二箇相承

 

日蓮正宗史の研究

 

高橋 粛道師

 

 

 二箇相承に対する疑難は早くから向けられ、その都度反論を試みた経緯があるが、近年私の知る限りでは学術的に論証したものに、
堀上人の『富士日興上人詳伝』、

松本佐一郎氏の『富士門徒の沿革と教義』、

山口範道師の『両系二箇相承日附の考察』、

氏名不詳雨雀坊専悦の『試論二箇相承書 古文書学からの接近』 

の四書が挙げられる。

 (※@ このほかに最近のでは横田雄玉師の大学科卒業論文「二箇相承拝考」等がある。)




 二箇相承に関しては信心の領域であり、また大石寺の存立基盤でもあり、当然のこととして余り研究されることもなかったようで、論文の数も多くない。

しかし、大石寺に籍を置く者の一人として一度は論証してみたいという願望を捨て切れず、先の四説を参考・土台にして、なるだけそれらの説を紹介しながら、自説を述べることにした。

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まず初めに両書の写本から紹介する。

 1.日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)

A.日蓮一期弘法白蓮阿闇梨日興付属之可為本門弘通之大導師国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而巳
  事戒法謂者是就中我門弟等可守此状也

B.日蓮一期弘法白蓮阿閣梨日興付属可為本門弘通大導師国主被立此法者可為建立富士山本門寺戒壇也可待時而巳事之
  戒法謂是也就中我門弟等可守此状

C.日蓮一期弘法白蓮阿闇梨日興付属之可為本門弘通大導師也被立国主此法者富士山可為建立本門寺戒壇可待時而巳事
  戒法者是也付之我門弟等可守此状也

D.日蓮一期弘法白蓮阿閣梨日興付属之可為本門弘通之大導師也被立国主此法富士可為建立本門寺戒壇也可待於時耳事
  戒法謂是也付中我門弟等可守此状也

E.日蓮一期弘法相承白蓮阿閣梨日興可為本門弘通大導師也国主被建此法者富士山可建立本門戒壇也可待時而巳事戒法
  者是也就中我門弟等可守此状也

F.日蓮一期弘法白蓮阿閣梨日興付属之可為本門弘通大導師也国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而巳
  事戒法謂是也就中我門弟等可守此状也

G.日蓮一期弘法白蓮阿閣梨日興付属之可為本門弘通大導師也国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而巳
  事戒法謂是也就中我門弟等可守此状也

H.日蓮一期弘法白蓮阿閣梨日興付属之可為本門弘通大導師也国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而巳
  事戒法謂是也就中我門弟等可守此状也

T.日蓮一期弘法白蓮阿閣梨日興付属之可為本門弘通大導師也国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而巳
  事戒法謂是也就中我門弟等可守此状也

1.日蓮一期弘法白蓮阿闇梨日興付属之可為本門弘通大導師也国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而巳
  事戒法謂是也就中我門弟等可守此状也

L.日蓮一期之弘法白蓮阿閣梨日興付属之可為本門弘通大導師也国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而
  巳事戒法謂是也就中我門弟等可守此状也

M.日蓮一期弘法白蓮阿闇梨日興付属之可為本門弘通大導師也国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而巳
  事戒法謂是也就中我門弟等可守此状也

N.日蓮一期弘法白蓮阿閣梨日興付属之可為本門弘通大導師也国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而巳
  事戒法謂是也就中我門弟等可守此状也

O.日蓮一期弘法白蓮阿闇梨日興付属之可為本門弘通大導師也国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而己
  事戒法謂是也就中我門弟等可守此状也


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 2.身延山付嘱書(池上相承書)

A.釈尊五十年説法相承白蓮阿閣梨日興可為身延山久遠寺別当背在家出家共聾者可為非法衆也

B.釈尊五十年説法相承白蓮阿閣梨日興可為身延山久遠寺別当背在家出家共聾者可為非法衆

C.釈尊五十余年之説教白蓮日興付属之可為身延山久遠寺別当背在家出家共聾者可為非法衆也

D.釈尊五十余年之説教白蓮日興付属之可為身延山久遠寺別当背在家出家共聾者可為非法衆也

E.釈尊五十年説法白蓮阿闇梨日興相承之可為身延山久遠寺之別当也在家出家共背之輩可為非法之衆也仇為後日状如件

F.釈尊五十年説法相承白蓮阿闇梨日興可為身遠山久遠寺別当背在家出家共聾者可為非法衆也

G.釈尊五十年説法相承白蓮阿閣梨日興付属之可為身遠山久遠寺別当背在家出家共聾者可為非法衆也

H.釈尊五十年説法相承白蓮阿閣梨日興可為身遠山久遠寺別当背在家出家共聾者可為非法衆也

1.釈尊五十年説法相承白蓮阿闇梨日興可為身遠山久遠寺別当背在家出家共聾者可為非法衆也

K.釈尊五十年説法相承白蓮阿閣梨日興可為身延山久遠寺別当在家出家共背聾者可為非法衆

L.釈尊五十年説法相承白蓮阿閣梨日興可為身延山久遠寺別当背在家出家共聾者可為誹法衆也

N.釈尊五十年説法相承白蓮阿閣梨日興可為身遠山久遠寺別当背在家出家共輩者可為非法衆也

O.釈尊五十年仏法相承白蓮阿闇梨日興付属之可為身延山久遠寺別当背在家出家共聾者可為非法衆也




A は住本寺十代日広が重須本門寺に参詣の砌、書写したもので最古の写本である。
私は眼福を得ないが、出雲阿大遠坊日是筆の写本が大石寺の多宝蔵に保管されているとのことである。

この本の奥書には、

  要法寺日広
  於富士重須本門寺以(二)御正筆(一)奉(レ)書畢 (※ 富士重須本門寺に於いて御正筆を以て書き奉り畢んぬ )
  永(応)仁二年(一四六六) 十月十三日
  右同寺日在
                      
 私云、先師日広詣(二)タマフ 富士山(一)へ 時、如(レ)此直ニ拝書シ給也。(能勢順道編諸記録四−四)
                                         
とあり、聖滅一八七年の写本である。

住本寺十代・要法寺十六代の日広は重須で御正筆を写したと記している。

(※A 山口師は「日広本は要山所蔵で其の全形は見られないが、多宝蔵の大遠日是の転写本は「延」となっているし、富谷日震が日
、耀本の 「遠」 の字を取り上げて論考しているが、日広本には何も触れていない」 (日蓮正宗史の基礎的研究四八)と記し、
  日広本は 「延」 となつていると推測されている。



B は日叶(日教)の『百五十箇条』で、文明十二年(一四八〇)年、大石寺帰伏前の写本である。

先の日広は雲州上行院から住本寺に晋山した人である。
日叶は上行院日広の代理として申状を文明年間に出しており、両者に年齢の違いがあるとはいえ近い関係があつたようであり、日叶は日広本を写せる立場にあつたはずである。
ところが『日蓮一期弘法付嘱書』を見ると日広本と日叶本はどうみても同一本とは思えない。

特に日広本には、

  富士山本門寺戒壇可被建立也。

とあるが、日叶本は、

  可為建立富士山本門寺戒壇也。

とある。

日叶は日広本と別な本を書写したようで、既に当寺、何本かの異本のあつたことを窺わせる。

 日叶は文明十六年(一四八四)に『穆作抄』を著わす頃から日教と改めたようであるが、日叶本とは別に二つの写本を残している。
一つは長享二年(一四八八)六月の『類衆翰集私』の中に、(※B 研究教学書三巻三三頁)

もう一つは延徳元年(一四八九) 十一月の『六人立義破立抄私記』の中にである。(※C     四巻六九五頁)

