ミニ講演

仏教と現代

 

−これまでの経験に基づく私見−

 

大塚 耕平

 

レジメ

 

 

 参議院議員の大塚耕平と申します。所長様とのご縁でこのような機会をいただき、私も楽しみにして参りました。

どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

 趣味で仏教のコラムを書き続けていたところ、最近ではカルチャーセンターで仏教講座を頼まれるようになりました。今日は、仏教研究を趣味とする在家の信者として、僣越ながら雑駁なお話をさせていただきます。

 議員になる前は日銀に勤めていました。日銀時代、本門寺に近い洗足池の社宅に住んでいたことがあり、よく境内に来て子供を鳩と遊ばせていました。こうして本門寺にまた伺うことができ、本当に嬉しく思います。

 その当時は日蓮聖人像を見ても「ああ、これが日蓮さんか」という感じで、それ以上のことは何も知りませんし、あまり深く考えませんでした。そんな私が、なぜ仏教に興味を持つようになったのかということからお話しさせていただきます。

 

覚王山日泰寺とご真骨

 私は愛知県名古屋市千種区の生まれ育ちですが、自分が通った小中学校の学区内に覚王山日泰寺というお寺があります。お寺の境内で野球をしたり、缶蹴りをして、遊んで育ちました。議員になって地元に戻り、そのお寺の参道の前に事務所を構えました。

 覚王山日泰寺の参道では「弘法さん」の縁日が立ちます。弘法大師縁(ゆかり)の各地で開かれるお大師様の月命日の縁日ですが、覚王山日泰寺は愛知県で最も賑わう「弘法さん」です。子供の頃は縁日の由来もお寺の縁起も知りませんでしたが、事務所を構えたのがきっかけで「そもそも、どういうお寺なんだろう。弘法さんの縁日って何だろう」と興味が湧き、調べ始めたことが仏教との出会いです。

 1898年に北インドのピプラーワーで大発見がありました。当時のインドは英国の植民地。ウィリアム・ペッペという英国人行政官が、政府の命令に基づいて自分の管轄区域にあった標高15メートルぐらいの古墳のような丘を掘ったところ、「お釈迦様のご真骨である」と記された骨壷を発見。骨壷は本国に移送されました。

 ピプラーワーはお釈迦様の生誕地ルンビニーに近く、お釈迦様の母国シャークヤ国の都カピラバストゥではないかと言われています。欧米では「お釈迦様は架空の人物」と主張する人たちも大勢いた時代でしたが、この骨壷に入ったご真骨の発見が「お釈迦様は実在の人物だった」と認識される転機になったそうです。

 インドはヒンドゥー教の国で仏教徒はごくわずかだったことから、英国政府はご真骨をインドに戻さず、仏教国夕イのチュラロンコン国王に寄贈しました。当時の日本は廃仏毀釈から立ち直り、各宗派が「仏教を復興しよう」と努力をしている最中でしたので、「ご真骨の一部を日本に分骨していただきたい」と申し出ることになりました。その際、今日の日本仏教会の前身である帝国仏教会が設立されたと聞いています。

 さて、分骨されたご真骨をどこに奉安するかを巡って大騒動になりました。全国の仏教有縁の地が希望し、なかなか決まりません。とうとう、チュラロンコン国王から「早く決めなさい」と言われる始末。そして、最終的に候補地として残ったのが京都と名古屋でした。

 名古屋が残った理由は、広大な土地の寄進と奉安施設の建設資金が集まる見込みがあったからです。当時の記録を読むと、約十万坪の土地と今のお金に換算して一千億円近い資金を確保できる見込みでした。

 当然、京都は納得しません。そこで、最終的には帝国仏教会の会議で投票によって決めることになったそうです。会議の場所は京都建仁寺。何と「投票の方法が気に入らない」と言って京都派が退席している間に、名古屋派だけで強行採決して決まったそうです(笑)。嘘のような本当の話で、興味深いですね。調べるうちにそうした史実にも触れ、「これは面白い」と感じ、はまってしまいました(笑)。

 さらに「覚王山の『覚王』はお釈迦様の名前だ」と気づくことになります。覚王山という場所は、日泰寺ができる前は私の小学校の名前である田代という地名でした。ご真骨を奉安する日泰寺が創建されたことで、山号をそのまま地名にして「覚王山」という地名に変更。私の知る限り、地名にお釈迦様の名前がついているのは覚王山だけです。

 ここまでの話でお気づきの方もいると思いますが、「日本」と「タイ」で「日泰寺」です。創建当時は「タイ」はフンヤム」と言いましたので、寺号も「日暹(せん)寺」。シャムがタイに名間が変わり、昭和17年に「日泰寺」に改名されました。

 日泰寺のご本尊は日本の仏像と少し違います。それもそのはず、チュラロンコン国王から寄贈されたタイの国宝、釈迦金銅像がご本尊です。ご本尊の上には国王からいただいたタイ語の額がかかっているほか、本堂前の仏旗の横にはタイ国旗も掲揚されています。さらに、チュラロンコン国王の銅像も立っており、折々にタイの王室や政府の賓客が来訪しています。

 創建の経緯から、全国唯一の19宗派の共同寺院、超宗派の寺院として知られており、現在は曹洞宗の高僧が代表をお務めです。

 政治の仕事をしていますと、嫌なことも沢山あります。そんな中で仏教の史実を調べたり、コラムを書くことは、私にとっては至福の時間(笑)。本当に心が休まるので、気がついたら18年も書き続けています。

 やがて仏教書の老舗出版社、大法輪閣さんから仏教本を上梓することとなり、1冊目が『覚王山と弘法大師の生涯』、2冊目がお釈迦様の生涯から日本の近代仏教までの流れを書き下ろした『仏教通史』、3冊目が一昨年出版した『四国霊場と般若心経』。また、カルチャーセンターの仏教講座なども頼まれるようになり、今日に至っています。

 こうした活動の中で、知らず知らずのうちに仏教の教えから影響を受けていることを感じます。苦しい局面で「ああ、救われたな」という気持ちになることが何度もありました。そうした経験も、仏教が趣味と言って憚らない境地に至っている理由です。

 現在も母校の早稲田大学で客員教授を務めていますが、本業の著書の内容も仏教の影響を受けてしまったような気がします。昨年『「賢い愚か者」の未来』というタイトルの本を大学出版部から上梓しました。内容は本業の政治経済や公共政策に関するものです。

