【同朋の会】運動について

 

近代真宗(大谷派)の歩みと宗学

 

― 曽我量深老学匠と茂田井教亨教授の対談記録 ―

 

 

 曾我量深師(前大谷大学々長)は、今年95才になられ、清沢満之師とともに近代大谷派の理念を確立した方であり、その偉大な功績は今日の【同朋の会】運動の根本精神にまで及ぶものである。昨年(昭和43年)11月27日に師の御自宅をお訪ねした。

 清沢・曾我からはじまる近代真宗の精神の系譜は大谷派教団の本質を示している。真宗教団は親鸞からはじまり蓮如を経て形成されたが、政治的な意味だけで大谷派と本願寺派に分離されたものである。信仰信条を同一とする大谷派・本願寺派の存在は、両者が日本の伝統仏教を二分する巨大な勢力をもつかヽケだけでぱなく――親鸞ぶ宗教を担って、近代と対決した哲学と宗教を獲得したものと、不幸にしてそれをはたしえなかったものとを、社会的存在として今日顕示していることこそ注視する意味があろう。ここに巧まね歴史が生み落した宗教史の社会的実験が進行しているといえよう。

 教団にとって、その宗学理念が、いかに本質的な意味をもつものであるのかを、われわれは今そこから学ばねばならない。宗学を軽視し、机上に葬ろうとする教団人の態度、今日放逐せねばならない根本の課題である。

 望月歓厚先生亡きあと、形式論理化された宗学、仏教学的文献主義客観主義に堕落した宗学や、正しい歴史認識から離れてイデオロギー的に粉飾された宗学、などを批判しつつ、人間の実存と社会的主体のなかに△日蓮の宗教▽の今日的あり方を問うてきた茂田井教亨教授に、真宗近代宗学の創始者ともいうべき曾我量深師と対談していただき、近代真宗教学の周辺にある歴史のディテールをひろいだしていただいた。

 黒塀にかこまれた小さなしもたやに、ひっそりと住まわれている老学匠の、低く、しかし早口な言葉の間に、御孫さんの声なのか、幼い泣き声が高く響いていたのが印象的であった。そこにはなんの飾りもおごりもない生活があり90余才の真宗人の面日が躍如としているように思われたのである。

          (丸山記)

 

 

【茂田井】 これ(持参した著書を指す)を拝見いたしまして、大変お教示を頂いております。ありがとうございました。一度お伺いしたいとは思っておりましたのですけれど、たまたま私どものところの若い者が斡旋してくれまして、お訪ねすることができましたのでございます。

【曾我】 その頃に(持参の著書執筆の頃)自分の宗門では――御開山様といいますけどね、御開山様のことを上人とかなんとか云わないで呼びすてにした――こういってまあだいぶ批難をうけました。(笑)

【茂田井】 親鸞の下に上人を書かなかったわけですね・・・(笑)

【曾我】 今では何もこう敬語使わんのがあたりまえですが、その時分には・・・みんな上人と呼んでましたから――

【茂田井】 私もこれを拝見しましてね、御宗旨の御開山を敬称をつけないでやっておられるので、ちよっと不思議に思ったんです。・・・当時・・・昭和10年頃は・・・

【曾我】 いや不思議でなくてむしろ、他の宗門のお祖師様には敬称をつけて――日蓮聖人・道元禅師――これこれと申しあげる。自分の宗門のお名前を云う時は敬称をつけないと――かわりに宗門の内では祖師上人とか開山上人とか、と云った時には上人というのをつける――

【茂田井】 失礼でございますけれど、先生にいろいろとお尋ねいたしたいと思います。最初に先生と清沢先生とのご関係というのは――

【曾我】 これはですね、私ども特別な関係というのはないんでありまして、先生の内弟子というのがおりましたですね。3人。3人は浩浩洞をつくったり、それからひとつの思想問題や信仰問題とかになると随分と運動した――精神主義というですね。そういうやっぱり深い関係のあるのは内弟子三人おりますですね。これはやはりその中学校におるときの先生なんですわ。深い関係の方が3人おりましたです。まだこういう関係の方は外にもおりますでしようね。私など学校の中で教えをうけたわけじやあございませ んです。そういうわけでありますが、宗門では少し年の若 い者は全般に清沢先生を敬うていて、一般に広い意味での 門弟というふうでございます。だから私どもはそういうな かの1人なんてございます。けれども、お東で先生からの 教えをうけまして、それから何といいますか、先生から知 遇を得させていただいたと、こういうことでございます。

