51  21世紀への宿題ーー愚になることかできるか否か


 2000年問題という言葉はいまや小学生でも知っている。その小学生も知っている言葉の意味が、いまいちはっきり分からなくて、いささかおもしろくなかったのだが、さすがにあっちからこっちからそれに関する情報が断片的ながら漂ってきて、おぼろげながらわかってきた。どうやらコンピュータ開発のハナに、たとえば 1975 と年号を入れるところを 75 と略した為に、 2 0 0 0 年になると00になって、 2 0 0 0 だか 19 0 0 だかコンピ =コンピュータは判断しかねて、誤作動を起こすというものらしい。その対策も随分進んで一般生活には殆ど支障はないようだが、年末には非常用の食料や水を用意するよう呼びかけられている。

しかしそれにしても、なぜこんなことが予測されなかったのだろうか。いや、こんな子供にもわかるような単純なことを、一流の学者が知らぬはずはない。恐らくわかっていながら、現実問題、たとえば効率の良さなどが優先して、結局こういうことになってしまったのだろう。

先に東海村の核燃料加工施設で起きた臨界事故は、被爆した2人の死者を出したが、そのあまりにずさんな作業内容に驚かされた。ずさんになった原因が経営難から来る人員削減、作業員の教育不足というのだから、開いたロがふさがらない。いくら安全性が強調されても、そんなものは所詮子供だまし。薄氷を踏む如く、いつどこで事故が起きても、ひとつも不思議ではないことが良くわかった。そもそも原子力発電所から毎日排出されるプルトニウムの処理管理にしてもいい加減である。原子爆弾の原料くらいにしか利用価値のない、それでいて恐るべき量の放射能を持つプルトニウムが、原子爆弾開発が縮小されつつある今、買い手もなくドラム缶かなにかに入れられて保管されているのをテレビで放映しているのを見たことがある。こんなことを続ければ将来大変なことになることは誰の目にも明らかである。だが原子力発電所は今日も当然のように大手を振って稼働している。国民もたいして騒がない。何故か。恐らく今日明日に問題は起こるまいといういい加減さと、日本の電力の多くが、原子力発電に頼っているという現実があるからだろう。
 二十世紀の流義というのは、概ね是体のものであったといってよいだろう。自然という大きな運行に、さかしらの知識を持って棹さし、目先の安楽を獲得してはそれに倍する問題を引き起こし、反省も解決もせず先送り先送りしていく。それがたまりにたまって迎える二十一世紀は、まさにそのつけをいかに返していくかを問われる時代となるであろう。
 ではどのようにして返していくべきか。第一に自慢の知識を見限ることである。未練がある内は絶対に抜本解決は望めない。第二に豊かさを少なくとも今の半分は放棄する覚悟であ
る。電気は欲しいが原子力はいやだで通用するはずがない。
ようはその覚悟が出来るか否かである。甘い汁は一回吸えばなかなか抜け出せない。加えて現実論がそれをささん続けるだろう。そういう誘惑にうち勝って、本質を見据えることができるかどうか。そこがクリアーできれば目指すべき道は自ずと開けて来るであろう。求めるべき手本もいくらでもある。何のことはない。さかしらの知識を振り回す以前の時代に目を向ければよいのである。
 富士の立義はわれわれに愚であることを教える。いまだ知識を振り回す以前にさえ、愚であることは難しいことであったのだろう。況や知識の甘い汁を知ったわれわれが、愚になることは想像以上に大変なことであろう。だが、二十世紀の宿題を精算する道は、そこにしか見いだすことはできないのである。

 

 

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