 一昨年の夏に原稿を書き終えた直後に総選挙になり、野党が分裂。選挙後に事態収拾のために代表に就任することになりましたが、そこから困難な道のりが続いています。

 『「賢い愚か者」の未来』の中に「第5章 中道のすすめ」という内容が入ってしまったのですが、意図的に入れたわけではありません。総選挙前に書き終えていたのですから、全く偶然です。どのように混迷を収斂させるか。日銀で18年、国会議員として18年、仕事をする中で、物事の落としどころを見い出すためには「中道」という考え方、あるいは思考方法が重要であるということを実感し、自然にそういう章が入ってしまったのです。

 そうしましたら、分裂騒動。選挙後は混乱の渦中の存在となり、「人間の修羅とはこういうものか」と思う場面が何度もありました。各人言いたい放題。罵詈雑言も浴びて「いや、困ったもんだ」「人間の欲と業とはかくなるものか」と思いながら、気分転換に原稿の校正をしていました(笑)。大学出版部のベテラン編集者からは「こんな本を書くから、お釈迦様から中道の実践課題を与えられましたね」と冷やかされ、「いやいや、そうか」と思いながら今日に至っているわけです。

 そうこうするうちに所長様とのご縁をいただき、こうしてこの場にお伺いしている次第です。本日は、政治家としてのみならず、研究者の端くれ、さらには仏教を趣味とする在家信者として、様々な思いを率直にお話しさせていただきます。このような機会を頂戴したことに、心から御礼申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 

「人間」とは何か

 政治家は森羅万象を対象とします。私の場合、研究者や大学の教員としての活動も続けていますので、相侯っていろいろと考えさせられます。

 大学の授業で最初に学生に問いかける質問があります。「人間だけが、地球上の生物の中で、言語を持ち、科学を持ち、芸術などの文化を持ち、宗教を持っています。人間は地球上で一番優れた生物だと思いますか」と学生に聞きます。国政報告会などでも、参加者に問うことがあります。

 私の授業は約100人ですが、「人間が一番優れている」と回答する学生の割合は約半分の印象です。個別に意見を求めると、機転のきく学生は「そういう質問をするのだから、きっと違う答えを求めているのだろう」と推測して、いろいろ考えて発言します。とは言え、総じて「人間が一番優れている」と回答する学生の割合は約半分です。

 「人間が一番優れている」という回答に対し、私はいっも次のように更問いします。「そうですか。生きるために他の生物を捕食する、命をいただくということは、生物の宿命であり、食物連鎖だから仕方がない。しかし、生きる目的以外で他の生物を殺したり、いわんや絶滅させ、さらには同種同士で殺し合うのは、地球上の生物の中で人間だけですが、それでも人間は一番優れていますか」と聞くと、驚いたような表情を見せます。

 2015年にカナダのビクトリア大学が発表した研究論文が話題になりました。「他の動植物を絶滅させてきている人間は、地球上の生物の中で最も有害であり、スーパー捕食者である」という内容の科学論文です。絶滅させた履歴なども具体的に示した内容で、偶然それを読んで「なるほどなあ」と思った次第です。

 学生に問いかけます。人間は他の生物を絶滅させるだけでなく、同種同士でも争い、殺し合う。スーパー捕食者以上の愚か者です。なぜ、争うのか。争いごとには当然原因があります。争いごとの当事者は自分の「正しさ」を主張します。「正義」と「正義」を主張し合って争う場合、どちらの「正義」が「正義」なのか。

 国内でも、国家間でも、争いごとには原因があります。表向きは民族紛争や大義の争いであっても、ずっと掘り下げていくと、結局は経済的な利害対立が本質的原因であることが大半です。

 ということは、皆が豊かになれば争いごとはなくなるはずですが、現実にはなくなりません。自分が豊かであっても、他人や他国と比較して、他人や他国がより豊かであれば、「自分たちは不利益を被っている」「許せない」という感覚になりがちなのが人間の愚かさです。欲の為せる業と言ってよいでしょう。

 人間だけが、言語、科学、文化、宗教を持っているのは、争いごとをすることなく、言語で話し合って理解し合い、落としどころを探す。あるいは、皆が豊かになりたいと思って争うのであれば、科学で豊かさを高め、それを共有し合えばよい。芸術や文化に触れて心を涵養し、争う気持ちを和らげる。宗教に至っては、まさしく争いごとをなくすために信仰心を高めるのが本来の役割。おそらく神仏は、人間が地球上で一番愚かで有害であるが故に、人間だけに言語や科学や文化や宗教を与えたにもかかわらず、人間はその言語で罵り合い、科学で殺戮兵器をつくり、芸術品を奪い合い、宗教が争いごとのもとになる場合もある。

 ここまで説明したうえで、「人間というのは実に厄介な生き物ですね」と語りかけると、学生は真剣に聞き入ってくれます。

 国政報告では様々な課題について話します。原発の問題にせよ、安全保障の問題にせよ、直接そのことについて語る前に、できる限り今のような話を聞いてもらうようにしています。政治好きな人の中には「自分の考えが正しい」「自分が正義なんだ」と主張するタイプの人が時々います。異なる意見を聞く耳を持たないという雰囲気の人も結構います。そういう人の気持ちを和らげるためにも、そもそも「人間とはどういう特性をもつているのか」ということを聞いてもらいます。

 人間はなぜ争い合うのか。少し硬い言葉ですが、唯物論と唯心論。物にこだわる、物に執着する唯物論。欲する気持ち、欲。恐らく全ての争いごとの深層の原因です。唯心論も同じです。心すら、その思いは個人的なこだわり、執着です。物であれ、心であれ、結局、人間は何かにこだわります。「正しい」ことや、「正義」にもこだわります。もちろん、自分が「正しい」「正義」と思うことにこだわります。

 「自分の主張が正しい。自分の考えに従わない限り、許さない」というようなことを言っていたら、争いごとはなくならず、何の答も見い出せません。「正義」と「正義」を主張し合って争いごとになります。どちらの「正義」が「正義」なのかと問いかけると、学生も神妙な面持ちで考え込みます。

 

 「正しい」とは何か、「正義」とは何か

 カルチャーセンターの仏教講座の際には、最初に仏教用語のことを話します。今日は本職のご住職の皆さんを前にしているのですいぶん気が引けますが、掴みと言うか、だいたい次のような感じで話し始めます。

 「皆さん、今日はようこそおいでいただきました。早稲田大学客員教授とい立肩書で講座のご案内をさせていただいているようですが、私が大学で教えているのは経済学であり、仏教ではありません。仏教はあくまで趣味。そんな私のような素人の仏教講座にご参加いただいている皆さんは、きっと日常生活の中で何か不満や思うところがあって、