【茂田井】 曾我先生の宗学的なお考えと、それから清沢 先生のご思想とはどういう――

【曾我】 そうですね、清沢先生はですね東京のその時分 の帝国大学ですね。帝国大学に入られました。その前に京 都の宗門の学校におられました。宗門の【育英教校】とい う――天才教育ということを宗門で計画しておりまして、 育英教校という学校をつくりました。そこへ清沢先生は行 っておられました。尾張藩のまあごく下級の士族の長男に 生れた。そして窮乏のために僧侶になったんではなくして 学問したくて僧侶になった。自分では学問したいけれども だいぶ貧しい家でありますから教育をしてもらうことはで きませんで、それで宗門は真宗本願寺のお寺の檀家であり ました。東本願寺の(末寺の)住職に自分の志について相 談したれば、寺の住職はあなたは知るまいけれども、宗門 にはこういう育英教校という教校があって、英才教育をし ていると。――だからしてあなかのような頭の秀れた人は 大いに歓迎される。だからまずもって得度して、坊さんに なって、そしてそこへあがる準備にかかると。そういうす すめがありましてですね、それではと、喜んでそこの学校 へ入りまして――はじめはまあこういうわけで学問したい から入ったんです。ところがはいって自分で考えてみます と、自分は非常に不真面日だと。つまりこの宗門を、真宗 をいつわっていると。いやしくもこの宗門の僧侶となるか ぎりは宗門め教えについて、――教えをよく頂いていそし て正しい信仰をもたなければ――そういう態度でなければ いかんと。そういうことに眼日を開きまして、それからま あ若い少年時代でありましようね。――少年時代からまじめ に信仰を求めるというそういう態度に変ったわけでありま すね。はじめはただ学問したいというだけでありましたで す。それが本当に僧侶になりましたんです。けれども信仰 を得るには、なかなかまあ容易に得られないので、永い間 悩まれたことですね。そうですね――信仰を得て生きられ たのは僅かでしたね。永い間信仰を求めて得られないと。 西洋の方の人は信仰に悩んだその道程といいますかそうい うものを記録しておりますけれども――キリスト教の方はよく記録されていますけども、仏教の方はそうじゃあないですね。信仰を得たその……

【茂田井】 結論を書いている――

【曾我】 結論だけを記録しているですね。そういうふうだから聖典を見ましても結論だけがあって、信仰を得られない。求めた悩みはない・・・

【茂田井】 悩みはない――確かにそうです。

【曾我】 あまり書いてないですな。

【茂田井】 清沢先生はだいぶ西洋哲学をやっていらっしやいますな。

【曾我】 はあそうでございます。やはり東京帝国大学でおりましたですからねえ。その時分は唯一の大学ですから――そこに入られましたですから、そして哲学を専攻されたと。――しかしその時分の日本では哲学というてもですね、ほとんど哲学史くらいしがないですな・・・

【茂田井】 哲学史ですな。

【曾我】 先生はよくヘーゲルの哲学のことをいっておられますけれども、ヘーゲルの哲学も哲学史ぐらいのあれでありましよ。仏教の方はやっ、ぱり天台なんかのことも――まあそれもあんまり専門に研究したっていうわけじやあないんじやないですかね。少年時代には天台教義なんかの、そんな講釈を聞かれたという程度のものじやあないかと思います。三大部なんては読まれたわけじやあないと思います。

