そして、細草ができてから、みな細草に行ってしまって、ほかの檀林には行かなくなったです。はじめはお山の貫主さんも檀林出身でない人が多かったですね。それで日精上人が檀林出で本山の貫主になつたはじめです。要法寺からきた人には、細草に縁のある人が少いです。というのは、日精上人あたりは細草檀林のできない前の人ですからね。

 ○ 細草って、どの辺ですか。

 【堀上人】 ええ、細草はね、今の、廣瀬の本城寺から、南東にあたる海岸ですよ。細草村という村があります。干葉県東金市の南東です。そのあとは、小さな六尺か七尺の水が流れて、そこに橋でもかかっていたらしいですね。今は、その橋も残っていません。ちよっとした建物が一棟残っていました。今はどうか知らんけれども。私が調査に行つたときには、四間四面くらいなのが残っていました。

  はしめは妙蓮寺と兼幣の檀林であったのですけれども、やっぱり八品の中でもですね。鷲巣や岡宮あたりは細草に行ったらしいのですけれども、どうも歴代表をみるというと、妙蓮寺出身が多いようです。妙蓮寺は……八品の方は尼ヶ崎の檀林が大きいですからね。ですから八品の全体はこなかたですね。それから、だんだん後になってきて、檀林の開闢100年、150年となつてくるとね、ほとんど大石寺檀林になってしまったですね。というのは、ほかの富士……要法寺は別ですが……富士六山が大石寺ほど盛んにはならないでね。だんだん衰微していた。北山は、徳川初期は盛んでしたがね。いろんな悪いことがあって、そうですね、3,40年の間に相当な火事が10ぺんもあったという。それですから、すっかり寺の形を復興するのに困っちやって。ですから、檀林どころじゃないです。

○ みんな焼けたんですか、北山が。

 【堀上人】 ええ。

○ 檀林どころじゃなくなった。

 【堀上人】 ええ、檀林どころじゃないです、食うのに困っていたです。それで北山では自分の寺では維持ができないから、いろんな方面の寺からですね、貫主をもつてきてその力でもって回復しようとした。明治になってからも、それをやりましたね。

○ あの、日志なんかそうですね。

 【堀上人】 ええ、日志もそうです。今度の片山なんかも、その流儀ですよ。身延からもってくるなんて、けしからんですね。もう、ほとんど100年、200年の前から、そういう習慣があるんです。

○ 檀林では主に台學をやつたんですか

 【堀上人】 ええ、檀林は主に御書法度でね御書は表向きに研さんできない。内緒ではかまわん。御書を表向きにやるというとね諍論がおこるからできなかった。

  大綱から沼田にきて、沼田から細草にきたみです。大綱は顕本ですがね、顕本と衝突して、そこで沼田ができて、沼田がまた富士門下の人と八品の一部が衝突して、そして細草にうつつたんです。そういう争いが何からおこるかというと宗学からおきる信仰からおこってくる。ですから、よく背の人がいっておりますけれども、細草でさえですね。宗祖の御影の衣がしよつちゆう變つちやうんだ。能化が変るというとね。

  富士門の能化が出るというと薄墨の衣をきせる。八品の能化が出るというと緋の衣をきせるという。そんな関係があった。

 

【人格のすぐれた方】

○ 日東上人や日忠上人が細草檀林で教をうけたという覚真日如という方は……

 【堀上人】 日寛上人のことじやよ。

 ○ 日東上人なんかは、亡くなられるときに、御本尊様に亡くなられる日を御書きになったと家中抄にありますが……

 【堀上人】 そういうこともあるんでしよ。それで、寛師の直弟ではないですけれどもね。寛師の次の方が詳師、それから東帥、忠師、因帥と続いていますが、みんな寛師について學問せられた方ばかりです。ですから寛師のそばについていた人で貫主になった方が四人あって、それから、貫主にはならなくても、能化で、末寺でも相当の地位にたった人が3,4人あるです。それから寛師の御弟子でですね。寛師の御在世に、まだ8つか9つの小児であった人が後になつて日元上人と日堅上人になられた。

 ○日寛上人様は亡くなられる日を予期されたり、また先はどの日東上人の例などお珍しいことですね。

 【堀上人】 やっぱり、あの時代は一般の人の人気が違っていたでしょう。そういう、その想像されないような、いろいろな伝説が残つておりますね。今はあまりそういうことがありませんね。そういう清浄な、きれいなことは少くて、どっちかというと、理屈つぽい人、學間でもする人がえらいと思われて……。

 ○ 末法の末法なんていうことになりますね。(笑)

