第29回法華経・日蓮聖人・日蓮教団論研究セミナー

 

私からみた日蓮聖人

 

大 塚 耕 平

 

 





 

ご紹介をいただきました大塚耕平と申します。三原所長様とのご縁でこの席にお招きをいただきました。よろしくお願い申し上げます。

レジュメに記しましたプロフィールのとおり、趣味で仏教のヨフムや本を書いておりましたら、やがてカルチャーセンターの仏教講座の講師を務めるようになり、いろいろなご縁で今日に至っております。

はじめに、お配りした資料についてご確認願います。A3の2枚の資料のうちの1枚は、仏教史と仏教伝来図です。皆様にとってはまさしく釈迦に説法の内容で恐縮です(笑)。

もう1枚は、片面が最澄さんと空海さんのご生涯の年表、もう片面は鎌倉6祖のご紹介です。自分で言わないと誰も褒めてくれませんので自ら申し上げますが、なかなかいい資料です(笑)。

最澄さんと空海さんのご生涯を並べ、年代を合わせてあります。このようにお二人の人生を重ねて見比べる資料を見たことがなかったので、自分で作りました。

日蓮聖人を含めた鎌倉六祖のご紹介も、六人のご生涯を横軸で年代を合わせて記しています。六祖師がどの時期にどのようにお過ごしになられ、ご生涯が年代的にどのように重なっていたかを比較できるように作ってあります。

カルチャーセンターではこうした資料をもとに、仏教にご興味をお持ちの受講者にお話しています。皆様のような僧職の方々ではありませんので、ざっくりお話しするにはこの二枚の資料は十分過ぎるほどの内容です。

その上うな趣味の活動をしているに過ぎない者が、本日は三原所長様から荷の重いご依頼をいただきました。いったい私が何をお話し申し上げればいいのでしょうかとお尋ねしたところ、日蓮聖人像を深めるセミナーの趣旨に沿って、なぜ日蓮聖人は激しい方だったという印象が強いのか、私なりの考えを自由に申し述べよとのご下命でした。過分のお役目ですが、お言葉に甘え、自分なりの考えを申し述べさせていただきます。しばらくの間、お付き合いください。

そもそも、このような形で本門寺さんとご縁をいただくとは思いませんでした。と申しますのは、国会議員になる前は日銀に勤務しておりましたが、一時期、ここから近い洗足池という所に住んでおり、子供をよく本門寺に連れてきました。境内には鳩がたくさんいます。愚図る子供も鳩と遊ぶとすぐ機嫌が良くなりましたので、頻繁に連れてきていたというわけです。去年も現宗研で講演させていただき、今年もまたお招きいただきました。感謝申し上げるとともに、不思議なご縁を感じております。

子供を遊びに連れてきていた頃の私にとって、本門寺の大きな日蓮聖人の石像を見上げて「これが日蓮聖人かあ」という感想を抱くだけで、十分な知識はありませんでした。

先ほど中尾先生から教科書における日蓮聖人の定番的なイメージのお話がありました。つまり、四箇格言に象徴されるような激しい方であったというイメージですが、私の世代はまさしくそのような定番的な記述のある教科書で教育を受けました。

しかし、率直に申し上げまして、仏教に興味がなければ、日蓮聖人のそうした定番的なイメージも記憶には残っていません。一般の高校生や大学生が長じて大人になってからそういう印象を持ち続けているかというと、必ずしもそうではないと思います。

カルチャーセンターでは、鎌倉六祖について、法然さんから始まり、親鸞、一遍、栄西、道元の各祖師に続いて日蓮聖人のお話をさせいただいておりますが、受講者の皆さんが日蓮聖人に対して定番的なイメージや、何か悪い印象を持っているかというと、必ずしもそうではないと思います。

高校生や大学生が教科書における日蓮聖人の印象をとくに引きずっていないのと同様に、大半の方々には日蓮聖人の定番的なイメージが深くインプットされているわけではありません。