両書の成立は一年五ケ月の差しかないが、『一期弘法付嘱書』を比較すると多少の違いがあり、日教が時期を隔て別本を写したことになる。
つまり、日教の三本、それに日広本を加えると四本の異本の存在していたことが確認される。
(※D 日教の穆作抄には「日蓮聖人五十年の法門をば日興御付嘱の段は「身+応」て十月十三日壬午年の御譲状顕著なり」(富要二巻二七三頁) と、一期弘法付嘱書と思われる相承書が記されている。)


 さらに E の本成寺日現の『五人所破抄斥』には二箇相承書の全文があるが、『身延山付嘱書』を見ると他の四本と異なり、如何にも付嘱書らしくみせようと 「為後日状如件」 の文言が新加されている。

また『一期弘法付嘱書』は他の四本全て 「本門寺戒壇」 とあるのに、日現本だけは 「本門戒壇」 とあって奇異な印象を与える。

他門は 「本門寺戒壇」 の意味が理解されず、伝教大師の迹門戒壇と対比して本門戒壇としたのであろう。
また 「付属」 の語が 「相承」 となっているなど他門に伝わるころには内容も変えられていったのであろうか。

 相承書はとかく秘蔵の書であるだけに、元は一つでも時間の経過と共に異本が生まれるのであろう。
それは広く公開されない相伝書の宿命のようなもので、私見が少し加えられたりして別本と呼ばれるものが作られていくようである。
しかし、中心の意図はそう変わるものでない。
従って先の四本は語句や文法の違いがあるにせよ内容的には変わらない。


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日  付
                                                                      
 さて、『一期弘法付嘱書』の日広本(A)と日叶本(B)を見ると二本には 「九月十三日」、「甲斐国波木井(郷)於山中写之」 の語句がしたためられている。

(※ E 雨雀坊専悦は 「『日蓮宗事典』が疑難の槍玉に挙げた十月度相承書末尾傍点の十二文字も日教個人の注釈として付された文言と言うべきだろう」(補筆編四)と言っているが、この十二字は日広本にもあり、日教個人の注釈ではない。)


 まず「九月十三日」 について考えると一つの疑問に突き当たる。

文明十年 (一四七八) の 『元祖化導記』によると行学院日朝は、
                                                 
  或記伝、弘安五年壬午九月八日午刻身延沢ヲ出御有テ、其日ハ下山兵衛四郎ノ所ニ一宿、九月大井庄司入道、十日曾祢ノ次郎、十一日黒駒、十二日河口、十三日クレジ、十四日竹下、十五日関下、十六日平塚、十七日瀬野、十八日ノ午刻二武蔵国荏原郡千束郷池上村二着タマヒ了ヌ。同九月二十五日自(二)リ 鎌倉田中(一)信者之輩上下参リ集ル。折節立正安国論御談義有(レ)之。(日蓮上人伝記集五六)

と、或る記を引いて九月八日に身延を出山され、十八日に池上に到着したとしている。

日精上人も『家中抄』の中で

「同(九月)八日の午の刻に身延の沢を御出ありて、十八日午の刻に武州池上兵衛志宗長が家に着き給ふ」 (富要五−一五四)

と記され、『元祖化導記』に倣っている。

もし八日出山が事実なら甲斐国波木井郷の山中で十三日に付嘱書をしたためられるものでない。
従ってこれは事情の知らない後人が何かをもとにして十三日と加筆したのであろう。

 山口師は日付について 

「九月八日身延御出立であるから、本文は山中で、日附は出立後書き入れられたものであろうということが考えられるのである。
九月十二日と十月十三日の両説については、最古の文献である日限の五人所破抄見聞の十二日Fを用いるのが隠当ではなかろうか。
このように考えて身延相承は弘安五年九月十二日とすれば 

「甲州波木井山中園之」 

の文字は、未だ波木井山中を出ない時期に本書を認められたことを意味する文であり、この九字は当然身延相承に書き添えられるのが妥当であると思うのである」 (日蓮正宗史の基礎的研究四七) と述べられている。

(※F 山口師は日付の入れ替った日教本を正系と考えておられるので、まず身延山の付嘱があってから一期弘法付嘱書があるべきであると思われていたようである。
その上で身延山付嘱書を九月十二日と推測されているがその根拠となる五人所破抄見聞には
                                          
  「日蓮聖人之御付嘱弘安五年九月十二日、同十月十三ノ日御入滅の時ノ御判形分明也」 (富要四巻八頁)とあるだけで、九月十二日を身延山付嘱書と言っているわけでないようである。

一方、松本氏は九月十二日を一期弘法付嘱書とみていた上、「本文に日付がないのに眼師が九月の 「十二日」としてあるのは、何かさういふ伝承が有ったのだらう」 (五二頁)と記している。 )
     

つまり、日付は空白にしておいて出山後書き入れたものであろうと推測されたのである。

しかし、ここでまた問題なのは『一期弘法付嘱書』を書かれた宗祖が「写之」と記されるのであろうかということである。

大聖人の場合当事者であり、「書之」「記之」「著之」とあるべきだからである。

    松本氏は、

    甲斐の国波木井郷山中云云の記はもともと保田の萬年救護御本尊、茂原の無量世界御本尊の讃文で、これが伝写の間
    に二箇相承にまぎれ込んだのだから、全く誤写の標本のやうなもの。(富士門徒の沿革と教義四七)

  と記されている。

本来「図之」とは本尊のことであって相承書にまぎれ込んだものであると言われているのである。


    また 試論二箇相承書 (雨雀坊専悦の説) は、
 
   「甲斐国波木井郷於山中図之」 の文言については、既に松本氏が指摘するように後加情報、筆写過程での錯入であ
    る。図之″図″は執筆文書を指示する表現に馴染まない。認之・書之・記之・著之″であれば疑惑の最低条件は
    満たされ得る。図之″とある以上、相承書との直結を図るのは困難である。また、こうした後加情報をいつ除外す
    るかは、時々の責任者の任意に帰する。錯誤が明白な不要文言を後代に除外する事に何ら問題は認められない。(三五)

  と松本氏の説を受け、さらに現今の相承書のように日付を取ることに何らの問題もないと断じている。


   次に日教(日叶)の石山帰伏後の二書を見てみると、『類衆翰集私』と『六人立義破立抄私記』とは書写した時期がさほど離れていないせいか、『身延山付嘱書』は語句が全同であり、『一期弘法付嘱書』もほぼ同じである。

違いは奥書に見られ、日叶本が「写之」となっていたのに、「図之」となつていることと、「武州池上」が日教両本では消えている。

  更に大きな変化は日付が逆転していることである。
日付の逆転は恐らく身延山久遠寺の付属は身延の地で、という考えに基づいて成されたものであろうが、これを日教Gが替えたのか否か不明である。

(※ G 堀上人は十三日の日付は、もともと空白で、日教が勝手にいれたのではなく写本がそうなっていたのではないかと推測されている (正宗教報・昭和十年九月号)。)

  堀上人は日付を日教が替えたのではない、としながらも

「ただし本書には御文は大差なけれども、年紀の指し違えや付記の誤りがあるは、つねに正本を拝し得ざる仁ではやむをえぬことであろう」 (富士日興上人詳伝一五六)   と言われ、

  松本氏は

「おそらく秘書としてめったに外へは出さなかったであらう。そのために実物を見た人が少く、左京日数ほどの人でもひどい悪本しか知らなかった」 (四七)    といい、良本に会えなかったことに同情されている。



 ところで山口師は多くの付嘱書の写本を、

大石寺系(正系)、

重須要山系(傍系)、

批判書(反系) の三系統に分け、


日教本を最も信頼の置けるものとしている。

その理由を

「御正本は大石寺創立当時には現存し、これが上代から日有上人の頃の書き物の中に引用され、それがたまたま日教の書き物の中に、その原文が写されて残ったのであろうということが考えられる」 (四三) と述べられている。