 【堀上人】 ええ、末法の末法。(笑)ですから、また、信者の見方でもそうですね。あまり清浄な坊さんで世事を超越したような人は喜ばない。少しぐらい悪いことをしても、話がうまいとか学問ができるとか、とかという人は貴ぶ。わしどもの知っているかぎり、日布上人なんていう方は、もう、とっても行いは立派な人でしたねえ。生ぐさいものは食わないですね。御馳走というと、ソバだ。そのソバもですね。シイタケのだしなんか、めつたに使わないで、ときどきにでるキノコのだしでも使っておれば相当のダシだ。東京の御信者は困つちゃって、「お山のおソバも結構じゃけれども、このダシじゃ、どうも……」といっていた。醤油だって、『キッコーマン』なんていうのは、お山では、ほとんど、みたこともないのですから。手づくりの、からい醤油でした。

  身体が大変お強かったからね。足が達者でした。そうですね、ゾーリとか下駄とかそういうものは、はかれなかったですね。高い足駄ですね、高足駄をはいて、そしてあゝいう山を音もたてずに飛んで歩いたことがあった。そんなに身体が丈夫でした。御堂に上らないで、上り段のところにうずくまって、お講の始まるまえにお経を読んでおられた。人が大ぜいくるとうるさいから、早く起きられて、かならず、お経をよんでござったです。そういうふうな、潔ぺきなお方でした。お山では大きな7トンが敷フトンになっていますけれども、その大きなフトンを、そのまま敷かないで、二つに折つてね、中に身体をはさんで敷いてござった。謙そんなお方でした。

 

【日因上人と板倉公】

 ○ 日寛上人のあとの日因上人のときはずいぶん、いろいろ坊をお建てになったり……五重の塔をお建てになったり……

 【堀上人】 そうです。日因上人は長生きでした。83歳ですね。それで壮健なんでとっても、身体もでつかい人だったらしいですね。カも強かった。いろいろな力の強い伝説が残っておりますね。邪魔になる石をころがすとか、なんとかね。(笑)したがって、そういう勇気がですね、いろんな書きものの中にあふれているのですね。あふれているが。とっても文字がわかりにくい。いつかあんた(小平教学部長)にお目にかけましたかね。みんな、あんなむつかしい書き方でした。歌よみでしてね、歌がたくさん残っておりますけれどもね、よめない。そんな、せっかく書きものがあるんですから、私が寫しかえて、一般の人もよむようにしたいと思っております。

 ○ この前のは三重秘伝抄の五解釈だったんですか。日因上人の………

 【堀上人】 ええ、三重秘伝抄です。注釈書が3部ばかりあって、あとはよしてありますがね。それがあることになっているんだが、どこにしまったの か、わからんのじや弱っちやってね。美濃の大きな本で紙は30丁弱ですけれども、厚い紙の大きなものです……

 ○ 日因上人が三問三答の論講を修むと績家中抄にありますが……

 【堀上人】 三問三答の論講というのは、叡山の論義の儀式をうつしたんですね。論義の次第ですね。問者と答者というのがありましてね。問者というのは、どっちかというと、若い學者がつとめるんですね。答者というものは、立者ともいいますがね、それは老僧の主な人がやる。それから、どうかすると立者になり答者になる人は、貫主さんがやることもあった。

  ○ ああ、そういえば、湊先生の小説に出ていたね。比叡山でやったなんてありましたね。

 【堀上人】 ええ。叡山の儀式をうつしたんです。

○ このときに、日因上人が板倉勝澄公を折伏なさったということが書いてありますね。

 【堀上人】 板倉は、例の、板倉周防守と通稱している徳川初期の京都の所司代をやつていた、あのやかましい板倉勝重公の子孫です。その本家ですね。板倉の宗家です。板倉は幾軒にも分れていますがね。

○ 周防にいたわけですか、板倉周防守は……

 【堀上人】 いや、周防守は守號で、そこにいたというわけじやないです。まあ、戦国時代から守號は、ほとんど虚禮でしたね。王朝時代は、守というと、その國の政治をする人をいつたもんですけれどもね。後に戦国時代からは、一つの美名になっていたですから、守號をもたんと幅がきかんということまでになった。ですから、その国とは関係のない守が多いです。

 ○ 羽柴筑前守なんていったって、秀吉はそこの筑前にはいないんだから。

 【堀上人】 ええ、そうです。一国を治めるだけの力のない人でも、何かの縁故でもって、守號を名のることができたですからね

 ○ 勝澄公と、天草の乱で戦死した方とは、どういう関係にあるんですか。

 【堀上人】 あれはですね、勝澄公の本家の先祖が島原で戦死されたんですね。

 ○ 邪宗退治をやったようなものですねその当時……

 【堀上人】 そうです。

 ○ だけど当時は、まだ信心していなかつた。それは、ずっと前の話だったから。

 【堀上人】 ちよつと、えらすぎてね板倉が戦死しないでもよかっだですけれども自分が先にたって死んだ。

○ 松平伊豆守をよこされるというので自ら先にたって死んだんじやないか……

 【堀上人】 自分が大将であって、しかも、自分で片づけないというと、自分の顔にかかわる。面子にね。それで自分が卒先してやったから、戦死した。それだけまた勇気があったんですね。