『まあ、仏教の話しでも聞いてみたら、少しぐらい気が休まるかな。腹の立つこと、我慢することがいっぱいあって、まったく嫌になる。何で自分だけ我慢しなければならないのか』などと思って、今日の講座に参加してくださったのではないですか」と切り出すと、にこやかに頷いてくださいます。「本当にこの世の中、我慢、我慢って、我慢することばかり多くて、嫌ですよねえ」と申し上げたうえで、「でも、我慢という言葉は仏教用語ということをご存じですか」と聞くと、皆さん、キョトンとしたお顔になります。そのうえで説明を始めます。

 「仏教的には『自我の慢心』を略して『我慢』と言います。つまり、『うちの亭主はひどい』『女房が気に入らない』『隣に嫌な奴が引っ越してきた』『あいつ、何であんなことするんだろう』という不満や憤りは、そういう気持ちが湧いてくる前提として『そもそも亭主のやっていることは間違っている』『女房が悪い』『隣の奴はひどい』『あいつのすることはおかしい』等々、自分の価値観や物差しで予め裁いてしまっている、善悪を決めてしまっている、判断を下してしまっている、そういうことではないですか」と問いかけると、皆さん「そういえば」というような表情になります。

 目の前は本職のご住職ばかりです。おそらく、皆様方もそれぞれのご寺院の法話などで、より正確なことをお伝えいただいていると思うのですが、もう少々素人の話におつきあいください。

 「ほんと、我慢することが多いですよね。『隣に変な人が引っ越してきて、ゴミ出しのルールを守らず、迷惑千万。嫌なことばっかりで、愚痴のひとつも言いたくなる』と思うのも当然ですよね。でも、この『迷惑』も『愚痴』も、仏教用語ですよ」と申し上げると、そのあたりから皆さんの興味が一段と高まり、私ごときの話をさらにしっかりと聞いてくれます。

 「『迷惑』は『自分が迷い惑っている』ことを白状しているわけですから、けっこう恥ずかしいことですよね。うろたえている、狼狽していることをさらけ出しているのですから。『愚痴』は読んで字のごとく『愚かな知恵』。人前で『愚かな知恵』を話すのですから、これも恥ずかしいこと。聞いている方も決して気持ちのいいものではないですね。僕自身は『我慢』『迷惑』『愚痴』の三つが仏教用語だと知って以来、この三つの言葉を人前で言えなくなりました(笑)。この三つが仏教用語だと知っただけでも、仏教講座に来た甲斐がありましたね。ということで、これで終わります」と言って笑いを誘います(笑)。もちろん、実際には終わりません。本論はそこからです。

 つまり、争いごとは、自分の価値観や判断基準で裁くところから始まります。そのことがわかっていると、我慢することも、迷惑に思うことも、愚痴が出ることもありません。まずはその点に気づいていただき、ご納得いただいて、本論がスタートします。

 現在の米国と中国、トランプと習近平の争いも同じことです。日本と韓国、日本と中国、その他の国際紛争も、次元こそ違え、構造は一緒です。双方が自国の価値観と判断基準で相手国を裁き、「こっちが正しい」「むこうが間違っている」と言って、「正しさ」の角を突き合わせ、「正義」と「正義」を主張しあって、結局、最後は「こちらの言うことを聞かないのであれば、一発殴ってやる」という展開になるのが人間社会。だから、人間だけが言語、科学、文化、宗教を与えられても、それでもなお、他の生物が到底やらないような残虐、極悪非道なことや地球に害を及ぼすことをいっぱいやるわけです。果ては、他の生物ではありえない同種同士での殺戮に及びます。

 政治家として仕事をしている結果、こういうことを深く考えざるを得なくなりました。もちろん、考えない政治家もいると思います。しかし、私はたまたま仏教と触れさせていただいて、その影響もあってか、「正しい」とは何か、「正義」とは何か、ということを深く考えるようになりました。

 お手元に「仏教伝来と日本の仏教」という年表(資料1)を配らせていただきました。私がカルチャーセンターの仏教講座で使っている資料です。このようなまとめ方で仏教史を整理したものは一般的ではないかもしれません。素人の仏教研究家としての私の勝手な整理の仕方ですので、ご容赦ください。

 私の仏教講座では、仏教史を6段階に分けて説明しています。第1はお釈迦様の生涯、第2は仏教が西域や中国、朝鮮半島を経由して日本に伝わるまで、第3は日本への仏教公伝と聖徳太子の生涯、第4は日本仏教の礎となった役行者、行基、鑑真について、第5は最澄と空海、第6は鎌倉六宗派と今日に至る仏教、の6つです。

 これは拙著『仏教通史』の章立てにもなっています。役行者のことはご存知ない方が多いようですが、役行者、行基、鑑真の3人がいなかったら、おそらく、今日のような日本固有の仏教は誕生しなかったのではないでしょうか。最澄と空海の偉大さは申し上げるまでもありません。この両巨人がいなければ、仏教どころか、日本の社会の姿が大きく変わっていたと思います。

 さきほどお話しした『「賢い愚か者」の未来』という拙著を昨年2月に上梓したところ、「この本の内容で講座や講演をやってほしい」というご要望をいただくようになりました。本の概要は書評をご覧いただきたいのですが、第5章に「中道のすすめ」という内容も入っているせいか、他の仏教宗派にも呼んでいただいたことがあります。その際のレジュメが資料2の「仏教と現代」です。今日のタイトルと同じですが、『「賢い愚か者」の未来』を題材に7回シリーズ、20時間以上かけて話をさせていただいた時のレジュメです。今日は1時間ですので、1枚紙のレジュメに沿ってお話をさせていただいています。

 世界地図(参考1)もお配りさせていただきました。地図の右の○印のところは、言うまでもなくお釈迦様が活動された地域、つまり8大聖地がある場所です。いろいろな講演でお釈迦様のことをお話させていただいていますので、死ぬまでの間に、一度は8大聖地を巡って御礼申し上げなくてはいけないと思っています(笑)。

 お釈迦様と全く同じ時代に、左側の○印のところに大変著名な偉人がいらっしゃいました。誰もが知っている偉人です。大学の講義でも学生に聞くのですが、今まで即答できた人はいません。答はソクラテス。調べてみると驚きですが、お釈迦様と全く同じ時期にこの世に生を受けていたソクラテス。数年違いです。まるで、7歳違いだった最澄さんと空海さんのようです。