 だけども非常に頭の秀れている人でありますから――めったにない秀れた人でありまするから――だから一を聞いて十を悟るというわけでありますね。まあそういうのでありまするからして、仏教の方で昔余乗といいますが、余乗の方もまたひと通りの講義を聞いたと。それからまあ真宗でありまするから真宗の宗学というものも、ひと通りは聞いておるというわけでありますかね。だからものを考える方は哲学でもって考えておりますね。表はそうだけれどもですね、やっばり仏教の方は表へださんようにして発表しておられますですね。だからあの【宗教哲学骸骨】ってありますですね。あれは東大を卒業されてからして一年間だけ東京でもって勉強したいというので、その時分の第一高等学校の教授っていいますか講師になられました(その時の講義ノートだという意味だと思われる)そういうこともあるし、それから自分の先輩の井上円了先生が哲学館をもっておられた。そこで哲学館の講師で講義しておられました。わずか1ヶ年ぽかりでしたですね。ところがちようど京都府が――もと中学が尋常中学高等中学校というのがありましたですが――いわゆる京都府尋常中学校と云っておった。その時分にはもう日本は貪しいもんですからして各府県に中学校なんてものはめったにない。東京とか京都とか大阪とかというそういうところには中学はあったでしようけれど――京都は京都の面目としてどうしても中学を維持していかなければならんと、こういうのでありますけれど、京都の方の財政ではとても中学を維持する力がない。それでその当時の府知事がご自身で東本願寺へでむいて、中学校をあなた方の方の宗門の学校と合併して、そして中学を3・4年の間宗門でひきうけて維持して欲しいと、こう知事が申したものですから、宗門の方でいろいろ相談してお引き受けしましようと、(いうことになりました。)私の宗門はたくさん借金をもっておるのでありますけれども、お引き受けをして宗門の学校をその中に併合しましてですね、3年ばかり経営したわけですね。その時に知事さんがですね、校長はあなたの方の宗門に適当な人かおりまするならば、あなたの方から選んで下さい、こうまあ知事さんがいいましたので、それでさっそく清沢満之さんにこっちへ是非来て欲しい――京都へ来て欲しい(ということになったのです。)なんせ宗門のお世話になったし、やはり昔の武士道――武士の血をもっているので迷惑なんていわないで――むしろ感激しましてね。そして自分の勉強をする、そういう志をすてて、そして京都へ出て、そして中学校の校長になったと、そういうわけであります。それから2年ぐらい校長をしておって、『それから、自分の友達の江川正則(音よみのあて字)という人が――理科の方を出た人で――その方が卒業されるというと自分か校長をやめて、そして平教授になりました。そして校長を江川正則氏に譲った。その後結核になりましてね――大変無理をしたものですから――どんなにか無理の生活をして――とうとうそのための病気でもってわずか40才で亡くなりましたですね。数えで41才ですから今でいう40才ですね。

【茂田井】 お話がまたとぶんでありますけれども、現代社会における教団というものに対して、先生のようなお立場から教学をお説きになるというむずかしさというものがあろうかと思いますが、そんなことについて先生はどういうふうに考えておられるのかひとつ――

【曾我】 私なんかは、学問らしい学問をしたわけじやあございませず、まあ自分で少し唯識の方を読みましたものですから、それがまあ頭にあるもんですから――それから清沢先生の文章ですね、そういうものをおそまつでも読んでおりますんで、そういうものでもって、真宗の聖典を――――講録っていうものがたくさんありますからねえ――昔からまあ主なる講録を読んでおりますけどねえ。

 まあおそらく清沢先生は宗教ってものはですね学問なんてものでもないと、宗教は実際的のものであって、信仰ひとつだ、信心ひとつだと、そういうような信念をもっておられました。精神主義っていうものはやはり教わる立場に立っておられるわけであります。よく人はその精神主義というものと、唯心論というのとよくこう混乱しておりますです。これは例え唯物論者でもですね、唯物論者でも実際のことになるとやっぱりこの精神主義というものがあると。――唯心論とか、唯物論だとかと混乱すべきものじゃあないとしじゅう云っておられたですね。だけどまあ一般の人では宗教では唯心論であると、こういうふうに今でもそう云うですね。清沢先生の昔でありますけれども、はっきりこれを区別しておりますですね。まあよほど考えておられたんでありましようね、そういうことに関しては――たとえ学問では唯物論であるうとも、実際の思慮ということになれば、この精神主義であると、こう云っておられましたですね。

 清沢先生が重んぜられている人っていうと俳句の方の子規っていう人―― 

【茂田井】 正岡子規―― 

【曾我】 正岡子規っていう方もたいへんに重んぜられていたですね。

【茂田井】私どもは真宗の歴史をよく存じないのでこざいますけれども、蓮如上人という方は東西ともに重んぜられている方でありますが、開祖親鸞上人とこの蓮如上人という、なんといいましようか、へだたり、あるいはこの――