 

【五重の塔の建立】

 ○ 今の五重の塔は日因上人のときのものですか。  

 【堀上人】 ええ、日因上人があらゆる資産を入れて五重の塔ができたです。勝澄公がもとですけれどもですね。私どもに、その時の因師の書きものが残っておりますけれどもね。全部でもって、その時分の金で4000何100両という金だ。その中の1200百だったか、1800を勝澄公が出した。

  それからその時分に、大阪はあまり繁昌しませんでしたね。

  大阪の繁昌は、また、ずっと、後ですから。でも、いくらか、あった程度だ。江戸の講中は大ぜいだっな。それから関東方面に今でも古い寺が残っています。それもほとんど、まとまって1000両は出せなかったんでしょう。ですから、どうしても、2000両弱の不足ができてきた。で、因師がやりくり算段で、もう、大がいのものを、それに入れちやった。御自分の、長いこと隠居されて、どっちかというと裕福でしたがみんな出された。日寛上人の残された戒壇基金とか何とか、そういう金もその中に入れちやった。          

 〇 日寛上人様の残された基金は、このときに……

 【堀上人】 そう、そのときに、お使いなさった。それで、あとで、寺中から問題がおこったんですけれども、しようがない。そのときの扱いが、書類に残っている。それを、まあ、志のある貫主様がですね、寛師の御志を残さなければならぬといって運動されたこともありますけれども、それは成功しないで、そのままになっている。今の淳師ならば、そういう考えができるかもしれませんけれどもね。ちよっと、思いきりのいい人でなくちやね、そんなことはできないですよ。

 ○ それから、同じくこの31世日因上人の頃に、造立する坊舎とあって、州東坊・宗順坊・清光坊・西山坊・神座堂等々……

 【堀上人】 しかし、建立になっていますけれどもね、一とう大きな因師の隠居所というのは東之坊です。東之坊の位置は、今のお塔に渡る川に近い方の位置にあってね。 古い寛師堂の隣りにあったですね。古い寛師堂というのは、角にちよっと杉林があって、高い地所があるでしよう。あれが寛師堂でした。その寛師党をですね、常唱堂といって、あそこで日寛上人が六人のお題目を唱える坊さんをおいて、そして常題目をかかさなかった。隣りへ東之坊といって、でっかい坊ができた。そこへ因師がござった。あとのですね、小さな坊は、日因上人がちよっと、ござったこともあろうけれども、主にいろいろな人が住んだですね。いろいろな人が住んだですから、坊の名は残っていますけれどもね、その坊が100年続いたとか、50年続いたとかいうことは、たしかではないのですよ。名ばかり残つて。ですから名を合せるというと35,6もの坊があつたことになるが、ずつとあるのがないんですよ。坊籍ばかり多い。よく続いた坊は東之坊が割に続いた。一とう永く続いたのは○○坊ですね。今の本山の隠居所になつている。そして石之坊が今残つていますがね。あとの坊はほとんど、もう、坊籍も残つていないです。

 

【各地の法難】

 ○ それから、32世から48世の日量上人くらいまでの間に何か特別のことはなかつたでしようか。

 【堀上人】 その間にですね。御本山では、そうですね、善悪ともに歴史に残るようなことはなかったらしいですね。末寺では、いろいろな事件があつてね。

○ ああ、そうですか。法難なんかも、このころ、あつたわけですね。

 【堀上人】ええ、法難もあつたですね。加賀の金澤の法難なんかはながいこと続きましたからね。ほとんど明治まで300年間、続いてきたんですから……。不幸にして金澤に末寺をもっていなかったのがその原因ですね。末寺があれば、法難はなかった。 新しい寺をつくるということが問題でね。古い寺ならば、どんな邪宗でも何でもかまわない。新しい寺をつくるということは、もう、ほとんど禁制ですから。中間に手続きしたこともあるんですよ。やはり、この、金澤あたりの大藩に縁がうすくてね、成功しなかった。ですから、仙台の法難なんかも、そんなようなものなんですね。布教には覺林坊が成功したけれども、あんまり成功が早かったですから、かえって邪宗の坊主からにらまれて、そこから寺社奉行にうったえて、おかしな悪名をつけて30年も島流しにされちやった。

 ○ 仙台の法難は、ほとんど覺林坊……

 【堀上人】 仙台は覺林坊の法難が始めてですね。

 ○ そのほかには。

 【堀上人】 そのはかには、玄妙房という人が法難にあったのです。

 ○ ああそうですか。

 【堀上人】 玄妙房の法難は覺林房ほど、本当の法難にあったのしやない。名儀上の法難ぐらいでね、それは、佛眼寺に住職していたときてすね、例の身延派の孝昌寺にねいろいろな衝突があって、それがもとになって葬式があって、出すとか出さないとかのゴタゴタから藩の命にさからうというので、おっぱわれちやった。