 ソクラテスが登場した頃、地中海沿岸で都市国家が誕生し始め、人々が集まり、議論して物事を決めるようになりました。どのような税を集め、何に使うか。どこの国と外交関係を結び、どこの国と戦争をするのか。「自分の意見が正しい」「我々の考えが正義だ」と言って角を突き合わせるようになりました。そこに登場したソクラテス。「正しい」とは何か、「正義」とは何か、と考え始めました。これが西洋哲学の始まりです。

 ソクラテスはお釈迦様と活動時期が一緒なだけではなく、お釈迦様と同じく、書き物を一切残していません。ソクラテスの言葉として伝わっているものは、全て弟子のプラトンが書き起こしたものです。ソクラテスの弟子がプラトン、プラトンの弟子、つまりソクラテスの孫弟子がアリストテレスです。

 ソクラテスの考え方は次のとおりです。「正しい」とは何か、「正義」とは何か、ということは、それぞれの意見を聞けば聞くほど絶対的には決められない。何かを決めなければならないとすれば、議論すべきことの対象について、まずは事実を十分に公開共有し、そして時間の許す限り熟議を尽くす。そして、決まったことには従うけれども、何が「正しい」かは一概には言えないので、決まった後でも権力はなお抑制的に運用する。こういう考え方に至ったのがソクラテスです。つまり、民主主義のルーツです。

 ソクラテスは、最後に毒を飲んで自ら命を絶ちます。罪に問われたソクラテスは無罪を主張しました。しかし、定められた手続きを経て、議論によって決まった結論に従うことは、自らも参加して決めたルールである。それには従わなければならない。自分の判断では自分を有罪とする結論は「正しい」とは思わないが、決まったことには従わざるを得ないので、自分は判決どおりに毒を飲んで自ら命を絶っ。ソクラテスは、そういう思考で無罪を主張しながら判決に従って亡くなりました。

 以来、西洋哲学は進化を続けています。現在の哲学者の中ではマイケル・サンデルとかが有名ですが、現時点での最高の哲学者はインド人のアマルティア・センだと思います。センはアジア人で唯一のノーベル経済学賞受賞者。今年、86歳です。センは晩年に哲学の領域に傾倒し、「正義のアイデア」という本を2009年に著し、日本語版も2011年に出版されました。読んでみると、次のように述べています。「正しい」とは何か、「正義」とか何かは、一概には決めきれない。事実を共有し、熟議を尽くし、決まったことには従うけれども、それでもなおかっ、権力は抑制的でなければならない。結局、2500年前のソクラテスと同じことを言っています。

 日本の学者や政治家の罪は重い。と言うのは、政治的、哲学的な概念を誤用して流布しているからです。例えば、「保守」と「リベラル」という概念も本来の意味とは全く異なる使い方をしています。「リベラル」は「リベラリズム」ですから、自由主義です。「リベラル」という言葉から、「人に優しい」とか「平和主義」という概念は直接的には導き出せません。誤用されています。「中道」も同じです。「中道」のことを「足して二で割る」ような説明をする政治学者や政治家がいますが、そんな簡単な意味であれば、わざわざ「中道」という言葉や概念を考える必要はありません。英語でも「ザ・ミドル・オプ・ザ・ウェイ」と訳されることがあり、困ったものです。今日の皆様方にはそれこそ釈迦に説法ですが、「中道」は「異なる意見を否定することなく、その時々の対処の仕方を見いだしていく」思考方法を教えてくれている、あるいは諭しているものです。

 そのためには、最初に議論すべき対象に関して事実を公開共有し合う必要があるわけですが、その事実ですら曖昧であるところに人間社会の難しさがあります。例えば、原発や国際紛争の問題。国政報告でこうした問題を取り上げたり、国会で議論していても、自分の意見が絶対に正しいと激高してみたり、主張の根拠となる事実を明示しなかったり、つまり思い込みで曖昧な内容を主張し、角を突き合わせています。それぞれの言い分、一人ひとりの意見を聞いていると、「なるほど」と思うことも多いのですが、何かの結論や方針をひとっ決めなければならない場面では、「事実とは如何に曖昧なものであるか」「正しいとか正義は、断じることが如何に難しいものであるか」ということを感じます。

 この「中道」の意味と難しさを、大学で学生に講義したり、国政報告会で一般の皆さんに説明する時に、考えてもらうために取り上げるのが中近東の事例です。

 皆さんのお手元には中近東の地図(参考2)を配らせていただきました。この地図の領域は、第一次世界大戦前には概ねオスマントルコ帝国でした。ところが、第一次世界大戦でオスマントルコはドイツの味方になりました。つまり、ドイツ側で参戦。ということは、ドイツと戦っていたイギリス、フランス、ロシアの敵になったということです。オスマントルコは領土が広大だったため、その中には、アラブ人もいれば、ユダヤ人もいました。つまり、異民族を支配していたのがオスマントルコです。

 イギリスはそこに目をつけました。当時のイギリスは、アラブ人には「自分たちに協力すれば、イギリスが勝った場合にはアラブ人の国をつくる」という密約を結びました。フサイン・マクマホン協定です。ユダヤ人にも同じように「ユダヤ人の国をつくる」と密約。バルフォア宣言です。イギリスとフランスとロシアの間では「第一次世界大戦で勝利した後に、オスマントルコを3国で3分割統治する」というサイクス・ピコ協定を結び、3重外交を展開しました。その時に暗躍したのが、日本では映画の影響でヒーローになっている「アラビアのロレンス」こと、イギリス陸軍の諜報員、ロレンス中尉です。

 それ以前のオスマントルコの歴史、十字軍の歴史まで遡るとさらに複雑な過去がありますが、第1次世界大戦を起点にして考えると以上のとおりです。そして戦後、イギリス寄りの国、フランス寄りの国、ロシア寄りの国にバラバラにされたのが中近東の近代史の始まりです。

 第1次世界大戦が終わって21年後、第2次世界大戦が勃発。アメリカも戦勝国となり、中近東の支配構造に割って入りました。そして、中近東で一番アメリカ寄りの国としてイランを支援し、現在の60歳代以上の世代には馴染みの深いパーレビ国王がイランに君臨しました。親アメリカ時代のイランです。

 ところが「アメリカ寄りの体制、白色革命は気に入らない」というイラン国民が増え、1979年、イスラム教原理主義者を中心にしたイスラム革命が起こり、国外亡命していたホメイニ師というイスラム教指導者を担ぎ出し、パーレビ国王を国外追放しました。私が予備校生時でしたが、「何だかよく分からないけど、すごいことが起きてるな」と思ったのを覚えています。