【曾我】 これはですね、明治維新まではですね、親鸞上人なんていうのは大体まあその書物はありますから、ある特殊の学者はですねえ、それは教行信証とかひと通り昔からあるわけですね。(一般には知られていなかったことの意) 一番はじめに存覚上人っていう方がありますですね。覚如上人の長男でありまして本願寺の跡を継ぐべき人でありますけれども、親と意見を異にしておりまして、それで存覚上人は学者肌の人でありまして、親ごさんは多少政治の頭で勣いておる、そういうので学問が政治というものでもって――純粋な学問が政治でもって (ゆがんでいくのが)息子であるけれども満足しない。そういうことがありましてまあ親子義絶した。存覚という方が最初に教行信証の研究して注釈書を出した。六要抄――それから、もうずっと徳川時代までこれだはが書物でありますですね。徳川時代へ来まして、お西の方は早くから――100年くらい早くからその学林をつくって研究しておりましたです。なにもかも東本願寺の方は手おくれでございます。

【茂田井】 先生のお話のなかに香月院深励(こうがついん・じんれい)というお方のお名前がよくでるように思いますが――

【曾我】 香月院ですか。同じ年令で同じ時代に円乗院という方がおりましてね――2人はまあ同じ時代におりまして・・・

【茂田井】 江戸時代でございますな。

【曾我】 江戸時代でありますから300年くらい前に生れた人でしようね。その前に慧空という人かおりますね。慧空・慧然とか慧琳とかといわれております、3人おりますね。大体まあ学問をずるのは、蓮如上人以来の学問をするのは大体この大谷家の一門の方が――本願寺の法主が主になって一門の方が学問された。それがちこの堂僧ですね。おつとめをする堂僧――堂僧がこの学問をするようになった。それから今度一般の末寺の人が学問するようになりました。一般の末寺の方が学問をするようになりましたのがこの香月院という方の時に、一般の末寺の人が学問をするという時代が来ましたですね。まあ慧空恚か慧然とかいうようなものは、やはり特別な門閥でありますですね。香月院ということになると普通の寺院の出身でございますね。香月院のときにはじめて宗学というものが普及しました。そして香月院という方はなかなかねえ、自分で独りで調べるのができないのは、みんな自分の門弟に手分けして調べてそしてみな研究させたものですね。

【茂田井】 この方はお東の方ですか

【曾我】 はい大谷派の――これは高倉学寮という――今は高倉学寮の建物が残っておりますが。――あれは明治のはじめにできた講堂の方でございますが、高倉会館といって布教師が布教もする――

【茂田井】 昨晩お話になりました――

【曾我】 はあ、あれが高倉会館であります。

 昔は宗学宗学といいましたですがね、この頃では教学――この教学という言葉はですね、これは明治時代から漢文の思想家――孔子とか孟子とか玉陽明とか朱子とか、ああいう人たちが教学教学といっておったんです。仏教の方では、そういうような意味での教学という言葉はなかったんで、大体まあ儒教というのは西洋では哲学にあたるわけで。すね。まあ東洋思想を代表するものは中国では孔子儒教といいますね。そういうので、西洋の方は哲学というとる。

 東洋の方は教学という。それを仏教の方では――私もよく知らないんですが、教学というのは勧学布教ということを2つ合せて教学という――

【茂田井】 私もそんなふうに解釈しておりますが――

【曾我】 私どもの宗門だけでなく、あなた方の方でもそうでございますね――

【茂田井】 そうです。少しはばを広げまして教学としますが――

【曾我】 教と学と――

 教学ということになりますというと【親鸞の教学】でありますね。【親鸞を教学する】でなしに親鸞その人が親鸞の教学をするということになりまして、法然上人の教学ということになる。法然上人が崇めておる中国の善導大師の教学ということになる。それから曇鸞大師の教学ということになる。そういうのをみな教学教学というようになるですね。

【茂田井】 先生にちよっと妙なことをおたずねするのですが、先年先生が鈴木大拙先生とお話あいになったことがございますが、それが中外でありましたか何か新聞に連載されまして、そのお話のなかに先生が方便波羅蜜ということを強調されていらっしやったんでございますが、あれはどういう意味あいでおっしやったかひとつお聞かせねがいたいのでありますが――