だからこそ、日蓮聖人がどういう方であったかということは、宗派の皆様方のご説明の仕方や今後のさまざまなご活動の結果として、十分変わっていく、あるいは形づくることができるのではないかと、個人的には思っております。

そうは言いつつ、本日のセミナーの問題意識に照らし、あえて日蓮聖人が少々激しい方だったという印象を一般の人々が持っていると仮定すれば、その理由は3つぐらいのポイントかと思います。

3つのポイントを申し上げる前提として、レジュメに沿って少し前置きの話をさせていただきます。

日蓮聖人はご真蹟を含め、たくさんの文献を遺されている宗祖です。私は仕事柄、気分が滅入ることも多いのですが(笑)、仏教の本を読むと気持ちが安らぎます。いろいろ読ませていただいている中で、例えば、レジュメにまとめました「佐渡御勘気炒」「開目抄」、「報恩抄」「諌暁人幡抄」に登場する4つのお言葉などは、日蓮聖人の前半生と後半生を考える上で印象深く受け止めています。

佐渡御勘気紗には「仏教を究めて仏になり、恩ある人をも助けんと思う」と記されています。開目抄のお言葉は凄いですよね。「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」の述べ、まさしく自分が日本を救う決意を示しています。わが身を捨てて人々を救おうという御覚悟ですから、前半生の迫力が伝わってきます。しかし、幕府への諌言は受け入れられず、むしろさまざまな法難に遭い、報恩抄では「三度国を諌むるに用いずば、山林にまじわれ」と言い放ち、その後は諌暁人幡抄で「一切衆生の同一の苦は悉くこれ日蓮一人の苦なり」とおっしゃっています。

実は1週間前にも愛知県の本遠寺にお招きいただき、お話をさせていただきました。その際、本日もご臨席の石黒ご住職から「佐前佐後」という言葉を教えていただきました。

仏教趣味人のひとりとして、佐渡に流される前と後で日蓮聖人の印象がずいぶん違うと感じていましたが、そもそも「佐前佐後」という言葉があり、宗派的にも佐渡流罪が日蓮聖人のご生涯の節目として受け止められていることを知りました。

私は政治に携わらせていただいております。ご聖人のお気持ちがよく分かると言ったら畏れ多いことですが、先ほどご紹介したいくつかのお言葉や「佐前佐後」という言い方から、感じるところがございます。

多くの人々を幸せにしたい。しかし、全員を幸せにする、満足させることは、実際には難しいことです。政治に携わらせていただきながら、日々思い悩んでいます。人々を幸せにするどころか、たった1つのことを決めるにしても、関係者全員が納得する、満足することはなかなか難しい。毎日その現実に晒され、悩んでいます。そうした立場から、かっ仏教趣味人として日蓮聖人のご生涯を考えさせていただくと、「なるほどなあ」と思うところが多々ございます。

「佐前佐後」という言葉を知って、本当に俯に落ちました。誤解を恐れずに申し上げれば、日蓮聖人の前半生は、結果的に政治家としてご活動されたという印象です。後半生はまさしく宗教人として、人々の心を安寧に導くためのご活動に注力されたのだと思う次第です。

冒頭にお示しした仏教史の資料をご覧ください。6つの楕円が記してありますが、これらは『仏教通史』という拙著の章立てと連動しています。つまり、私なりの仏教史の区切りは、第1がお釈迦様のご生涯、第2が日本への仏教伝来、第3が聖徳太子による仏教に基づく国づくり、第4が異国の宗教であった仏教が日本化、如法化していく過程で大きな役割を果たされた役行者、行基さん、鑑真さんの時代です。

先ほど、高橋先生が南都六宗のお話をされました。日本仏教は南都六宗の荒廃に直面し、道鏡事件まで起きてしまいます。そうした時代の中で、「人々の苦しみを放置していていいのか、仏教はこれでいいのか」という疑問を抱いた最澄さん、空海さんが登場し、日本仏教の基盤を作りました。これが第5です。