 外交、国際関係は国家の「欲」の為せる業ですから、深層はシンプルです。敵の敵は味方。味方の敵は敵。アメリカにとって、今まで味方だったハーレビ国王を倒した新しいイラン政府はもはや敵。イランの隣国イラクは、それまでアメリカにとって友好国ではありませんでしたが、敵の敵は味方。つまりイランと敵対していたイラクは、アメリカの味方になりました。「イラクに威勢のいい軍人がいるらしい。名前はフセインと言うらしいが、彼に武器と資金を与えてイランと闘わせよう」とアメリカが画策して始まったのがイランーイラク戦争、略してイライラ戦争です。

 ところが、アメリカの想定以上にイラクが強くなりすぎ、イライラ戦争終盤頃にはイラクは世界第四の軍事大国になってしまいました。そして、アメリカの言うことを聞かず、隣国クウェートの油田獲得を狙って突如侵攻。

 クウェートは親アメリカ。味方の敵は敵ですから、アメリカは国連軍を組織してイラクと開戦。湾岸戦争の始まりです。最終的にはフセインを捕縛し、処刑しました。

 イラン革命が起きた際、困ったのはアメリカだけではありません。ソ連の影響下にあったアフガニスタンもイランの隣国。アフガニスタンにイラン革命が波及しそうな情勢を憂慮したソ連は突如アフガニスタンに侵攻。

 すると、ソ連に蹂躙される危険性を感じたアフガニスタン王家は親交の深いサウジアラビア王家に助けを求めました。サウジアラビア王家は、若くて血筋の良い一族のひとりを派遣し、義勇軍を作らせました。それが、ウサマ・ビンラディン。敵の敵は味方の原則に則り、アメリカはソ連に対峙するウサマ・ビンラディンに武器と資金を供与。つまり、ウサマ・ビンラディンが作ったアルカイーダを最初に支援したのがアメリカ。今となっては不思議な構図です。

 英雄となって凱旋帰国したウサマ・ビンラディンでしたが、湾岸戦争のためにサウジアラビア国内にアメリカの基地ができていたことに憤慨。おそらく「神聖なる王家の土地に外国の軍事基地を置くとは許し難い」という理屈だったのでしょう。王家と対立し、出国。その後は地下に潜り、世界各国にアルカイーダの組織を増殖させ、その過程で様々なテロを主導。2001年には9.11を起こしました。

 中近東は既に述べたような経緯から、今もイスラエルと対立。十分に民主化も進んでおらず、第1次世界大戦以降は混乱と迷走が続いています。そうした中で2011年、今度は北アフリカも含む地域で「アラブの春」が勃発します。エジプトを筆頭に、各国で独裁政権や王権が揺らぎ、民主化運動が連鎖。大半の国で民主化運動側が勝利しましたが、シリアだけは独裁政権側、つまりアサド大統領が勝利しました。

 ウサマ・ビンラディンが作ったアルカイーダの分派組織のひとつが民主化運動側を支援したISです。アサド政権はロシア寄り。そうなると、アメリカにとってアサド政権と対立するISは敵の敵なので味方。その構図の結果として、アメリカはISに武器と資金を提供し、ISを強化しました。しかし、途中からISはアメリカと反目。シリア情勢は今や、お互いに誰が敵か味方かわからない混沌とした状況です。

 何が「正義」か、何が「正しい」かは、かくも曖昧で意味不明なことだということです。争いごとの源流をどこまで遡るかによっても、見え方も理屈も変わってきます。「正義」と「正義」を主張し合い、「こっちが正義だ」「そっちが悪だ」と罵り合っていると、人間は永遠に地球上で最も有害で愚かな生物であり続けることでしょう。神仏から天罰が下るかもしれません。

 

 公共政策とお釈迦さまの教え

 現在教壇に立っている早稲田大学と藤田医科大学のほかに、2005年から2017年まで中央大学大学院公共政策研究科で修士論文の指導をしていました。公共政策ですから何をテーマに選んでもよく、学生の選択した内容に合わせて考え方や論文の書き方を指導していました。

 13年間に約60人指導しましたけれど、そのうち数人の選択したテーマが「お寺の今日的役割」でした。いずれの学生もお寺の子弟ではありませんが、「地域のため、困っている人のために、お寺がもっと公共的な役割を果たすべきではないか」という共通する問題意識を抱いていました。指導教官の僕の趣味が仏教であることを知っていての選択だったかもしれませんが(笑)、学生たちは「昔のお寺は地域に根差していたそうなので、それを復元すると地域が良い方向に行くのではないかと思う」等々の問題意識を語っていました。

 「そのテーマを掘り下げるなら、仏教の歴史や仏教そのものも少し勉強しないと良い論文が書けないね。先生も調べてみるので、一緒に考えよう」という展開になったことも、私自身が仏教をさらに深く知ることの助けとなりました。奇遇ですね。

 公共政策の中にペイオフ・マトリックスという専門用語があります。参考3の図をご覧ください。ペイオフ・マトリックスは言わば「利得表」です。

 選択肢@と選択肢Aのどちらを選ぶかを考えてください。例えば、選択肢@は「地域を良くするために、道幅をもっと広くする」という内容だとします。選択肢Aは「地域を良くするために、子育て支援や学童保育などの住民サービス拡充を行う」という内容としましょう。

 Aさんにとっては、選択肢@から得られる直接的利益は5。選択肢Aの場合は、直接的利益は4ですが、後々になつて得られる間接的・中長期的利益は2。合計で6とします。

 Bさんの場合も、選択肢@では直接的利益5のみ、選択肢Aの場合は、直接的利益3、間接的・中長期的利益3の合計6。

 地域や社会全体でみると、選択肢@の利益は合計10、選択肢Aでは12。地域や社会全体にとっては選択肢Aの方がいいに決まっています。しかし、個々人や個社は常に直接的利益を意識するので、選択肢@を選んでしまいます。これが人間の愚かさを公共政策的に示すペイオフ・マトリックスです。

 この事例の場合、選択肢AはBさんにとっては別の意味でも許し難い選択肢です。なぜなら、Aさんより直接的利益の少ない選択肢は、常に人との比較で損得を判断する愚かな人間にとっては我慢できない選択肢です。ここでも「我慢」が出てきましたね(笑)。

 結局、選択肢@が実現し、社会全体で本当はもっとプラスが得られるものを失っていく。様々な事象やケースース
タディについて、こうした現象を公共政策の中でペイオフ・マトリックスという手法で説明しています。

 公共政策の中でもうひとつ、二ムビイ(NIMBY)シンドローム」という言葉があります。「Not in My Back Yard」の各単語の頭文字をとって「NIMBY」。アメリカの公共政策の用語として1960年代に誕生しました。