【曾我】 仏教では方便ということを非常に尊ぶですね。真実・方便という方便とてすね、それからこの普通の方では大慈方便。慈悲方便というですね――大体方便に法についての方便と、それからも一つこの仏様の・・・

【茂田井】 働きの方の方便――

【曾我】 まあお徳の方の方便ですね。般若と方便・智慧と方便という方便がありますですね。菩薩の十地のお徳で六派羅蜜の理の方便派羅蜜――方便ですね。方便第七地でございましよう。七地方便地、八地が願、九地が力と、十地が智、それが方便願力智と、四つを加えて十地という。華厳の方でそういうふうになんでもが十に――般若なんかは六波羅蜜ですわね。

 それよりか般若から方便へでるというそれが非常に困難なことで、菩薩の行というのは、慈悲・智・般若と方便であるということが――そういうことが智度論ですかね、十地菩薩でもそういっておりますですね。それが自ずからひとつの――第七地ですかね。方便――そうなってるですね。世親菩薩の十地経諭ということになるですね。私も十地経論なんか読んだことはありませんけれども――往生要集にはやはり引用してあるですね。読もうと思えば読まれんことはないですけれど、この年になってはもう――

【茂田井】 しかし血色もよくて御壮健ですなあ――鈴木大拙先生とは御同年ぐらいですか。

【曾我】 大拙先生は5つ早いです。私は明治8年でありますし、大拙先生は明治3年生れでありますな。鈴木大拙先生と同じようにそれまで生きたいとは思いませんし、生きられるという自信もありませんし、生きて何するというわけでもありませんから、100まで生きると思っておられましたね――鈴木先生はご自身でも。ご自身でもそういうような意気込みかおりましたが、私の方はそういう意気込みもありませんですしね。(笑)

【茂田井】 大変失礼なお尋ねでありますが、先生はお寺をお持ちになっていらっしゃいませんのでしようか。

 【曾我】 はあ私は寺に生れたんですけれど、私は次男に生れたもんですからね、よその寺へ養子になっていった。そこに住職の名前をもってたんです。名前だけは。私の養父が生きておりましたんで、私が42才の時に寺にいるよりも――事情もありましたし、養父に許可を得て寺から出ると、独立するとこういう方針にしたんです。これは42才の時、大正5年であります。それから私は東京へ行って東洋大学へ勤めたんです。それから、こんどは大正の終り頃に大谷大学へ出たんであります。やっばり私が排斥されておりましてね、先輩からとにかく、私が異義者であると――まあ一種の異端者ですね。宗門の異端者であるとそういうわけで排斥されておりました。だけどまあ真宗大学が大谷大学になって、昇格したんであります。昇格したもんでありますからして、今までの宗門の大学とは変ってきたと、こういうので私の先輩の方もこの際曾我君たのむ出てもらってはどうかといろいろ心配されまして、私の友達の佐々木月樵という方が学長になられまして――その佐々木月樵を学長にしたのは私の先輩の関根念応(音のあて字)という方がおりまして、――もうひとつ大先輩でありますが、念応という方が私の同じ郷里でありまして、佐々木月樵を学長にしたのもえらい反対があったんでありますが、斉藤唯真という方がおりますですねえ、

【茂田井】 華厳の――

【曾我】 ええなんでもひととおりやるんですね。余乗をなんでもひと通りやる。そして大体、村上専精先生かうみれば10ばかり歳が若いですね。10ばかり年が若いんだがやはり我が強いもんで、その村上先生と競争しておられました。競争して敗けるもんかと――そういうもんですからねえ南条則雄(音のあて字)先生のあとは自分がその学長になるんだと――こう自分で決めておられたんです。まあ順序からいえばそういうことになるんでありまして――順序は年令やそういうもので。一般の人がみればですね斉藤という人はずっと若いときから東京におられましてですね、東京に大谷教校というのがありまして、大谷教校の教諭をしておられました。村上先生は校長をしておられました。その下に教諭でありまして、自分では教頭だと――そういうことを名乗っているんでありますね。なんだって教頭教頭と――そういうふうに思ってたんです。村上先生は『仏教統一論』の大綱編というものを書いて、そして大乗非仏説のことを書いた。それでもって宗門内に問題を起して、そしてなかなか解決がつかんで、結局まあ亡くなられた大谷光演と――

