エウレカ!(我、発見せり)

 

第53回  本を「書く」のは著者だけじゃない

 

 

高橋源一郎

 

「痕跡本」という概念を発見したのは、[古書店五っ葉文庫店主・古沢和宏さんだ。古沢さんによれば、「痕跡本とは、書き込みだったり、線引きだったり、メモが挟み込まれていたりなど、前の持ち主の『痕跡』が残された古本のこと」なのである(『痕跡本の世界』・ちくま文庫より』。

 たとえば、あるとき、古沢さんは『いたこニーチェ』(適菜収著・飛鳥新社)というタイトルの古本を手に入れた。「いたこニーチェ」ねえ……まあ、怪しいタイトルだが、中身の方は「小説形式でニーチェの哲学を解りやすく解説した、いわばニーチェの入門書」であり、別に径しくなんかなかった。だが、本文ではなく、別の箇所に、古沢さんは怪しい何かを見つけた。謎の書き込みがあったのである。

「I love you ♡

星に願う

ブルーのことがダイスキ

ブルーとただそばに

生たいだけ

ブルーがいるだけで私は

happyです

でも私だけじゃ嫌だよ

ブルーもhappyじゃなきや

私は何でもブルーと一緒がダイスキなの」

 (※名前のみ変更。原火ママ)

「ただそばに生たい」という言葉づかいが気になるかもしれませんが、とりあえず、そこは無視して、これ何ですか? 古沢さんならずとも、「どう読んでもラブレター」と思う。しかし、『いたこニーチェ』にラブレター? 『いたこマイケル・ジャクソン』や『いたこドリカム』ならわかるんだが。考えあぐねた古沢さん、さらに、この本(の書き込み)を読んでゆくと、どうやら、旅行中の飛行機の中で書かれたものらしいことを発見。『いたこニーチェ』に、彼との旅の旅日記を書いていたようなのだ。

「♡旅の目的♡

ブルーの☆幸せ☆smile

☆enjoy☆happy

☆リラックス

☆エネルギーチャージ

あなたができたときイコール

私ができるとき。」

 いや、熱い。熱すぎる。というか、好きすぎる。でも、この文章で「生たい」ですよ。ニーチェを持ってゆく意味がまったくわからない。そこで、古沢さんは突然、気づいたのだ。

 「この本は『彼=ブルー』からのプレゼントだったのではないでしょうか? 普段本を読まない彼女と違って、彼は実は結構な本好き。もっといってしまえば勉強好きで、それこそ哲学を大学で勉強している学生なのではないでしょうか? で、彼女にも自分の好きな世界を知ってほしいと思い、いろいろ考えて選んだのが人門書でもあるこの本、だとしたら?」

 いや、すごくいい話じゃないか。この話の方が『いたこニーチェ』の中身よりずっと良さそう。っていうか、哲学専攻の学生が、こんなタイトルの本、彼女にプレゼントするかどうかわからないけど。

 こんな具合に古沢さんは、さまざまな「痕跡本」を紹介している。絵本の本来の文字のところに白いシールを貼り、その上に本文をすべて上書きしたもの、かって少年刑務所に置かれていた本、ある部分だけホッチキスで留めて誰にも読めないようになっている本、手作りの膨大な索引を作っちやってる映画本、全編著者と著作への悪口ばかり書き込んでいるのに結局最後まで読み切っている本、長編連載恋愛小説のようなアンデルセン作品集や、頁をめくると「恰ってくれてどうもありがとう。ところでアナタは平和についてどう考えますか?」と書かれていた『平和の政治学』というタイトルの岩波新書、等々。でも、この『痕跡本の世界』でいちばん面白いのは、巻末に置かれた、「読んでない本大賞のこと」かもしれませんね。

 読んでない本大賞……読んで字の如く、これも古沢さんが作り出した慨念。「読んだことのない本」について語り合い、その中でもっとも優れた本に「大賞」を進呈しようというイベントだ。いや、そもそも、読んでない本についてどう語ることができるのか、と疑問に思うでしょう? でも、それができるんです。しかも、読んだことのある本よりも面白く。どうやってかというと・・・ああ、もう紙而がない・・・。

 

 

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