 ○ 信州なんかは……

 【堀上人】 信州は先祖が干ケ寺詣りしてねそして偶然、大石寺に参詣して、そして信仰なさったのです。それですから、わずかばかりの人を集めて信仰していたですね。 それが自然この、檀那寺に聞えたですから問題になって、そして信仰をさしとめるとか、なんとかいう問題になった。それでもひそかに、ある人々は信仰していた。

 ○ 信盛寺は明治時代になってからできたのですか。

 【堀上人】 ええ、そうです,建物は、そう厳格じやないけれど敷地はね、街道から上って、のぼりきったところにある。その構造がほとんど塀をまわしてあって。一見、その、城廓の形をなしているですね。

 ○ 特別に信州の場合は、つかまったり殺されたりしたことはなかったのですか……

 【堀上人】 つかまったことは、ある。

 ○ ああ、そうですか。

 【堀上人】 そして、幾分か自由を束ばくされてね。どういうことしていかんとかいうことがあったですね。城倉の本家ばかりじやなかったです。城倉にくつついているほかの人も、いくらか法難にあったのですね。

 ○ この城倉氏は今はないですか、信州には。

 【堀上人】 いいえ、城倉はいくらもありますよ。

 ○ その系統の人が、いま……

 【堀上人】 そう、その系統の人が今でもおります。

 

 


 

 

(4)

 

【永瀬清十郎】

 ○ 砂村問答の永瀬清十郎について………

 【堀上人】 尾張は永瀬清十郎の努力ですねええ、尾張全体がそうです。一とう廣いのが尾張ですけれども、清十郎は随分各地へ布教しました。商資は小間物屋で行商に行って、そのついでに布教をやった。けれども後にはですね、小間物屋より布教の方に努力したんでしょう。それをまた、本山の日量上人が、ばかに認めてね、弟子というわけではないけれども、量師がしよりつちゆう使ってね、屋張に布教にやるとか、奥州方面の布教にやるとかされた。ですから、いくぶん布教費でも出したんじやないですか。先には小間物を買って、それ費用にして各地方に布教したということをいっております。量帥がさかんに使うようになってからは、やっぱり量師が旅費を少しくれられたんでしょう。  それで、量師時代にですね。どうせ布教するのならば、在家で布教するょりも曾侶で布教した方がよいというので、量師のお弟子にしてくれということを願っていたんですけれどもね、まあ、曾侶で布教するよりも、そのままの方が、かえって都合がいいからといって認可しなかった。けれどもその後でですね。久遠院について坊さんになったです。

 ○ 久遠院といいますと。

 【堀上人】 久遠院日騰といって、その当時の学頭です。10年も学頭でいて、猊下にならない人は、その人だけです。

 ○ ほとんど明治近くまで、いらっしやったですね。

 【堀上人】 安政2年、地震でなくなった。

  まあ、そうですね。寛師以来の大学者ですね。学問の範■が廣くてね、もう20年も生きてると、相当の書きものを残したんでしょう。52歳か3歳で亡くなったんですからね。これからというときに亡くなったですから、書き物が少いですよ。学問はそのかわり、わしの師匠などは、あまりよくいわなかった。学問のしかたが、あまりに広すぎた。その時分にはやった天文学までやっているですからな。いくらか、語学もできたらしいです。

 

【四十八世、日量上人】

 ○ この日量上人時代におこった尾張の法難は3人がつかまりましたね。それで拷問されたと……

 【堀上人】 そう、あの当時の拷問はね。ソロバン責めなんていってね、下に角木をおいて、その上にすわらせて、ひざの上に重い石をおく。血がでてもかまわない。失神して倒れると、それをまた牢屋にかっぎこむ。休養させて、またやる。ずいぶん、ひどいことをやったもんですね。

 ○ そのときに日量上人から、いろいろ激励のお手紙なんかいただいた。

 【堀上人】 そうです。量師の隠居時代ですから。ええ。量師も長生きであったですからね。長生きであって、面白い時代があってね。その、隠居さんが、貫主の勢力をしのぐという時代があったですね。ですから因師もそうです。量師もそうです。因師のあともですね、因師のあとの貫主さんが、因師に信用されんというと、何ごともできない時代があったです。五重の塔をつくるときなどは、因師御自身が出しやばらんでもね、貫主さんがあるから、やればいいですけれども、やっぱり、日因上人でなくちやできないような状勢になっていた。  まあ、長生きといっても、無用に長生きしているだけでなく、門末の僧俗からですね、■依されて信仰されて、その隠居さんが光ったわけです。それで、量師も長生きしてですね、いろいろな当面の用をたされる。隠居さんが出なけりや、仕事ができないというふうになっちやった。