日教が大石寺に現存し伝来したと言う正本を書写したという確証を得れるなら、日教本は高く評価されるべきであろう。
しかし、日数は本当に正本の写本を大石寺で書写したのであろうか。

 日教が『類釆翰集私』を著わした場所は「上州上法寺」 (富要二−三五五)であり、重須でも、大石寺でもない。

その上、「十三日」 の日付と、「甲斐国波木井郷於山中図之」 の付記がひっかかるのである。

正本にこの二文が記されていたことは信じ難い。H

(※ H 山口師は

「端的に云えば、一期弘法書が九月となっている重須・要山の一系統に対し、十月十三日となつているのは大石寺(日教)と別系(日現)の二系統があるということは、先述の文献的考察からみれば同一のものが二系統あるものの方が有力となると考えるのであって、身延相承書は九月、一期弘法書は十月となっているのを正統なもの」 (四四頁)   と言われ、日教本を正系とし、日現本を別系・反系としながらも有力な証拠の一つにされている。

  また山口師は

「日興上人への阿闍梨号授与の時期は文献上に見るかぎり御入滅五日前の十月八日であると見るのが正しいと思うのである。故に異本二箇相承の中で、身延(山)相承は未だ阿号の授与されていない時の弘安五年九月付で阿闍梨の文字のないもの、又一期弘法書は弘安五年十月八日阿号授与以後である十月十三日の阿闍梨の文字の付されているものが正本の形を留めるものであり、正しい両書の順序を示す写本であるということが考えられるのである」 (四七頁)   と記されている。

つまり身延山付嘱書は二本共「白蓮日興」になっているが、一期弘法付嘱書は「白蓮阿闇梨日興」になっているので、「阿闇梨」号は十月八日以降であるから、それをさかいとすれば身延山付嘱書は九月十二日、一期弘法付嘱書を十月十三日とするのが正しい、というのが山口師の説である。
この説を正論とするには「白蓮」が房号であったことを論証しなければならなくなるが、これを「阿闍梨」号でないと断じられるものでもないと考える。
なぜなら他本が白蓮阿闇利となっているからである。)


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  愚意愚見重宝不加之

   F が重須日耀の写本で、これが正本を一字一句臨写した、現在に於ける最も信用出来る付嘱書とされている。

この本の日辰の奥書には、

  我与(二)日誉筆弘治二丙辰年七月五日己午之刻、此二箇御相承並本門寺額安国論等を拝聞畢。為(二)後証一令(二)住持日耀上人写(一)レ 之 而巳。備(二)随身上洛(一)于(レ)時同月廾日也。弘治三丁巳年(一五五六)八月朔日 日辰在判。(諸記録四−八)

  とある。

この裏付けとして自著の祖師伝には、

 同(弘治)二年六月廾三日目誉と倶に京師を出で七月四日富士重須に至り日耀に謁す、同七日己午の二刻霊宝を拝見し奉る、所謂二箇の御相承・本門寺の額・紺紙金泥ノ法華経一部・本尊十七鋪・安国論皆悉ク蓮祖の御筆跡なり。(富要五−五六)

とある。

さらに日輝本の日辰の奥書に重ねて西山十八代日順が奥書しているが、それには、

 此二箇御相承並本門寺額広蔵坊日辰判形愚悪愚見重宝不レ加レ之。予京師弘通之節於(ニ)ー条上行院(一)有(二)湛応(一)。真浄坊日了無二志被(二)本山納(一)レ之。為(二)全其至信(一)且添(二)愚筆(一)為(二)本門寺什物(一)者也。明暦二(一六五六)丙申卯月十日於上行院書之 日順在判。(諸記録四−八)

とあるが、この「愚悪愚見重宝不加之」の真意がわかりにくく二通りの解釈がある。

一は「重宝これにしかず」であり、

二は「重宝にこれを加えず」である。

二者は全く正反対の意味になるが、

松本氏は「これが西山日順師が上京した際、『愚悪愚見の為に重宝之にしかず』と喜んで拝見したので、一条上行院の日了師が之を順師に与へたものである。」(四五)I

(※ I 『試論二箇相承書』では「愚悪愚見″とは日辰本を評した表現ではなく、自分の愚悪愚見″のために日辰本を重宝に加えてこなかった自身への批判を含む謙譲表現と思われる。そして、その愚悪愚見″を打破したものの一つが一条上行院における湛応(感応)体験であり、日了の「二志ない」行動だったと解されるのである。すなわち、日辰本が重要な価値を存するものでありながら、自分の認識不足から重宝に加えてこなかった過去の不明を恥じ、「至信全きために」、あらためて日辰本を「什物」とすべき意思の表示が追撃の奥書となって表れたものであろう。なお、古く「什物」には「秘宝」 の意味もあるから、重宝とは同等、あるいは別な意味を有するものとして扱う、の意味として記されたものと理解される。このように、日順奥書は、日辰本の価値を疑ったものではなく、逆に再評価の記念碑的言辞としてわざわざ書き加えられたものである」 (補筆編二頁)
  と記している。)


と記されているが、愚意愚筆については何も述べていない。

二は、山口師は

「この文中に「重宝」と「什物」の二つの語句がある。この句は一物に対する優劣の対照的な意味を持っている語句であると思う。この点に留意すれば、本文は 「不(レ)ズ 加(レ)ヘ 之ヲ」 と読むのが隠当のようである。(中略)
日順の奥書は 「重宝に加えないが、かりそめに什物として置く」 という意味を述べているのであると思う(中略)
まして当時日辰と云へば日我と並んで東西の雄であり、その日辰が二箇相承をみとめたという証拠があるということは、二箇相承の存在したことを自他門に誇示するためには最良の文証となるのである。
であるから、何も西山の法灯にある日順が日辰の二箇相承を「悪いもの」ときめつけることは更にないことである。
何故中興であり、博学の日順が之を悪いといって重宝に加えなかったのであろうか。
この辺りにも直系門流ではないが日順なりの法義了解の上から日付の矛盾を考えたのではなかろうかと思うのである」(三四)

と記されている。

普通に解釈すれば山口師のように 「重宝には加えないが、真浄坊日了の至信を受けて本門寺の什物とする」 ということであろう。ただ山口師によれば「不加之」の会通として、日付の矛盾から日辰本を悪本と見られたのではないかと推測されているが、日順がそれほどまで付嘱書の日付に関心があったでろうか。
この説明では根拠が薄いようにも思える。

 さりとてどのように解釈すべきか難しいところである。

かりに二箇相承と『本門寺額』の奥書に日辰が判形を加えたことに対し、日順が日辰の書いたものに対し愚悪愚見の為重宝に加えなかったと解釈したとしても、日順J自身は二箇相承を否定していないので、二箇相承そのものを指して愚悪愚見と言ったのでないことは確である。

(※ J 日順は 「富士山本門寺早創之年数」 の中で「日蓮入寂之御附弟日興仏法並身延山住職譲之時二箇相承有之、其文言曰、(以下略)」 (高橋粛道編西山本門寺文書一一〇頁)とあり、二箇相承を否定していない。当然である。)


 ではなぜ愚悪愚見と記したかと推測すれば、かつて正本の二箇相承や『本門寺額』が北山本門寺にあったことに我慢がならなかったのであろう。
本来、重須の重宝は一切日代が日興上人から引き継いだものだから、日代が西山に移った後でも自山の重宝と思い込み、日春のように横奪を謀る人もいたくらいである。