【茂田井】 句仏上人――

【曾我】 その方が仲に入ってですね、村上さんは一応宗門から外へ出してしまおうと、そういうことになったわけですね。そういうような関係があるもんだから、南条先生があとは村上さんはいないし、斉藤さんたのむと。(云うだろうと)俺があとをひきうけるんだと自分で決めておるんですねえ。それまで自分が宗門の順序からいえばそうなるわけですからねえ。だけど南条先生となれば、これはたとえ南条先生がなにも仕事をされんでもですねえ、まあ南条先生の位が高いもんですからねえ。だものだから人が重んじておるがねえ、斉藤先生となるとだいぶ格が落ちるんだ。(笑)

 だものだからそのやっばり消極的人物をひきだしてこんといかんと、そういう説がありまして、その時分に人物を求めるっていうと清沢先生の大体跡継ぎの一人だと、そしてとにかくその時分の大谷大学、学校に勤めておられて学校の実際のことをみんな教えとったものだから、南条先生が佐々木月樵と、そう考えておった。斉藤さんは名だけなもんですからねえ、ただ看板にすぎないですから。看板学長だよね。だから実力もあり、それだけの徳もあり、力のある人間、そういうものを、そういう人から学長に薦めたいと!なかなかむずかしいんですねえ。やっばり宗門には頭の古い人かおりまして――(笑)佐々木反対をするもんですから、それで関根って人は――実力者でありますものだからねえ、関根さんから手をまわして佐々木学長を決めたわけです。そういうような関係でその関根さんは、あんた学長になったら、なにぶんにも曾我っていう者をすぐ教授として引きだして欲しいと条件つけてあった――そういうよすなことがあって、私は京都へ出てきたわけです。

――始めて出てきましたが、佐々木月樵さんは早死にしましたしね。金子大栄師は前から勤めておりましたが、ところが金子師の考えが問題になって、私か京都へ出てきて3年目に学校を引き払った。学長――江川先生が学長に就任されたその日、その時私は学校をやめた。この頃ご迷惑をかけた金子問題が起こっておるんだが、金子師がやめるというんならば、私もいっしよにやめよう、だからそれだけのことをちゃんと意志を私は申しあげた――結局まあ金子さんがやめられてもどうしてもいてくれというもんだからおりましたげど。しかしまあ間題はあったものだから、それから2年たってからやめましたですね。やめたというより追放されたんですね。金子・私と――そんなことがあって、ずっと10年以上経ってからですね、戦争がもう支那事変から大東亜戦に移る前の年にね、金子師と私の2人を学校へ戻るように――そういうことになったんです。

【茂田井】 はあ、そうなんてございますか――

【曾我】 せっかぐ京都へでてきたんだけれど、たった5年おって追放されてしもうた。やっぱりそれがいつまでも当代のことが――私ども別に宗門の妨害したり、宗門をうらんだりいたしませんですがね――    

【茂田井】 その時の学生さんに今の訓覇総長さんがおられたんでございますか――先生が追放された時――

【曾我】 はあそうです。私がはじめて京都へ来ました時訓覇なんか予科の生徒でありました。(笑)

【茂田井】 そうでございますか――
【曾我】 それから訓覇というものと、それから松原というのと、同級生でありますがね。一方の訓覇はおって、前から宗門の刷新でがんばっておりますが、松原は学問して病気して体が弱いんです。それでもまあどうにかこうにかしてまあ生きておりますがねえ――人物がいいですけどねえ。人物はいいし、野心はなし、――いい人物でありますけど――今の宗門の総長なんかは昭和5年に大谷大学の文学部を卒業したんです。

[茂田井] 昭和5年ですか。さようでございますか、それなら私と同じです。

【曾我】 今ではまあ60幾つかですね。

【茂田井】 ちようど私もその頃の年代です。先生からみれば子供か孫みたいになるんですが――

【曾我】 いやまあ宗門なんて貪しいもんでありましてですね――貪しい宗門でありまして――

【茂田井】 いやあ私どもは、真宗王国と云っておりまして、日蓮宗こそ貪しゅうございます。

【曾我】 いや西本願寺はまあわりあいに財産が多くてですねで財政に困らなかったけれども、大谷派の方は徳川時代に何遍も火災に遇うて、借財があって、そして明治維新の時もやっぱり仮御堂(音のあて字)でありましたけれど焼かれましたですね。それをあの時分に、あれだけのものを造るというのは、まあまあ容易ならんことでありましたでしようね。あの時分には150万とやら、まあいくらですか――300万とかというそうでありますですけどね――日本中のすみからすみまで材木を探しましてそしてできたものですからね、あの時分にいい材木を日本中から探したですねですから立派ですなあ。