 ○ 日量上人は、この続家中抄と大石寺明細誌を御書きになったのですね。

 【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ その明細誌のことを賓冊(ほうさつ)というのですね。

 【堀上人】 ええ、あれは、明細誌に序文を書いた人がいるんじや。その人が明細誌をほめちぎって、賓冊、即ち立派な賓の文というようにいったんです。それで賓冊なんていう名前になった。その人はごぐ純信な人でね。学者じゃないんですよ。だから批判的のことはできない。ただ、ありがたく奉っただけですね。ですが、内容がごくつまらない。まちがったことばかりであってね。また、あの時分はですね、まちがったことなんかも平気だったですね。ただやたらとありがたく書けばそれでよかった。

 

【明細誌の缺點】

 ○ 明細誌も、そういう傾向がある。

 【堀上人】 ダメです。もう、ひどく立派なことがまちがっている。それで、明細誌が北山問答にとりあげられてね。わしの師匠も困っちやった。

 ○ ははあ、日志がやってきたときですね。

 【堀上人】 ええ、あの日志がせんさく家ですからね。

 ○ 上野の南條氏についても誤がある…

 【堀上人】 ええ、南條といってもいくらもある中で、上野の南條家をばかに大きい南條家にしてしまった。鑓倉の北條家のために討死したなんていつている。討死した人なんて一人もありはしない。みんな生きてて、北條家が滅亡したあとで、御開山が亡くなつたけれども、その時分の葬式のお供をしているのじや、みんな。

 ○ ああ、そうですか。

 【堀上人】 南條さんの一族は、みんなお供している。

 ○ すると、南條家は錐倉幕府が滅びるときに、大ぜいの人が戦死したということはないんですね。

 【堀上人】 そうです。戦死するくらい北條家から用いられておればよかつたですけれどもね。北條家で相手にしないんじゃ。上野村の地頭くらいの者を、相手にしないんじや。上野村の地頭くらいの者を、相手にするねけがない。どんなに南條家が、がんばつたつて、50人の兵卒をひきいておられんのじや。それも、他に大きな南條がいくつもある。侍大将ぐらいになつて、あんた、1000人でも2000人でも部下をひきいている南條がいくらでもある。上野の南條さんは、士分の家来なんていうもの、10人となかつたでしよう。

 ○ よく、日興上人様を上野へお迎えしましたね。

 【堀上人】 お迎えしたのは、信仰が厚いからですね。自分の財力以上に身延の大聖人にも、ときどきの贈物をする。また御開山によくつくす。それは、南條その人がつくしたその上にですね、一門を集めてなさつたのじゃ。新田家あたりも親類ですからね日目上人なんかも南條の親類ですから。そんな、一族を集めて、お山につくしたんですよ。今じゃ、新田家が本山の創立につくしたことなんかは誰もいわないけれども、わしは、ときどきいう。むしろ、新田家の方が勢力があったでしよう。

 ○ああ、そうですか。この日量上人のころですね。やはり学問とか、檀林の関係とか、そういうことは、ずつと、同し徳川時代ですから、同じだったわけですか。

 【堀上人】 ええ、ほとんど、何一つ異状なしですね。

 ○ 日因上人のように坊をたてたということはあまりないですね。

 【堀上人】 量師はないです。坊を建てたというけれどもね、坊さんとしてですね、お山に■くしたために坊をたてて奉公をしたのも、いくらかあるでしよう。けれどもね東京の御信者方が、お山に隠居したのが坊になったのもある。そんなのは5人とか10人とかと生活するような坊は少いんです。 ようやく1人か2人の人がですね。静かに隠居するという坊ばっかりですね。ですから長くは続かない。記録には34、5ありますけれどもね。その34、5はいつも並んでいるわけじゃないんじゃ。200年なら200年の間に、できたり、こわれたりした坊を総計すれば34、5というわけだ。本山の塔中の坊さんの生活をかいたものが2、3通ありますがね。その中には、あまり表坊のほかはのつていないです。住職がなんであって、そして所化が何人いて、下男が何人いるということを、くわしく書いたのがありますよ。そういうものが残っていますが、裏坊というやつは、ほとんど、のっていないです。どうも建物があったものを書いたというようには、みられない書が多いですね。

 ○ この明細誌には、こまかいことが、いろいろでていますですね。

 【堀上人】 ええ、それが、みんな、まちがっているのじゃ。

 ○ 波木井南部六郎嫡男、弥四郎國重なんて……

 【堀上人】 そんなバカなことを、いつからか、いってきたんですね。せめて弥四郎という人がね、御開山の本尊分興帳、弟子分帳の中に入っていれば、いくらか頼りになりますがね。御開山の文書の中にも、この弥四郎という名はでていないです。弥四郎というのは、あの時分、ありがちですがねあの時分は、例の、太郎、次郎、三郎が通■であって、その上に弥の宇をつけるとか孫をつけるのが多かった。孫は実際孫ですから。弥はですね、いよいろ(弥)栄えるということから、めでたいという意味から、弥の宇をつけたんですね。