しかし、平安時代末期になると、再び世相は荒廃します。天皇、上皇、藤原氏、北条氏、平氏、源氏など、権力者が争いごとに終始し、人々は苦しみます。その窮状の中から、人々を救うために鎌倉6祖が登場し、今日の主な宗派につながっていきます。

カルチャーセンターではざっくりとこうした仏教史をお話ししていますが、鎌倉6祖のご生涯を並べたのがもう1枚の資料です。最澄さんと空海さんのご生涯の資料の裏面をご覧ください。

鎌倉6祖を比較してみると、日蓮聖人以外の5祖師は公家や武士の家の生まれです。日蓮聖人は、安房小湊の漁師の家に生まれたと伝わります。実は天皇のご落胤だったという異説もありますが、通説では小湊の漁師の息子さんです。

この出自の違いが、日蓮聖人と他の5祖師の大きな違いを生み出しているように思います。

つまり、日蓮聖人は庶民に生まれました。人々の苦しみを理解し、共有しています。なぜ他宗を批判したのか。それは、人々を来世ではなく、現世で救おうとしたからではないでしょうか。死んでから救われても意味がない、目の前で困っている人々を救うためには、具体的な行動に移さなければならないとお考えになったのではないでしょうか念仏を唱えれば誰もが救われると言っても、現に今苦しんでいることを解決できるわけではない。そう感じた結果が他宗への厳しい姿勢につながったのではないでしょうか。

それはまさしく、現代で言えば政治家の仕事です。もちろん、政治家に限る必要はなく、官僚も含め、社会や国に関わりのある仕事をしている者全てであり、企業経営者などの財界人や学者、宗教者、各界の指導者全ての使命ですしかし、その中でも政治家が最も重い責任を負っていることは言うまでもありません。日蓮聖人は、ただ祈るばかりでなく、自ら人々の苦しみを解決しようとし、幕府に諌言してそれを果たそうとした。まるで政治家のように活動されたのが前半生であったのではないでしょうか。

現代においても、たとえ良い法律を作っても、仮に総理大臣を何年やっても、多くの人々を救うことはなかなかできない。全員が気持ちよく、快く、幸せになれるなどということは、なかなか難しい。できる限り大勢の人々に心の安寧をもたらすためにはどうしたらいいのか。結局、政治よりも、心の安寧を導く仏教の役割は極めて大きく、そのことに軸足を置いて仏教本来の活動に力を注いだのが日蓮聖人の後半生ではなかったのでしょうか。私自身、実際にそのように感じることがあります。

もう一度レジュメをご覧ください。前半生は「我日本の柱とならむ」と言っているわけですから、これは大変な御覚悟です。他宗を批判してでも現世を良くしたいという思いから日蓮聖人の激しい言動になったものと拝察しますが、それは必ずしも責められるべきことではなく、そういう決断をした、そういう道を歩まれたということに尽きます。

しかし、日蓮聖人がいかに素晴らしい決断をしたとしても、世の中全体が、あるいは幕府が、日蓮聖人の諌言や、日蓮聖人の決断や主張に賛同するかというと、そうではありませんでした。現代よりもはるかに難しい時代です。とうとう「三度国を諌むるに用いずば、山林にまじわれ」と言って、その道を断念する。その後は、人々の苦しみを具体的に解決するよりも、人々の苦しみを一緒に感じよう、人々に寄り添おうという仏教本来の境地に一層近づかれたのではないでしょうか。仏教趣味人としては、そのように受け止めております。

以上のような認識を前提に、残された時間で、このセミナーの問題意識、すなわち日蓮聖人が他宗に厳しく当たり、激しい人物であったといD受け取られ方、表現のされ方がなされているとすれば、それはなぜかということ、あるいはそれを変えていくとすればどうすればよいのかということについて、私なりに感じている3つのポイントを申し上げます。