西山は正統意識が強く北山を正統化させるような、たとえ二書の写しでも北山にあることが気に入らなかったはずである。
日順は日辰がたとい過去の人であっても北山に加担した人とみて好意的でなかった。
日辰と北山の彼等の残した二書を評して、愚悪愚見だから重宝に加えない、本来二書は西山にあらねばならない、というのが日順の真意に思えるが如何であろうか。


 私は山口師と会通解釈を異にするが、『重宝不(レ)ズ 加(レ)へ 之』と読むことに関しては同じである。


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「□in民」  字

 前述の如く日耀は日辰に依頼されて正本を臨写Kしたようだが、日耀本の中に国王の国字が「□in民」になっていることで、偽作論が一時あったようである。

(※ K 山口師は「正本を臨写したという西山蔵の日耀本は、その筆法を校合してみるに、大聖人の御筆法に似た点がないということである。したがって日耀が親本とした重須本は大聖人の真蹟ではなかったということが考えられる」 (四四頁)とて、重須本は写本であったと述べられている。

これに対し、試論二箇相承書は「填墨・影写法に依らない単なる写法で、原本の字体、筆風を忠実に復元するのは不可能である。填墨・影写以外は、文言転載だけを目的とする写法であるから、似ている必要はない」(補筆編一頁) と記している。

堀上人は「辰師の臨写には、大聖人の御筆法が、充分に出てをらぬようである」 (正宗教報・昭和十年十月号) と記されている。)


松本氏は 「康無字典・大字典共に国は國の俗字として載せてあるが、「「□in民」字を見ず。聖人の特殊な用例である。但しこれを以て偽作でないとするキメ手にはなし難い。偽作者が聖人の用例を知ってやったとすればみすみす彼の思ふ壷にはまることになるからだ。しかしさうかといって偽作でない証拠にする事が不可能というでもない。唯、今の所、証明力が弱い」 (四六) 

と苦慮されている。

 この点、試論は「□in民」の字が鎌倉時代に使われた四十二の実例を出し「「□in民」″文字の実数は、文書総体から見れば微々たる数値だが、正に鎌倉時代を大きな頂点として、文書の種類や書き手の如何を問わずに広く用いられていたのである。従って「□in民」″文字が特定の意志を強調する根拠となり得ない事は余りにも明らかであろう」(二九)   と記している。

 近年、御書学の研究は進んでおり、宗祖直筆の立正安国論に「□in民」の文字が五十七回使われていることが確認されている。

故にこのことをもって偽作の援証とはならないのである。


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富士山本門寺戒壇


 次に『日蓮一期弘法付嘱書』にある「富士山本門寺戒壇」をどう読むかの問題がある。白文であるために二通りの読みが一応可能である。

 a.富士山に本門寺の戒壇を建立

 b.富士山本門寺に戒壇を建立

日耀本には

  富士山本門寺戒壇可被建立也
                                                            とあるが、堀上人は純漢文なら「可被建立富士山本門寺戒壇也」とあるべきであるが、「当時の公用漢文で、爾(し)か書せられてある」 と述べられている。

 重須や西山や『遺文録』では b のように、

「富士山本門寺に戒壇を建立すべきなり」 と読むが、

大石寺は a のように

「富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり」 と読んでいる。

いまだ宗祖の御在世中に本門寺の建立がなかったのだから b のようには読めない。
本門寺建立は未来広布の理想であり、「『本門寺の戒壇』とした方が妥当である」(以上、富士日興上人詳伝一四〇頁)

ということになる。


 ところで先師はどのように読まれていたであろうか。

日眼は、  

南瞻(せん)部州第一ノ山二最モ本門ノ事ノ戒壇可(レ)在(二)ル建立(一)大日蓮華山也。(富要四−一三)

といい、富士山に本門の事の戒壇を建立あるべきであるとしている。

三位日順は

 富士山をば或は大日山とも号し、又蓮華山とも呼ぶ。此れ偏へに大日本国の中央の大日山に日蓮聖人大本門寺建立すべき故に先き立って大日山と号するか。(富要二−一一)

 富士は諸山中の第一なり、故に日興上人独り彼の山をトとして居し、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し。(富要二−四三)

と富士山に建立すると記している。

左京日教は、
                             
  常寂光土は本門の戒壇。是は何処に有りや。富士山こそ伝へ承れ。(富要二−一七七)

といっている。

日興上人はどうであったか、

三時弘経次第には像末を対比して、


  迹門寺  本門寺
  比叡山 富士山 (歴全一−四三)
  像法  末法

とあり、

本門弘通事にも同じように、
             
  迹門 比叡山 本(もと)ハ日枝山 吾山 御祖
 ↓                
  本門 富士山 蓮華山     大日山  (歴全一 四五)

と示されている。

これらを見ると、本門寺は富士山に建立するように指示しており、富士山とは山号でなく地名である。

このことからすれば富士山という地・場所に本門寺 (戒壇) を建立すべきであると読むのが妥当であろう。


 ところが『試論二箇相承書』は次の様に述べている。

  生前の日蓮聖人は建立地について特定の場所を指定してはおられなかった、というのである。と同時に土地空間と
  しての富士山を建立先と定めた嚆矢(こうし・最初)は日興上人、という事がわかる。(中略)さて、『九月相承書』にて富士山本門寺〃と明記した日蓮聖人が、実際の建立先を特定していなかったという事実は、何を物語るのだろうか。この疑問を解く鍵が『本門寺々額』なのである。(中略)すなわち、問題の富士山とは大日本国の富士山″ではなく、本門寺の寺号を有する戒壇の山号と解すべきと思う。「何れの所とも之を定め置かれ」なかった日蓮聖人の脳裏に、果たして特定の場所としての富士山が存在したであろうか。在所不特定の所伝と言い、寺額と言い、富士山を建設場所に限定して考えるのは少々難があるように思われるのである。以上、「富士山本門寺戒壇」の読法には甲L乙説の如き助詞が不可欠とは思われない。従来の説では富士山が建立地として限定されるから、適地はおのずと限られる。だが、富士山=山号とすれば、富士山に程近い周辺部も適地たり得るのである。現在の北、西両本門寺や大石寺など、およそ富士山″とは言い難い場所でも将来的には十分に本門寺地たり得る点で大きな違いと言えるのではなかろうか。(三一)

(※ L 甲…富士山二本門寺ノ戒壇ヲ
     乙…富士山ノ本門寺二戒壇ヲ (試論二簡相承蕃三〇貞))


 筆者自身穿った見方と断っているように、これは日蓮正宗の考えとは違う。
西北両山が喜ぶ論文になっている。

また、『本門寺々額』M を宗祖の御真筆と考える人は日蓮正宗では皆無であろう。

(※M 富士山本門寺の富士山を場所でなく、山号に解釈すべきであると言われるが、北山・西山両本門寺は山号を富士山というので
  あり、試論は結果的に彼らに荷担する論となったのは残念である。なお、日寛上人は富士山に本門の戒壇を建立すべき理由を
  道理・文証・避難の三点から詳説されている (六巻抄六一頁)。)

氏によれば「富士山本門寺戒壇を建立すべき也」が正しい読みということになるようである。

『試論二箇相承書』は『富士一跡門徒存知事』の

   A、彼の天台・伝教は在生に之を用ひらるるの間、直ちに寺塔を立てたまふ、所謂大唐の天台山、本朝の比叡山是な
    り。而るに此の本門寺に於ては、先師何れの国何れの所とも之を定め置かれず。

   B、爰に日興云はく、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河富士山は是日本第一の名山な
    り、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏閲し畢んぬ。仍って広宣流布の時至り国王此の法門を用ひらるるの
    時は、必ず富士山に立てらるべきなり。(御書一八七二)