 ○ この明細誌に、全国の寺院がのつているようですけれども、

 【堀上人】 ええ。

 ○ これは大体、このくらいはあった・・・

 【堀上人】 ええ、あったですね。それはあったですけれども、要法寺関係のものも、のっていましてね。要法寺との関係が、はっきりしないで、習慣で、ここは大石寺の末寺だ、要法寺の末寺だというふうに、勝手になっていたですね。関東方面の要法寺の末寺は、大石寺でもって、支配してもさしつかえない。関西方面の大石寺の末寺は要法寺で支配してもさしつかえないというような、両寺一寺の仲のよい時代でしたから。便宜上、そういうことをやった時代もあったらしいですね。それ.から、中之郷の妙縁寺などはね、あれは要法寺の末寺ですからね。安政年間に裁判になって、そして大石寺の末寺になっちやつた。

 ○ 日量上人は弘化あたりですが、これで明治までは、変ったことはないですか。 千葉の法難と八戸の法難はいかがですか。

 【堀上人】 八戸の法難はですね。大したことはなかったですね。法難の範囲がごくせまいですからね。干葉の法難というのは。大石寺に関係ない。これは存外大きかったですね。

 ○ 弘化度の法難というのは、

 【堀上人】 弘化度の法難というのは、下條の身延の日朝のこしらえた小さな寺があるその問題でしよ。

 

【財政の窮乏と再建】

 ○ 明治に入りましたころは、お山では何代だったんですか。

 【堀上人】 明治のはじめはですね。日胤上人だったですね。日胤上人が日布上人を後住にきめた。これは、ちよっと乱暴でしたがね。日胤上人という人は気の荒い人でね。武芸もよくできた。ですから寺中の反対なんかなんでもない。とうとう無理やりに日布上人を静岡に呼んで御相承した。そのまた、日布上人と、いう人は、おだやかな人でね。ほとんど、生きているか、死んでいるかわからんような、穏健な人でしてね。    

 ○さきほど、お話しなさった……

 【堀上人】 ええ、

 ○ その日布上人の次が日霑上人……

 【堀上人】 霑師はですね。本山にはいないで殆んど地方を歩かれた。常陸阿闍梨というのを、飛脚阿闍梨なんて、自分で名前をつけてね。それがもとになって、金澤の寺ができたり、尾張の三ケ寺ができたり、それから九州の霑妙寺ができたりした。日霑上人の飛脚の働きです。

 そのころ久成坊に長谷川という現代向きの世才家があってね。すっかり、人のよい日布上人をごまかしてしまった。自分の家などはね、文化式というかほとんど旅館同然にこしらえたんですよ。中に廊下をはさんでね。南北にずっと客室をこしらえて。

 便所なんかでも立派なもんでしたよ。そんなことには才があった。ところがひどいことには五重の塔の銅がわらをごまかしてもうけたわけです。このごろトタンという珍しいカネができましたから、そのカネでもって作るというと、萬代むきで、銅がねのように錆びはしませんから、トタンに五重塔をふきかえた方がいいですなんて貫主さんに言った。

貫主さんは何にも知らん人でそうか、そんなものができたのか、じや、よろしく頼むなどといって、銅を高く買つてちやつて、トタンぶきにしてしまった。そういうバカなことをやっている。そして、それを塗ればよいのに塗らないでおいたでしょう。

そのトタンが錆びて、そこから漏るようになってしまって、それで仕様がなくて、日応上人時代にですね、そのトタンをはいで、かわらにしてしまった。それが充分でないから先年、学会の厄介になって修理した。

 まあ、とにかくそういう世才家があつてとても、派手な騒ぎをやったらしかったですね。酒樽をそこら中、並べてですね。飲み次第、食い次第で、さかんなことをやつたらしいですよ。それで、とうとうね、借金ができてしまった。その借金の返済ができなくて、大宮あたりでは大石寺だというと、もう、■一升もかさないということになってしまった。

それで明治15年の護法会議ということがおこって、全國からですね、僧俗混合の議員がでてきて、財政のやりくりを相談した。寺の名前でもって公債をこしらえて、全國に分配して負債の一分を償却したけれども、全般の返済はできない。利子さえも本山で拂えなかつた。又そのとき新しく月給制度にしてしまって寺中でも何でも月給にして、所化まで月給制度にしてしまつた。それやこれやで會計のやりくりができない。借金は返せないし利子もはらえなくなった。

 こんな時にわしの師匠が第3度目の住職になったです。3回以上やったのは始めてですよ。2回住職複住職はありましたけれどもね。3度本山の貫首になった人はないです。それで師匠が住職になったから、今度は末寺の人がですね、そういうふうに本山が苦しければ、この支払債書は本山にあげますといって、わしの師匠にどんどんもつてきた。

それで償却ができたです。そんな悲況な時代があったのですから内政の方からいってですね、寺中が少し多すぎて半分にしようなどという計■さえできた。というのは屋根のふき返しさえできなかったのです。