 ニューヨークのマンハツタンでゴミ焼却場を建設しようとしました。ご承知のとおり、マンハツタンはストリートとアベニューでブロックが整然と分かれています。各ブロックには町内会長がいるわけですが、全ての町内会長が「自分たちのブロックには作るな」と主張。「では、ゴミ焼却場は要らないですか」と聞くと「ゴミ焼却場は要る。しかしごっちのブロックには作るな」と繰り返しました。このことを契機に誕生した言葉が「Not in My Back Yard」、つまり「俺の庭では余計なことはするな」「嫌なことはよそでやれ」という人間心理を表す概念です。

 ペイオフ・マトリックスとニムビィシンドロームを乗り越えられるか。大事なポイントですが、これを乗り越えられないのが人間です。これをどうやって乗り越えるのか。「民主主義的に話し合って落としどころを見つけろ」とソクラテスやお釈迦様が教えてくれたのにもかかわらず、自分が「正しい」と思う結論に到達しない限り、反対し続ける愚かさ。「正義」と「正義」を主張し合いながら、最後は争う。平和を実現するために「正義」を主張し、最後は結局戦争をする。これでは何のための「正義」かわかりません。

 学生時代の専門は経済学でした。恩師はシュンペーターの大家でしたが、私は卒論でケインズを取り上げました。政治家になってから、ある時、ケインズの弟子のフリードリヒ・シューマッハという経済学者の足跡を知って驚きました。イギリス石炭公社に就職したシューマッハは、かつてのイギリスの植民地、ビルマ政府から経済顧問として招聘を受け、現地に赴きました。その当時、先進国は高度成長期。公害等の成長のマイナス面が深刻化し、地球と人類の未来を憂うローマクラプという有識者会議が立ち上がって話題になっていた頃です。シューマッハは、ビルマが貧しい国でありながら人々が幸せそうに暮らしていることに気づき、その理由を探究しました。そして、シューマッハが到達した答は、人々の価値観や生活の中に仏教的な考え方が浸透しているためであるというものでした。つまり、少欲知足。先進国のような大量生産・大量消費を欲せず、強欲でもなく、お互いに助け合い、自然を敬って生活するビルマの人々。最少消費で最大幸福を実現している背景には仏教が影響しているというのがシューマッハの結論でした。

 こうした生き方、人間のあり方こそが、地球と人類が未来永劫続いていくための大事なポイントであると考え、シューマッハは「仏教経済学」を提唱しました。残念ながら未完のままジューマッハは亡くなりましたので、私が老後に追求しようと思っています(笑)。お釈迦様の教えに触れることのなかったイギリス人、しかも近代経済学の申し子のようなシューマッハが少欲知足に気づき、こうした境地に至っていたことは驚きです。

 そのシューマッハが書いた有名な本が、私より少し上の世代が結構読んでいたベストセラー『スモール・イズ・ビューティフル』。日本では1968年に「大きいことはいいことだ」というコマーシャルのキャッチコピーがヒットした直後であり、人々や社会の琴線に触れたということでしょうか。しかし、その後の日本はシューマッハの警鐘を活かせているとは言い難いですね。

 

 科学は人間を幸福にするのか

 次にレジュメの5番目、「科学は人間を幸福にするのか」についてです。科学を発展させ、豊かになれば、人間の欲を満たせるかもしれません。神仏が人間だけに科学を与えてくれたので、その科学で豊かになれば、争いごとをしなくても済むかもしれない。しかし、実際は逆方向に進んでいます。

 レジュメに記載してある「キュリーとマイトナー」。前者は皆さんよくご存じのキュリー夫人です。マイトナーも女性で、二人とも物理学者です。核兵器はキュリーとマイトナーという2人の女性がいなかったら、この世には存在しなかったかもしれません。

 2人に悪意はなかったと思います。キュリー夫人が博士論文のテーマを探していた際、偶然夫が机の引き出しに入れていた石の横に置いてあった写真のフィルムが感光していることに気がつきました。その原因を調べたところ、石から何らかのエネルギーが出ていることを発見。それが放射線でした。石は天然ラジウムだったようです。キュリー夫人は放射線と放射性物質を発見したのです。奇しくもウィリアム・ペッペがピプラーワーでご真骨を発見した1898年でした。

 キュリー夫人はポーランド人、リーゼーマイトナーはユダヤ人。キュリー夫人の発見を受け、多くの科学者が放射
線や放射性物質を研究しました。マイトナーもそのひとり。放射性物質が核分裂をする時に、1グラムで石油2000リットル分の熱量を発することを計算上発見しました。1938年のことです。その情報を知ったアメリカ、ソ連、ドイツ、イギリス、フランス等は、その性質を利用して爆弾を作ることを画策。アメリカではマンハッタン計画となり、原爆開発にっながりました。キュリー夫人もマイトナーも、そんなことになるとは想像もしなかったでしょう。

 核兵器は地球と人類に滅亡の危機をもたらし続けていますが、ここに来て新たな科学技術として世界を揺るがしているのが人工知能です。参考4はコンピューターの発展の経過を表す「ムーアの法則」のグラフです。世界で初めて電子式コンピューターが作られたのは1946年、人工知能という言葉が初めて登場したのは1956年。計算速度に加え、記憶容量の増大分も加味すると、何と一昨年のコンピューターは1970年比、つまり約50年前と比べて4700兆倍の性能に達しています。

 私が日銀に就職したのは1983年ですが、その年に日銀に初めてパソコンが1台入りました。日本人のほとんどが「インターネット」という概念も言葉も知りません。実際、京王大学と東京工業大学の間で初めてインターネットが敷設されたのは翌1984年。携帯電話はSFの世界の想像物でした。

 参考4に記載してあるとおり、インテル創業者のゴードン・ムーアが「半導体の集積率は1年半で倍になる」という経験則を発表。矢印の線がその動きを示し、等比級数的に性能が向上しています。つまり、計算速度の劇的向上です。

 加えて、コンピューターの記憶容量の能力向上。私が日銀に入行した頃は、LPレコードのような大きなシートの記憶媒体にデータやプログラムを保存していました。その後、シートのサイズが小型化し、やがてフロッピーディスクが普及し、今はスティックメモリー。さらに最近の若者はスティックメモリーすら使わなくなり、グラウトでネットワーク上にデータを保存。どこの国のどのサーバーに自分のデータが保存されているかすら分からない状態です。こうした進歩の結果、繰り返しになりますが、2017年のコンピューターの性能を1970年比で測ると、計算速度と記憶容量の両方を加味して4700兆倍。嘘のような現実の話です。