  の文を引いて、「日蓮聖人は本門寺の建立地を何れの地とも特定されなかったが、日興上人が初めて富士山に特定した」、
  と言うがそうであろうか。

 堀上人の解釈によれば、A は冒頭に「五人一同に云はく」 の文が書写の段階でぬけたから本来あったはずであり、大聖人が「本門寺建立を何れの所とも定められなかった」のでなく、五人がそのように主張した訳であり、それに対し、

日興上人が五人の主張を退けて必ず富士山に建立すべきである、というのである。

正しく「五人一同に云はく」の文が正本に有り乍ら書写の段階で抜けてしまったなら、堀上人の説が成立するであろう。

 また、もう一つの考え方として、もともと、正本に「五人一同に云はく」の語句がなかったら、B の文をどう会通すべきであろうか。
その鍵を握るのが 「奏聞」N の字である。

(※ N 日淳上人は「此の戒壇建立の地の撰定は国主の定め玉ふところでありますから一往御指示をおひかへ遊ばされてをるのであります。しかし再往は大聖人が撰定遊ばされてその旨を奏聞するというにあらせられたのであります」 (日淳上人全集全四八九頁) と述べられている。一往・再往で解釈されているが日達上人のそれとは異なっている。)


 日達上人は日興上人が宗祖大聖人に「奏聞」されたと解釈されている。
即ち、富士山は日本第一の名山であるから、この地に本門寺を建立すべきことを言上された。
この御許可を得たから、日興上人は「広宣流布の時至り国王此の法門を用ひらるるの時は、必ず富士山に立てらるべきなり」と言えたと推測されている。

それならば「本門寺建立」は日興上人の独創でないと言うべきであろう。


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   身 遠 山

 次に身延山付嘱書の日耀本を考察してみる。
この付嘱書は 「身延山」O とあるべきを 「身遠山」 になっていることで問題になっている。

(※ O 日辰が重須で臨写し、それを木版したものにも「遠」の字に写されている。その写真のコピーが諸記録四部七頁に載っているが、大聖人の御筆法が十分に出ていないと堀上人は言われている (正宗教法・昭和十年十月号)。)

しかし、日蓮宗の『創価学会批判』や『日蓮宗辞典』をみると、このことを偽書の根拠としていないので余り大きな問題にはしていない如くである。
彼等からすれば結論は出ているのだから、一々細かいところまで言わないということかも知れない。
けれども付嘱書の正筆を立証する上で避けれない問題でもあるので論じてみることにした。


  日耀の臨写に同席した日辰は、
 
 身延山ト者甲斐国波木井ノ郷二山アリ、身延ト云フ是也。一書二身遠山二作。リ玉ヘリ 定テ有(二)意趣(一)歟。(諸記録四ー七)

と、身延山抄見聞に記し、その理由を解明していない。

また日精上人も、

 凡作(二)偽書(一)号(二)真書(一)ト輩不(レ)可(レ)有(二)文字誤(一)。然二今ノ文二改(二)身延山ノ延字ヲ(一)遠字(一)二給ノ事可(レ)有(二)深意(一)。以(レ)之思(レ)之弥知レ為(二)真筆(一)。若謀書ナラバ如(レ)此誤不(レ)可(レ)有(レ)之。(諸記録四−四〇)

と、偽書を作り、それを真書という人に文字の誤りのあるはずがない。
「遠」の字には深意があるであろうと述べられているが、それ以上のことは記されていない。


 富谷日震は

「之は事些細なる誤字とは申せ事頗る重大である。先師も之に対しては明確なる会通を加えられては無い」(夏期講習録一〇) 

と言うに止まっている。


いずれの三師も解答は出せないようである。

  松本氏は 「遠」 の文字を誤字とみて、
     
   これほど念を入れた写本だのに身延山が身遠山に作ってある。身延はもと蓑夫と書いたのを聖人が改められたといふから、本来ならば間違って書かれる筈は無いが、御遷化直前の御病中代筆としても取りこみの最中なら、次下に来る筈の久遠寺の遠に引張られて書きちがへることも有りうべからざる事とは言ひ難い。のみならずこの時代は通音が平気で用ひられてゐたのだから、その位の疵は小事として無視され、書直しをする必要も感じられないまま、そのままにされたのかも知れない。これが若し偽書ならば、さういふ軽いすぐ分るやうな誤は決しておかさない筈だ。少くとも偽書を造る程の者が誰も知ってゐる身延を書き誤るべきものでなく、はるばる京都から来た辰師と貫主の耀師が、二人掛りで正確な写本を造らうとして誤記することもあるまい。さうすれば原本は遠字の誤があった
こと大体確実で、そのやうな誤があったのが逆に偽書ではなからうかといふ推定を強めさせる。(五〇)

  と述べられているが、無理のない会通に思われる。

身延山付嘱書は久遠寺の付嘱が中心なのであり、「遠」字に深意をもたせようとすることに意味があるとは思えない。


  山口師は 

「日耀本 (日辰本) に 「身延山」 を 「身遠山」 と書いているのは恐らく書写の際の誤りであろう。それは日耀以前の写本全部が「身延山」となっているからである。(中略)この日辰の記(身延山抄見聞)を見れば、重須本が「遠」であったのであろうということも一往は考えられるが、これは日耀が写し誤ったのではなかろうか。何故ならば、日廣と日辰の写本は約九十年の隔りはあるが、同じ重須本を見て書写しているのである。にもかかわらず日廣本は 「延」 となっているからである。又、日廣本は要山所蔵で其の全形は見られないが、多宝蔵の大遠目是の転写本は 「延」となっている」 (四八)

と述べられている。

山口鋭に反論を敢て加えれば、日耀以前の写本全部が「延」と誤記した可能性がないとはいえない。

『一期弘法付嘱書』については日広本と日辰本は同一の重須本を見て書写していない。
また『身延山付嘱書』は一字を除いて日広本と日辰本は全同であるから同じ重須本を見て書写した可能性はあるが、日広本は大遠目是
の写本であって要山所蔵の正本でないから日是の誤字といえなくもない。
正本を見なければ何とも言えない。

 山口師は日辰の時には伝承本が大石寺・重須・小泉の三本があったと考えられている。
その出典を会津実成寺の『宝物記録』としている。

  血脈相承三幅。二幅は裏に弘治二丙辰年七月七日、我与(二)二 日誉・日優・宗純・寂円・幸次等(一)於(二)駿州富士郡重須本門寺(一)令(レ)「拝(二)見」之(一)畢。今欲(レ)趣(二)泉州(一)故記(レ)之。于時永禄三庚申年八月十三日。又永禄二己未年正月十二日奉(レ)「拝(二)見」之(一)。日辰と書し、一幅には永禄二己未正月十八日於小泉久遠寺書(レ)之。重須日出上人・寺僧本行寺日輝・丹後・讃岐・民部郷・京主日玉等孰(じゅく)カ「被(二)見」此書(一)写者也。
  
此外大石寺有一紙御付属状是広格異耳。要法寺日辰と書す。共に花押あり。(諸記録四−一〇)


 この 『宝物記録』 のはじめには 「二箇相承」 のタイトルがあり、その後に 「血脈相承三幅」 とあるので、この血脈相
承とは二箇相承のことではないかも知れないが、確証がないので一応二箇相承として考えてみる。

血脈相承の三幅中、

一幅は弘治二年七月七日の写本 (日耀本と同じ)

二幅目 P は永禄二年一月十二日の日辰写本

(※ P 祖師伝に 「去る正月廿日未の刻日興総別付属二通御筆勢の如く之を写す」 (富要五巻五六頁) とある。)