 西本願寺へお参りしてみて比較してみても立派ですね。大きいことも大きいですね。そしてですね西本願寺の方は何か少し大きい法要がありますと炊き出しをします。私の方ではしません。この700回忌でも炊ぎ出しをしません。大体まあ西本願寺の2倍ぐらいありますですな、入るとたしか2倍ぐらい畳があるらしいですね。

【茂田井】 ご建物の前へ立つと圧倒されますですな――

【曾我】 何も樹木もないし、なんだか殺風景でありましてですね――あまり感心しませんですけれど――しかしあの柱を見ましても立派ですねえ、本当に立派なものですねえ。それからお内陣のところにある唐金の飾りなんか立派なものですねえ。西本願寺なんかは比較になりませんですね。木造では大きすぎますね。今の鉄筋コンクリートならば、どんな大きいものでも――今の鶴見の総持寺の後師堂ですか、鉄筋コンクリートで造ったんでは世界第一の大きさだと誇っておられますが――お参りしてみましたですが――鉄筋コンクリー小トならばどんな大さなのでも造れますね。木造ではあれで限度でありますなあ。私はいつでも28日に本山の報恩講がありますですから、28日の晩を出席しておったんです。28日になると一般に皆んな帰ってしまったんです。まあ私の名前を知っておって、話を聞こうと思って、残つておりまして、そういうのをやりましたです。昨日のようにあんなにたくさんおりませんですねえ。話をしておりましても気持良いですけど。昨日の28日には私居りませんですからねえ 私28日の朝でて、九州へ――

【茂田井】 飛行機で行かれるんですか――
【曾我】 いいえ。汽車なんて別に疲れませんですね。私はもう疲れません。乗物もですし、話をしても疲れません。若い時は話をするとひよろひよろになるんでしたですけどね。60代ぐらいまでは――今では話していて疲れませんですね。なんといいますかかえって話をする――声を出す出し方ですね、そういうものと自分の呼吸っていうものとが関係をもっているんですね、そこらんところを自然に呼吸をのみこんでいる――そういうもんですから何も疲れませんです。

 話は一切準備しないんです。一切準備しませんし、それから壇に立って話してしまえば、ものを考えるっていうことはありませんから。――前に準備するっていうこともしません。まあただ立って、そして自然に出てくるI自然にでてくる記憶の範囲で話しております。

【茂田井】 しかし先生のお話のなかにはところどころ詩ではございませんけれども、数行素晴しいお言葉がでるんでございますなあ。やっばりふっとその時にでるんでございますかねえ。

【曾我】 はあそういうことはなんにも自分で何を話したか、あとへなんにも残りませんですね。記録のなかに何か残るかもしれませんけど、話している自分にはなにも残りませんです。――なにも残らないですね。

 私は往生というネのは――往生と成仏というものは、阿弥陀仏の本願からいえばタイカよしとひとつですね、タイは一つの問題でしよう。゛往生即成仏と――けれどもそのジティは――この意義――意義をお分りにならないと違うんでございますねえ。阿弥陀仏はこの成仏をめざして、一切衆生は皆成仏せしめようという、終局の願いをもっておいでになるのだけれども、その目的に達する方法として浄土をたて、そして浄土へ往生するということが(あると)させる――仏さまからいうと来生せしめる――来生ということと往生と二つありますですね。阿弥陀如来からは来生――

【茂田井】 こちらからは往生――

 【曾我】 はい、われわれは往生といいむこうからは来生という――意義からいうと違うわけですね。他力の救いということからいえば往生が主でありますね、往生という方法でありますから。成仏は目的でございます。それで一応は往生は法にある。だからなにも生きておるときから、信心決定の時から自分は往生という、そのひとつの浄土というものが開けてくる。浄土の生活というものが始まる。それを往生という、生活の名前である。それから浄土というのは、その往生の終局の目的でありますね。そういうもので