 2000年頃、私もIBMのノート型パソコン「シンクハット」を持っていました。その頃、個人ユーザーが持つノート型パソコンの性能は、1969年に人類初の月着陸に成功したアポロ11号が司令船、着陸船、サターンロケット、NASAのコントロールセンター等に装備されていた全てのコンピューターの計算能力と記憶容量をはるかに上回っていました。今皆さんが持っているスマホは、それを更に何百万倍加、ひょっとしたら1兆倍ぐらい上回る性能のコンピューターということです。

 人工知能は早い話がコンピューターです。ところが、その人工知能の能力が更に向上すると、人間を超えられるのではないかと言われ始めているのです。参考5を見ていただくと「全脳アーキテクチャ」と書いてあります。今までの人工知能は、人間の脳のパーツをプログラミングし、それをつなぎ合わせて論理的な回路にするという構造でした。

ところが、3Dコピーが登場し、最近では人間の脳をスキャンして、ニューロンとシナプスでできている人間の脳の構造をそのまま再現するというプロジェクトが進んでいるそうです。それを実現する鍵が、最近新聞やテレビで時々報道されるようになった「量子コンピューター」です。「電子」よりも遥かに能力の高い「量子」という素子を使って作るコンピューターであり、これが実用化されると、いよいよ人間を超える能力を有する人工知能、すなわち著しく能力の高いコンピューターが実現できると期待されています。その手法は「全脳エミュレーション」と言われています。20世紀末頃には、こうした動きは21世紀終盤にやってくると予想されていましたが、それが相当前倒し
で到来しっっある状況です。だからこそ、社会も世界も激変に直面しています。

 3年ほど前に怖いTV番組を見ました。『「賢い愚か者」の未来』を執筆している最中でしたが、NHKの「人工知能、天使か悪魔か」という番組でした。「韓国ではAI政治家を開発している」という内容であり、その人工知能の名前は「ロバマ」。ロボット・オバマの略称だそうです。開発のために招聘されたアメリカのAI専門家ベン・ゲーツェルといラ科学者が、インタビューを受けてこう言っていました。曰く「AI政治家なら正しい判断ができる」。

 それを聞いてゾツとしました。生身の政治家は、核兵器のボタンを押す時に躊躇するでしょう。しかし、AI政治家は「合理的か否か」だけで判断し、おそらく躊躇しないでしょう。論理回路である人工知能は、宗教にとって一番大事な「非合理」というものを理解できないはずです。「不合理」は理解できても、「非合理」は理解できない。だからこそ、「AI政治家なら正しい判断ができる」と科学者がインタビューに答えているのを見て、背筋が寒くなりました。神仏が人間だけに与えた科学を、人間自身が使い間違えることによって人間は滅びるのです。

 最近ではグーグルスピーカーで高齢者の独り暮らしサポートの実験が始まっているそうです。グーグルスピーカーに「お風呂に入りたい」と言えば「はい、お風呂を沸かします。風邪を引かないように入ってください」などとしゃべってくれるので、高齢の被験者は「これはいい」と思ってはまっているそうです。もちろん、グーグルスピーカーも人工知能です。

 3年前に、ホログラムを投影して話をさせる機能を装備した初歩的なAI製品を開発・販売する際に、論争になった点があります。既に値段は30万円ぐらいになっており、一般ユーザーが購入可能な価格水準でしたが、そのホログラムの映像を何にするかという論争です。

 アニメのギャラが「お帰りなさい、今日は遅かったね」「おはよう、今日も頑張ってね」と話しかけるのは、許容範囲です。可愛いアニメギャラなら、喜ぶ人も多いでしょう。

 ところが、「実写映像」「人間のホログラム」の使用可否が論争になりました。つまり、ホログラムで他界した奥さんや親が出てきたら、ユーザーにとって、奥さんも親もずっと存在し続けるわけです。人間の死生観や人間自身の実体とは何かという根本認識に関係する大問題です。

 国会や霞が関でもAIの影響は広がっています。例えば、かつては「この法律のこの条文を変更するとどういう影響が出るか」と言う問い合わせに対し、職人気質の官僚が知識と練度を発揮して整理してくれましたが、今では条文検索ソフトで瞬時に結果が出ます。データベースとも言えますが、言わば人間の作業を代替するAIとも言えます。何しろ、全ての法律、全ての条文を記憶しているのですから、明らかに人間を凌駕しています。

 弁護士、税理士、公認会計士等の士業の世界でも、AIが人間を代替する可能性が現実味を増しています。銀行や証券会社等の投資アドバイスのような分野では既にAIによる代替は始まっています。

 私は愛知県出身です。一昨年、愛知県は将棋の天才少年、藤井聡太君の話題で持ち切りでした。彼が強くなった理由は、人間の師匠にっかず、AI将棋ソフトでトレーニングしたからだと言われています。同じ年に、佐藤天彦名人が将棋AI「ボナンザ」に負け、とうとう将棋でも人間はコンピュータに勝てなくなったと言われていた矢先に藤井君が登場しました。「ボナンザ」はAI将棋ソフト同士で700万回対戦して構築されたそうです。700万回がどういう回数かと言えば、将棋のプロ同士が1日10局を2000年打ち続けて到達する回数だそうです。多分、本当に1日10局打ったら疲れて死んじゃいますよね(笑)。つまり、人間では到達できない回数のシミュレーションを行い、戦術を蓄積したのがボナンザです。藤井君が対戦トレーニングに使ったのはボナンザほどのAI将棋ソフトではないと思いますが、それでも十分に強くなれたということでしょう。

 弘法大師空海は「虚空蔵求聞持法」を実践し、ご真言を百万遍唱えたら経典を全部記憶できたと伝えられていますが、実際には生身の人間が長い経典を全部記憶できるものではありません。しかし、コンピュータであるAIは現実に全部記憶できます。人々の悩みの相談に応じることも、様々なケースを記憶し、自己学習することも可能になります。

 そうすると、官僚や士業、ビジネスの世界以外でも、AIは様々な影響をもたらします。多分、宗教の世界も例外ではありません。そのことを真剣に考えなければならない時代になってきていると思います。

 

「賢い愚か者」の未来

 最後になりますが、私が拙著『「賢い愚か者」の未来』の中でどのような問題意識を読者に伝えたいと思っているのかをお話しさせていただきます。

 拙著の中で丸山眞男や山本七平を取り上げています。若い世代の皆さんは、丸山眞男という学者や山本七平という作家を分からないかもしれませんが、2人とも日本社会の体質に警鐘を鳴らしたことで知られています。