わしが明治21年に登山したときでさえも、寺中の住職の缺員が3,4坊あったですね、住職が、もう、ありあまって多くなったのは明治30年以後ですね。その前は、ほとんど無住でぶつこわれて、どうしようもない坊がたくさんあったです。

 

【明治初期の法論】

 ○ 廃仏毀釈なんかの影響も大分ありますね。

 【堀上人】 ええ、ありますね。大宮浅間をひかえていますから、あの浅間の手合いが悪気でもってね、寺をいじめたのです。そして又平田篤胤の門下のやつが伊豆から駿河、そこら中にいたですね。そんなのが、いろいろな、事のあるたぴに、寺いじめをやったですから。

 ○ あの大宮浅間は熱原法難のときでてくるのと同しですか。

 【堀上人】 ええ、あれですよ。あれですが熱原の分社の方でやった事件ですね。

 ○ ああ、そうですか。

 【堀上人】 浅間神社のすべての経費は富士から伊豆にかけての人がもったですね。ですから、ほとんど官用でもって材木とか大工とか、もってきたんです。御書なんかにときどきありますね。大官浅間の造営云云などと……あれは地方の人が負担した。

 ○ 北山との問答が明治12年にあったわけですね。         

 【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ あれは、結局、日志が死んじやったから、終ったようなものですね。

 【堀上人】 そうです。日志の議論が存外すばしっこい議論ですけれどもね、大体、アラ拾いの議論でね。大石寺のアラの、賓冊みたいなものに下らんこと書いてある。それからまたですね、文献のあるのにもかかわらず、あの時代にいろいろありがたい話をつくって傳染した。そんなものをとって議論をふきかけたんですからね。それだから、日志の議論は、今は、わしどものような研究家からみるというと、なんでもないバカバカしい議論です。もっと、日志が立派な頭をもっていれば、本当に大石寺と相談してですね。話しあいができたでしようけれども。日志はそういうくだらないことをやるために要法寺から迎えられたんですから。あまり大石寺が繁昌して、自分の寺が衰微するばかりですから。その復■策にもってきたんですから、何かその大石寺をいじめなければという考えしかなかった。 日志が悪いですね。ですから、コレラかなんかにかかって死んじやった。ポックリいっちやった。

 ○ やっぱり法罰でしようか。

 【堀上人】 ええ、そんな人が、まだ2、3あるですよ。要法寺のえらい人だったが高田の法蓮寺で、石油かぷって焼け死んだのがある。大石上人に、いろんな、あることないこと、つつかかってきて、喧嘩ふきかけてきた人です。

 ○ 横濱問答も、このころですね。明治15年か。

 【堀上人】 横濱問答も、はじめの間題にはわしの師匠が筆をとられたです。それから後は、その時分の学僧であった住職の山口信玉という人と、それがら藤本智境という人が筆をとった。最後の方はね。

 ○ あれも、田中智学がどっかへ逃げちやったから終ったようなもので。

 【堀上人】 ええ、田中は弱っちやったです田中という人は少年時代から改革家であってね。師匠の新井日薩あたりの手におえない少年だったですね。それで、いろいろな宗内の事情をみるにみかねて、改革しようという考えをおこし、その始めに大石寺とぶつかったので.す。ですから、田中の方じや、それが、もとになってね。田中は発奮して、いろいろな改革を始めたですね。

 ○ 大石寺に破折されたことが勉強になったですね。

 【堀上人】 ええ、薬になったですね。それと同しような事件が、清水梁山におこったですね。あの人は策士ですから、あんなのが大石寺へはいっていたら大変なことになったろう。

 

【最近の動向】

 ○ 明治33年ですか。大石寺が独立して日蓮宗富士派と公稱したのは。

 【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ これはもう、やむをえず合体したようなものだったのですね。始めから。

 【堀上人】 興門派というのはね。名称にはさしつかえない。興門ですから……。けれども、興門派に連合するということはね、富士八山の中で要法寺が中心になってやった仕事です。ですから、興門■規というのはですね、できたのは要法寺流で、できちやったです。

 ○ 八つといいますと、富士大石寺と、北山水門寺、西山本門寺、下條妙蓮寺、小泉久遠寺、保田妙末寺と京都要法寺、あと一つは。

 【堀上人】 伊豆に実成寺というのがある。

 ○ ははあ。

 【堀上人】 今、その中でですね。実成寺がダメなようですげれどもね。あとは大石寺に合同するつもりで、ともかく、一応ですね。単立の一寺になっているですね。あと、そのうちに手続きをとるでしょう、正式に。

 ○ こういうふうにして、まず明治の始めに無理して統合して、それが次第に、もともとのようにばらばらになって、それがまた、太平洋戦争中に、無理して身延なんかに統合して、それがまた今度は本当の意味で富士日興上人の正統にもどろうという傾向にあるわけですね。