1つは、説明の仕方です。例えば、本日私が申し上げましたような認識を、多くの関係者の皆さんがそれを共有できるのであれば、そういう説明の仕方をしっかり行っていくことが、固定的なイメージの変化につながると思います。

 2点目は、戦前政府の国威発揚の取り組みと日蓮聖人の関係です。もう少し詳しい研究、確認が必要ではあるものの、戦前政府の対応が日蓮聖人の印象に影響を与えているということです。

すなわち、日蓮聖人が蒙古襲来を祈りによって撃退したということが、ご霊験あるいは神風美談として利用されたためです。映画も制作されました。結局戦争に負け、戦後となり、戦前の全てを否定するという社会的大回転や風潮は、教科書の表記や検定に関わる学者、教育者、官僚等の深層心理や議論に影響したのではないでしょうか。つまり、戦前は肯定的に捉えられていた日蓮聖人を否定的に解釈するという潜在意識、深層心理です。

戦前の軍人では、石原莞爾や東郷平人郎など、こういう方々は日蓮聖人の信者でありましたし、田中智学なども蓮聖人を讃える方向で様々な活動をしたと聞いています。そうした戦前を全否定するという過程の中で、教科書の記述にも何かの影響が生じたのかもしれません。あくまで個人的な感想ですが、これが2点目です。

3点目は、日蓮聖人の実像、実際のご性格も影響しているのかもしれません。しかし、これは誰も確認できません。1点目と関係しますが、説明の仕方、理解の仕方如何です。仮に実際にそのような人物であったとしても、なぜ激しい言動になったかという理由、背景を丁寧に説明することで、固定的、先入観的イメージは変えられるのでないでしょうか。遺された多くのご真蹟や文献の研究、分析から、固定的人物像とは異なる側面を丁寧に発掘し、広めていく必要があります。

私なりの仏教史の6区分に照らすと、日蓮聖人は、仏教の日本化、如法化の過程で人々の救済に邁進した行基さんに近い役割を果たそうとされたのではないかとも感じています。

行基さんも前半生は権力から敵視されたのですが、晩年は東大寺大仏勧進聖、大僧正に任じられました。最終的にそうなられたので、行基さんの今日のご評価があります。日蓮聖人の場合、晩年も時の権力に認められた状況下で入寂されたわけではありません。行基さんの時代と単純な比較はできませんが、そんな違いもあるのかなと感じております。

 本日は、三原所長様から「自由に何を話してもいい」というお許しでしたので、「私から見た日蓮聖人」ということで、畏れ多くも率直かつ勝手なことを申し述べさせていただきました。

 日蓮聖人のご生涯だけからはなかなか見えない部分も、仏教史全体の中での時代背景、鎌倉6祖の中での日蓮聖人の出自や、その当時の世相などを考えると、色々な理解の仕方、説明の仕方ができると思います。

 歴史の評価や内容は時代とともに変わります。私の地元は名古屋であり、江戸時代は尾張藩でした。幕末の尾張徳川家の動向、すなわち平和裏に明治維新を迎えるために尾張藩がどのような苦難をあえて受け入れたかということは、ほとんど知られていません。語られることもありません。大河ドラマでもいつも取り上げられません。今日は詳しくお話しする時間はありませんが、その理由は、明治政府関係者がその歴史を封印してしまったからです。それと同様に、例えば日蓮聖人のご生涯も、固定的な歴史観から形成されています。本日私が申し上げたような観点から、過去の作品とは異なる視点で日蓮聖人の映画や伝記が作られれば、その人物像も変わってくるのではないでしょうか。

 現宗研の皆様のそのようなお取り組みに期待しつつ、ちょうど時間となりましたので、私の拙い話を終えさせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

司会 大塚先生、どうもありがとうございました。