 戦後、多くの人が「日本はどうして無謀な戦争に踏み切ったのか」という疑問を抱きました。丸山眞男もそのひとりです。

 丸山眞男は自著の中で「無責任の体系」という体質を指摘しました。簡単に言うと、「みんながそうするからそうせざるを得なかった」「そういう方向だったから仕方なかった」「自分ではどうすることもできなかった」等々何かが起きたことを人の責任、社会の責任として捉え、当事者意識を持たない無責任な姿勢のことを指しています。「長い物に巻かれる」的な性質と言えるかもしれません。どこの国、どの民族にも、似たような性質がありますが、日本及び日本人はその傾向が強いことに警鐘を鳴らし、戦争の災禍の一因はそこにあったと指摘しています。

 丸山眞男から10年ぐらい経た頃に、山本七平が「空気の論理」という本を出版しました。「日本には『空気の論理』というものがあり、社会の空気、場の空気、仲間の空気に逆らうと『抗空気罪』という罪に問われる。世の中全体の雰囲気や流れに棹さす言動は『抗空気罪』となり、村八分にされる。そういう傾向が強いのが日本社会であり、日本人である」と分析しました。

 「無責任の体系」も「空気の論理」も、本質的な日本社会及び日本人の病根、体質に警鐘を鳴らしています。

 実は同じような概念を、ドイツのエリザベート・ノイマンという女性社会学者が唱えています。ノイマンは「ドイツには『沈黙の螺旋(らせん)』という逆らえない渦がある」と指摘し、第2次世界大戦やナチスの惨禍のひとつの原因として指摘しました。「無責任の体系」「空気の論理」「沈黙の螺旋」、いずれもよく似ています。

 「正常化バイアス」についてもお伝えしておきます。3.11の際に、私は厚生労働副大臣を務めていました。災害救助法の担当であり、救命・救助・復旧・復興等、さまざまなことが思い出されます。

 津波によつて最大の犠牲者を出し、死亡率が最も高かつたのが仙台市の閑上(ゆりあげ)地区です。閑上地区を津波が襲つたのは地震が発生してから1時間半後。十分に逃げる時間があつたのに、なぜ逃げなかつたのか。

 地震直後は住民が屋外に飛び出し、皆一様に「大変だ」と思つたそうです。当然です。ところがしばらくすると、落ちた瓦などの後片付けが始まり、多くの住民が「大変だね」「大丈夫かな」などと話をしながら、あるいは静かに黙々と行動していたそうです。

 大変な災害が起きていることが分かつていながら、「ここは絶対大丈夫」と何の根拠もなく思い込むことを心理学の分野では「正常化バイアス」と言うそうです。災害のみならず、「自分は大丈夫」「ここは大丈夫」「自分の家族は大丈夫」「うちの会社は大丈夫」等々あらゆる局面で「正常化バイアス」は生じます。そして、やはり日本はその傾向が強い国だと言われています。

 社会学的には「無責任の体系」「空気の論理」「沈黙の螺旋」、心理学的には「正常化バイアス」。いずれもよく似ています。

 こういう傾向や体質をどのように制御し、乗り越えていくのかという点において、宗教の果たす役割は大きいと思います。とりわけ、仏教の役割は大きい気がします。私は他の宗教のことはよく分かりませんが、仏教に興味を持つている者、仏教に救われている者のひとりとして、仏教の果たす役割、仏教の潜在的可能性の大きさを感じています。

 今日はこのような機会を頂戴し、誠にありがとうございました。個人としても、政治家、学者としても、悩みを抱えながら仕事をさせていただいている中、こうして皆さんの前でお話をさせていただき、今この瞬間は、何と申しますか、気持ちや思考の整理ができ、胸のつかえが少し和らいだような気がします。しかし、永田町に戻ると、また真綿で首を締められるようにいろいろなことに向き合わなくてはなりません。私の拙い話を聴いていただいたことに、心から感謝を申し上げて終わりにさせていただきます。

 ご清聴ありがとうございました。

 

 

司会 あまりお時間もないので、もし、どうしても質問があるとい万方がいらっしゃれば、挙手をお願いします。

A 先生、非常に分かりやすいお話をどうもありがとうございました。

 大変、変な質問で、お答えしづらいかと思いますが、例えば「一蓮托生」とか、今日のお話も出ました「迷惑」とか「愚痴」とかもそうですけども、素晴らしい仏教用語が、ほとんど悪い例えに使われてるのが現実なんです。これに対して、先生、どのようなお考えを、お持ちでいらっしゃいますでしょうか。

大塚 それは鋭いご質問です。先はどの三つ以外にもたくさんの仏教用語をカルチャーセンターで紹介していますが、おっしゃるとおり、ほとんどの言葉は本来の意味と逆向きに使われています。そうなってしまった背景は、やはり人間の体質と関係していると思います。自分の都合のいい方向に解釈して、意味が転化していったのではないでしょうか。

 「分別」と「無分別」は典型例ですよね。仏教的には「分別」は良くないことであり、自分の価値観で分け隔てしない「無分別」の方が良い意味ですが、日常的には完全に逆の使い方をされています。「この子は分別がある」と表現する時には、自分の常識や価値観に照らして評価しているにすぎません。自分に都合のいいように解釈しているわ
けですね。こういう事例は挙げれば切りがありません。

 大半の仏教用語、特に判断に関わる言葉は逆向きに使われています。逆に、判断に関わらない言葉、例えば「玄関」とか、事実や事象を表現する言葉は、割と本来の意味で使われているような気がします。私なりの印象としては、善悪や是非の判断に関わる仏教用語は大体逆向きになっています。それは結局、人間が「賢い愚か者」だからそうなっているのではないでしょうか。

A ありがとうございます。われわれが、それに対して反省をしなきゃいけないなと。発信してこなかったということも原因だなと思って、反省します。

大塚 反省というようなことではなく、多くの皆さんに仏教用語のお話をしていただきたいと思います。私のような素人がカルチャーセンターで仏教用語の話をしても、皆さんが大変関心を示してくれます。たしかすごく分厚い「仏教用語辞典」がありますよね。あまり専門的な言葉は一般の人には分かりにくいと思いますが、お伝えすべき単語は相当あると思いますので、是非ご尽力ください。よろしくお願い申し上げます。

司会 1時間にわたりご講演いただきまして、ありがとうございました。今一度、先生に拍手をお願いいたします。ありがとうございました。

 

 

 


 

 

 

 


 

 

 


 

 

 


 

 

 


 

 

 

 

 

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