三幅目は永禄二年一月十八日の日興跡条々事 Q の写本

(※ Q 「余永禄二年己未正月十八日小泉久遠寺に於て之を写し奉る。時に重須日出上人、並に寺僧本行坊日輝、丹後阿、讃岐阿、京都要法寺沙門日玉等熟ら此ノ書写を見らるる者なり。今永禄三庚申年七月十七日、洛陽綾小路堀川要法寺に於て之を書写す。日辰在判」 (富要五巻三三頁)。これを写すの「これ」とは日興上人の大石寺置文である。日興跡条々事に類似しているので本文では日興跡条々事とした。


このほかの大石寺の御付属状とは永禄二年二月廿六日に重須で写した『日興跡条々事』かも知れないが、断定出来ないので一応二箇相承としてみる。

 このことからすると付属書は重須と要山と石山の三箇所にあった如くである。

要山本(日辰本)は重須本を写しているので同本であろう。

大石寺本は現在主師本が最古の写本になっているが、日主上人の前に写本が存在したとしても、日主上人は石山本をそのまま書写されたであろうから主師本を見ればわかる。
その主師本は「遠」となっている。
主師本は日広本や日耀本と異なっていて別系統の流伝本であるが、いずれにしても重須本も石山本も「遠」字を使用していたことになろう。

 北山九世日出と思われる写本には「身遠山」と写しており(諸記録四−三五)、日辰は二度まで重須に来て二箇相承を確認しているのであり、「身遠山」が誤字とは決して言えないのではなかろうか。

 なお『試論二箇相承書』は

「遠字誤記説についても、相承書自体は極めて短文だから、異同の認識が困難だったとは思われない。万一過誤を発見した場合、再度書写するのが自然である。それらの暇も与えられないほどの制約があったとすれば別たが、点検を怠り、何の注釈も施さずに誤字を放置した、とも断定しかねない従来の理解には受け入れ難いものを覚える」(補筆編五)

といい、耳を傾むけるべき点もあるが、松本説と山口説に批判的である。

更に試論は

「『二箇相承書』は、紛れもない真筆として一時期厳として存在していた。である以上身遠山″は、それこそ歴史的事実である。身遠山″をいきなり疑ってかかる前に、疑おうとする自身の先入観や常識を、まず正してみるべきなのではなかろうか。大事なのは身遠山″を性急に身延山″の枠の中へ押し込めようとするのではなく、身遠山≠ェ何を語るのかを、まず考えるべきであった」(二四)

と、従来の論争を異様と評し、

「『しんえんざん・くおんじ』すなわち、寺号・山号とも音読すべし、というのが他ならぬ聖人の遺志(深意)と理解される。これが現代古文書学からの答である」(一二)。

「『遠』の一字こそ身延山″の音読「微証」(※徴証 ではなかろうか? ちょうしょう あかしとなる証拠)であり、訓読微証の不存在を明確に示す厳粛な事実であったと考える」

と記している。
つもり、従来の誤記説を否定し、宗祖の意志の表われが身遠山であると積極的に認め、「シンエンザン」(二四)
と音読するのが、宗祖の意志、それが深意であり、古文書学からの答えであると言っている。
発想は斬新だが、身延の山が身延山(しんえんざん)と読み書きする山号でなく、「身遠山」 (しんえんざん)でなければならない理由について筆者は何も答えていない。

「身延山」もシンエンザンと読めるのである。

「遠」の一字こそ身延山の音読微証であるから身遠山とした、とは筆者の主張であるが、宗祖が弟子にどのように読ませたかったか、ということは余り重要とは思えない。
なぜなら身延山の読みを弟子達は改めて師の大聖人から教えてもらわなくとも十分知っていたはずだからである。

 「遠」 の一文字は誠にナゾめいているが、答えは簡単なものなのであろう。
新編御書は余分な論争を巻き起こさないように 「身延山」 に改めている。


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花  押

 健康を著しく害された大聖人が付嘱書の最後に「花押」をしたためることが出来たであろうかとの疑問が提示されている。

松本氏は

「今一つ問題が有るのは、池上相承が在判だということである。九月十九日の 「波木井殿御報には「所らうのあひだ、はんぎやうをくはへず候事恐入候」とあるから、其から更に一月近く後、御遷化の当日十月十三日は、御病勢が更に進んで、判形を加へることは不可能だったのではないかといふ想像も成り立つからである」 (五〇)

と問題を提起したあと、

 しかし、非常に偉大な精神力をもった人の行動を、普通人の常識にあてはめて考へることは危険である。(中略)佐渡の雪中に死ななかった聖人が、御遷化の当日に花押位書けないことはあるまい。いはんや当日最後の御説法さへ有ったといふに於ておや。それでも猶、一月前には花押を書かれなかったといふ疑が残るかも知れないが、非常に衰弱してゐた病人が死の直前、一時元気を回復することは度々見る所である。マシテ前者は信者が、当然なすべきことをしたに過ぎない財施への賞状であり、これは末法の大導師の補任、総本山別当の親任状で重さが全然ちがふ。(五〇)

と明確に偽疑に答えられている。R

(※ R 試論二箇相承書は「松本氏は『二箇相承書」』に花押が据えられていなかったものと錯覚されていたようである」 (二五頁)と記しているが、宗学に造詣が深くないことが災いしたらしく松本氏の説明を理解しなかったようである。御書全集本にあった
  「御判」 「在御判」 は新編御書は全て 「花押」 に統一したとのことである。氏は原本を「花押」、写本を「御判」・「在御判」と分けて考えていたようであるが、「御判」、「在御判」、「花押」 は同じ意味である。


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付  嘱

 釈迦如来は神力品で上行菩薩を上首とする四菩薩に妙法蓮華経を付嘱し、嘱累品で全ての菩薩に法華経を付嘱した。
前者を別付属、後者を総付嘱と名付けている。

大聖人の場合、『一期弘法付嘱書』を総付嘱、『身延山付嘱書』を別付属と呼んでいる。

地名から取って前者を『身延相承書』、後者を『池上相承書』とも言っている。

平成の新編御書は従来の付嘱地からとる呼び名にかえ、内容からの書名にしている。このほうが分り易い。

 『日蓮一期弘法付嘱書』は日興上人に宗祖一期の弘法を付嘱し、本門弘通の大導師と、富士山に本門寺戒壇の建立を命じたものであり、

 『身延山付嘱書』は釈尊五十年の説法を付属し、身延山久遠寺の別当(身延山の遺付)を識したものである。

 二書を要約すれば、

@ 日興上人が大導師であった

A 本門寺の戒壇建立を命じられた

B 久遠寺の院主(住職) であった

となり、この三点を論証すれば二つの相承書の成立が可能となり、富士門流の偽作とする彼等の主張は粉砕されることになると考える

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@ 日興上人が大導師であった

 日興上人が大導師を自覚され、吐露された文が『原殿御返事』にある。

 身延沢を罷出候事面目なさ、本意なさ申し尽くし難く侯へども、打還し案し候へば、いづくにても聖人の御義を相継進せて、他に立て候はん事こそ詮にて候へ。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候ぬ。日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当て覚候へば、本意忘るること無候。(歴全一−一七二)

 この書は正応元年十二月十六日の書状で、五老僧達が皆師匠の日蓮大聖人に敵対しているから、私日興一人が師匠の正義を継承して正法広布に尽力する覚悟であり、宗祖の本意を忘れることは無いと述べたものである。