 【堀上人】 北山なんか、すっかりダメになってしまったらしいですよ。北山が一とう大きいですからな。わしどもの知ったやつもいなくなった。そんな、身延に合同するなんてこういう、そんな頭でない立派なやつが元はいたですがね。それが死んじやった。今は、どうも、そういうのがいないらしい。西山はまあ、行く機会もありますから。やっぱり、自然そのうちには独立するでしょう。日向も同じ動きですね。

 ○ なおまだおうかがいしたい問題はたくさんありますけれども、今日はこの位にして終らせていただきます。最近では創価学会の会員だけでも40数万世帯と、大きくふべれあがってきています。明治の初期の悲況時代や、今日はまだお話にでませんでしたけれども、戦争中や終戦直後の時代からみたら、全く隔世の感だと存します。

 ○ どうも長い時間、ありがとうございました。

 

 

 

【三大秘法に對する各派の考え方】

 

【小平】 それでは次に三大秘法について、どうでしようか。 三大秘法というお言葉はいろいろな御書にございますね、

【猊下】ええ、そうそう。

【小平】 そのことは門下でも全部知っていた……。

【猊下】ええゝ。

【小平】ただその内容を知らなかったわけですね。

【猊下】そうですね、三大秘法を因果国の三妙に分配するということはですね、殆んど日蓮宗としては、どの宗門だっていっている。本因妙、本果妙、本国土妙。ですから、本因妙の題目、本果妙の佛、本国土妙の戒壇、これは決まっている。決まっていますけれども、本因妙の本因がきまらない。本果妙は大概きまっておる。本国土妙の戒壇がきまらない。5、6年前から本山の研究科で三大秘法の解釈をやっておりますがね、やっておりますけれども、何からやっていいかということを考えましてですね。私のものは歴史的な三大秘法ですからこう考える。歴史的にみると題目の歴史は、至って単純です。それから題目の本果妙の釈尊の佛の変■も大したことじやない。戒壇というのは、事実ですからね、一ばん、こりゃ、うるさい。だから戒壇から始めた。戒壇から始まったけれども、迹門の戒壇で一先ず、仕切ってね。本門の戒壇にまだ入らないです。ちよっと本門の戒壇をやりましたけれども、ほんのまだ緒論だけです。  問題は本門の戒壇が大問題です。もっとも、御本尊もそうですけれども……。というのは、戒壇ということは殆んどですね、実際に、よその宗では問題にしていないのですからね。たゞ綱要日導が、戒壇というのは「時を待つべきのみ」という文から、時を待たねばできないといっている。あの人の綱要にそれを明示してある。綱要日導以前は、あまり戒壇ということはいわなかったらしいね。

  お題目を心中に唱えるということが戒躰受戒だということを考えておる。殆んど戒壇ということはなかった。

【小平】 綱要日導は一致派ですか。

【猊下】 ええ。

【小平】 それで、徳川末期?

【猊下】 ええ、末期。

【小平】 それが、その「戒壇は時を待つ」というのですが、大体は、どんな考えでいったんですか。

【猊下】それはですね、綱要日導以前に戒壇ということをいった人が、健抄ね、御書の健抄ね、あの人の説明に戒壇説がある。

【小平】 どこの人ですか。

【猊下】 主に関東の各檀林に先生としていた人ですわ。宗派は一致です。それから、先だって寫眞をとっていただいたがね、日統という人がいました、それも、関東の檀林の先生です。その人が、富士の戒壇をいっている。それくらいのものです。彼は富士には既にこの戒壇があるといっていて、こっちの方にも、こしらえなければならんということはいってない。ただ富士に戒壇があるといっただけですね。それから健抄の日健も富士に戒壇があるということをいってですね、これは富士に戒壇があるばかりでなくて、こっちにも戒壇を建てなけりゃならんということはいっている。それから一致派の中山から身延、京都の各本山も戒壇というものは、お題目を唱える心中が戒壇だといっているだけです。

【辻】 室住なんか、そんなこといっていたね。

【猊下】ええ、それが一般でしょう。今でも、やっぱり、それだよ。身延の戒壇を、いったのは、この頃ですよ。

【龍】 身延では前には戒壇ということをいわなかった?

【猊下】そう、いったのは20年前ごろからですか。(笑声)  そりゃ、戒壇をやかましくいったのは田中智學です。それは富士戒壇説だ。

【小平】 身延では、どう考えて……。

【猊下】 宝塔品のね、是名持戒じゃ。あれが、まあ戒壇になっている。戒壇はつまりお題目を唱えるところはどこでも戒壇だ。そんな■つくるしい、一地方に限るなんて いうことはない。信心をすれば、その信心の道揚が戒壇だと、そういう。ですから、建物からいうとですね、信心の道場が戒壇であり、肉体からいうと、お題目を唱える舌の上が戒壇だという。

 

 

 

 

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