 ここに日興・私のみが正法を弘通するという大導師意識がはっきりと表われている。

堀上人は 

「六人は年歳(とし)不揃であり乍ら、夫々の背景はあった。
日昭、日朗の鎌倉中心の武相の間に、日向の房総の野に、日頂の下総の北部に、日持の駿河の西方に、殊に日興上人は伊豆・駿河・甲斐・遠江果ては佐渡一円に其弟子・檀那が繁殖したので、年臈などは問題でない。
始終随逐の御修行と、不断の弘教と、門葉の盛大と、身延の深緑とで、六人の上に、厳然と頭角が顕はれているから、何処から見ても大聖の後継者であることは、既定の事実であつた」 (正宗教報、昭和十年九月号)

と記されており、説得ある文章である。

ほかにも類似した文献があるが省略する。

 日蓮大聖人は日目上人を代官として弘安四年、朝廷に申状を奏せしめ、翌五年、さらに日日上人に天奏を命じられた。
それは国主の力で法華経本門を流布したいとのお考えからであった。

伝教大師最澄が桓武天皇に庇護され、天台大師智���貞[渉襪竜�佑鮗�院�蝙「斑羚颪頬_攘个蝋C�阿泙辰拭�
法を広く弘める上に於いて国主の帰依は必要条件であり、大聖人は自ら度々国諌を試みられたけれども聞き入れられず、身延の深山に入られたが、けっして国主の帰依を諦められたわけでなかった。
代理として弟子を遣わされ、弘安五年には園城寺の『下文』を朝廷から賜わった。
この『下文』とは、朕 (天皇) が法華経を信ずることがあったら富士に求める、という内容のもので国主帰依の好機がおとずれたのである。
日目上人によってもたらされた『下文』を見て身延の深山では一同が歓声を上げられたであろう。

 三大秘法抄では戒壇について詳説されたが、建立地は未来のこととして特定されなかった。
しかし、ことここに来て国主帰依の期待がかすかに持てた今、日興上人が富士山に本門寺の戒壇建立をと宗祖に具申され、それを大聖人が許容されたのである(大聖人は富士山を実相寺での勉学中や南条兵衛七郎の墓参などで幾度となくご覧になられていた)。

富士山に戒壇を建立すべく総指揮を委任された人は、日興上人を置いて他にいない。

六門流中最大の教団であるだけでなく、教勢が富士にも及んでおり、師から最も親任の篤かった一人の日興上人が宗祖滅後の大導師となっても何の不思議もない。

 弟子の三位三順は日興上人から二代目の学頭識を任ぜられた人であるから、日興上人を熟知する一人である。
その日順の著書には日興上人を大導師と記述する文が各所にある。

  抑久遠の如来は首題を上行薩?に付嘱し、日蓮聖人の法門は日興上人に紹継し、紹継の法体は日澄和尚類聚す。(富要二−一六)

  日興上人は是日蓮聖人の付処、本門所伝の導師なり。稟承五人に超へ、紹継章安に並ぶ。所以は何ん。五老は同く天台の余流と号し、富山は直ちに地涌の春属と称す。章安は能く大師の通説を記し、興師は広く聖人の本懐を宣ぶ。
  昔智者の法を学するの人、一千余にして達すること章安に在り。今法華宗と呼ぶの族、数百輩にして得ること興師に帰す。(富要二ー二二)

  抑此の血脈は高祖聖人、弘安五年十月十一日の御記文、唯授一人の一人は日興上人にて御座候 (富要二−八四)。

 このように日興上人が大導師であったことは説明を要しない。

 また、『摧邪立正抄』には、

 抑大聖恭くも真筆に載する本尊、日興上人に授くる遺札には白蓮阿闇梨と云云。(富要二−五〇)

と記されている。

日興上人に授けた真筆本尊や遺札には白蓮阿闇梨と日興上人の名があったというが、現在では本尊に関して白蓮阿閣梨としたためたものは一幅もない。

嘉暦元年 (一三二六) の本尊盗難事件に被害がなく、『推邪立正抄』の著わされた正平五年 (一三五〇) にも本尊はあったが、天正九年 (一五八一) に武田勝頼に奪われて以来紛失したようである。S

(※ S 松本佐一郎著 「富士門徒の沿革と教義」69)
                 
 白蓮阿闇梨の名称に関する調査は山口師の論文 (21) に詳しいが、使用例は弘安五年十月八日の『宗祖御遷化記録』と『一期弘法付嘱書』と『身延山付嘱書』の三例のみである。

(※ 21 山口範道著 「日蓮正宗史の基礎的研究」45 )

この三例のうち遺札といえば二箇相承を指していることは言うまでもない。
そうだとすれば少なくとも祖滅七十九年まで相承書の存在が確認出来ることになる。

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A 本門寺の戒壇建立を命じられた

 文永十年五月二十八日の義浄房御書(22)が三大秘法の語句の初見であり、

(※22 新編 669)

翌十一年一月十四日の法華行者値難事(23)には本文でなく追伸の中に 「戒壇」 の語が見られる。

(※23 720)

又同五月二十四日の法華取要抄(24)や、

(※24 738)

建治二年七月二十一日の報恩抄(25)1036、建治三年三月二十一日の数行証御書(26)に戒壇の名目はあるが、詳しい説明がない。

(※26 「此の本門の戒の弘まらせ給はんには、必ず前代未聞の大瑞あるべし。所謂正嘉の地動、文永の長星是なるべし。抑当世の人々何れの宗々にか本門の本尊・戒壇等を弘通せる。仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず」 (平成新編御書二一〇頁)。

漸く弘安五年(27)四月八日の三大秘法抄に戒壇について具体的に述べられるようになった。

(※(27)山口範道師は「百六箇抄の下種本迹勝劣四十三条に「三箇の秘法建立の勝地は富士山」云云(日蓮正宗聖典三六七頁)と、最勝の地を富士山と指定されている。にもかかわらず、弘安五年四月八日の三大秘法抄に「最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」(聖三〇二) と仰せられて、未だ富士山とは明示されていない。
百六箇抄の写本には系年の無いものと、有るものとがあるが、この書を弘安三年一月に系けると「就中定六人遺弟」 の時期と、三大秘法抄の 「最勝の地を尋ねて」 の文に矛盾が出てくる。
このような矛盾のある百六箇抄を弘安三年一月に系けるには疑点があると思う。
したがって百六箇抄は後加文を切離し無年号として弘安五年十月八日以後に置くべきであろう」 (四六)

と述べられている。
しかし「白蓮阿闇梨」 のある後加文は祖滅百年頃の成立であるから百六箇抄の系年(成立)と切離して考えるべきであろう。
当然戒壇建立地の明されていない三大秘法抄は百六箇抄より早い成立になるわけで、三大秘法抄は日時上人の写本により大石寺では弘安五年四月八日としているので、百六箇抄はこれ以降の成立と考えるべきであろう。
ただし身延等では三大秘法抄を日親本によって弘安四年四月八日の成立としている。)


 戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閣浮提の人俄悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王、帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり。此の戒法立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき。(平成新編御書一五九五)


 ここでは霊山浄土に似た最勝の地に戒壇を建立すべきで、この戒法が立ってからは延暦寺の戒壇は理戒だから利益がないと述べられている。

 大聖人は三大秘法抄を著わされた御心中を 「予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲讒言を加ふ一べし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する間貴辺に対し書き遺し候」 (一五九五)

と述べられており、一期の御化導の中で三大秘法抄は重要な位置にあると言える。

 比叡山の迹門の理戒に対し、本門の事戒の殿堂建立は宗祖の出世の総上げであり、悲願であったと拝される。

それを日興上人に託されたのである。

 古くから三大秘法抄は他門では真偽未決、或いは偽撰の扱いをして来たが、近年特に立正大学の学者などのコンピューターを使っての研究によって真撰説が叫ばれるようになった。

叡山の理戒・迹門の戒に対し、事戒・本門戒の戒壇堂の建立を大聖人が末弟に委ねたことが漸く学問の分野で他門が認めだしたということである。

しかし彼等は信仰の分野ではけっして認めることが出来ないであろう。
それは本尊造乱・不確定によって宗祖の真の御精神を失って久しいからである。

宗祖の御精神に乘背(じょうはい)した大きな理由に戒壇堂建立否定が一番に挙げられるであろう。

 戒壇建立が日興上人の創唱でないことは先に論じたが、『富士一跡門徒存知事』には

■「最も此の御に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ」 

の文があるが、この 「奏聞」 という語に大きな意味がある。
仮にこの 「奏聞」 を日興上人の国諌とみた場合、日興上人の現在知れる三通の申状の中に 「本門寺建立」 の記述は見当たらない。
また日興上人の代理として天奏を試みた日日上人の申状にも 「本門寺」 の名称は見られない。

そうであるなら、日興上人が 「本門寺」 建立を国主に上奏したと解すべきでなく、日興上人が大聖人に富士山に本門寺を建立すべき旨を具体的に言上されたと理解出来るであろう。

 そのように解釈すれば大聖人が本門寺建立の御意志を持たれたことは明白なこととなる。
それだけでも三大秘法抄の真撰説は裏付けされるが、当初大聖人はいずれの国、いずれの処とも建立地を定められなかったことは御書にお示しの通りである。
しかし、のちに大聖人は日興上人の意を入れられ、日本第一の名山である富士山を本門寺建立の地と定められた。

本門寺建立は御存生の間に実現をみなかったので、日興上人に本門寺戒壇を御遺命とし残されたのが日蓮一期弘法付嘱書である。


※樋田 註  日蓮大聖人が戒壇建立を志向されたことは明白。では、その「戒壇建立」の責任者を定め、後事を託すのは必然。
六老の中で日興上人以外に、その後事を託された門弟がいたか?その明白な文証は?→全く無いのである。


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B 久遠寺の院主であった

 日興上人が身延山の住職であったことを示す文献は多い。

(弘安五年)十二月十一日の日円状に、

 ● 「まことに御きやうをちやうもんつかまつり候も、聖人の御事はさる御事にて候。それにわたらせ給候御ゆへとこそ
 ひとへに存候へ。よろづけさんに入り候て申べく候。」(宗全一−一九七)

と、日興上人の唱えるお経を聴聞して、日興上人の身延住山を喜んでいる。

 また、弘安八年一月四日の日円状に、

 ● 「はるのハしめの御よろこひかたかた申こめ候ぬ、さてハくをんしにほくゑきやうのひろまらせをハしまして候よし
 うけ給ハり候事めてたくよろこひ入て候。さて御わたり候事こしやう人の御わたり候とこそ思候ひし。(富要八−三)
  (錯簡訂正後の文)

と、日興上人が身延に入山されたことは大聖人が入山された事と同じであると思っていると喜んでいる

 また正応元年十二月五日の波木井清長誓状に、
                              
 ● 「もしみのぶさわを御いで候へばとて心がわりをもつかまつり(らず)候。おろ(か)にもおもひまいらせ(ず)候(富要八−一〇)

と、日興上人が身延離山される直前の自分達の心境を語っている。

 そのほかに正応二年正月二十一日の日円状には日興上人の身延離山の決心を翻すよう越前房に依頼した文がある。

また、日興上人が身延山の院主(住職) の地位にあったからこそ民部日向を学頭職に任免出来たのである。


 以上、見たように日興上人が宗祖御遷化の後、身延山の院主・大導師であったことは論ずるまでもない程明白である。

それを示すのが身延山相承書である。


 ところで日蓮宗では日位の『身延山久遠寺番帖事』(池上本)をもとに院主の一月交替の輪番を主張し、日興上人の院主を否定して来たが、漸くここに来て池上本を偽書とする見解が他門(28)からあがり始めた。

(※28 『日蓮教学の諸問題』所収・本間裕史 「日蓮聖人御遷化記録」考217 )

遅きに失したとはいえ勇気ある発言である。

池上本の偽書説は『富士学報』の創刊号に詳しいが、私としても稿を改めて論じておいた。

 西山本の 「定 墓所可守番帖事」は正本が西山に現存しているが、祖廟を輪番で守ることが四老僧の間で証印までして協議し決定しておりながら直弟は管理する気がなかったようである。
始めから無理な約束であったと指摘されるが、一年として守れない無責任ぶりである。

松本氏はこのへんを、輪番を皆で申合せておいて、其を実行しなかったといふのは僧としてあるまじき振舞で、若し鎌倉の仕事が忙しくて手放せないといふならば代人を立てても行ふべきものだ。其をしなかったのはしなかった丈の理由が有らう。行けば興師に対して弟子の礼をとらねばならぬ。其が煙ったかったのではあるまいか。ソンナ無道心な上人方だとは言ひたくないが、其では師匠の御墓を興師に任せっ放しにした無道心が責められることになる。(五八)

と述べられている。

 老僧方は全てを日興上人に押つけて頬被りしてしまった。

第一身延の住職を一月交替で当番制にすること自体有り得べくことでない。
まして六ケ月間は二人で院主を務めるというのだから話しにならない。
墓所の輪番はあっても院主の輪番などあるはずもなく、日興上人一人が院主として身延山に常駐していたのである。

松本氏が

興師付弟のことは五老に於て御存知有ったことは当然である。それだから身延を興師に任せっ放しにしてお墓参りをしなかったので延山の貫主が定まってゐなかったならば当然輪番で登ってゐたであらう。ただ興師が甲斐の人だったといふ理由だけで身延に在山せられうるものではない。付弟だから身延に居られ、又それだから五人が煙ったがって、教線の仕事にかこつけて登山しなかったのだ」 (七一)、

と指摘するのは正鵠を得ていると言うべきであろう。

そして、堀上人は日蓮宗の誤れる理由を、

● 身延山を興師に遺付せらるる事は、他の五老、又は一般の門中に、異説あるべき事でない。
其を彼是云為するは、自他ともに、当時代の認識不足の駄見である。
(中略)此は
第一に、興師の門葉の広大なる事を知らず、
第二には、行学日朝大成以前、即ち草創の身延の微弱なる事を知らず、
第三には、波木井実長は、南部の六男で、漸く山地の、波木井大野の地頭で、小身なりし事を知らぬ、
等から来たものである。(正宗教報・昭和十年十月号)

と、列記されている。


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日有上人

 日有上人には数多い聞書などに二箇相承に関する具体的な記述を見ることが出来ないが、『聞書拾遺』には、
                                   
 此ノ大石寺ハ高祖ヨリ以来于(レ)今仏法ノ付属不(レ)切レ 次第シテ候間得給ヘル人様ハ仏法世間ノ御沙汰、高祖ノ御時二少
  シモ不(レ)違ハ候。(歴全一−四二六)

とある。

宗祖大聖人より九世日有上人に至るまで仏法の付属が切れていないとは、宗祖より日興上人へ二箇相承のあったことが前提である。
これによって大石寺にも早くから二箇相承の写本があったことは想像に難くない


 日興門流には興門八箇本山があり、富士門流には富士五山と言われる大寺がある。

その富士五山とは上野大石寺・下条妙蓮寺・北山本門寺・西山本門寺・小泉久遠寺の五山である。
この五山はいずれも宗祖以来の血脈不断を説くが、大石寺と四山のそれとは意味が違っている。
大石寺の血脈とは宗祖以来の金口嫡々の相承、仏法の正統伝持を言うが、他の四山の場合は歴代住職の系譜を血脈というのである。
従って四山の場合、原点の宗祖から遠ざかってもその意味では血脈は血脈であり、軌道修正が容易でなく、北山・小泉などは早くから日蓮宗化して行った。

それに対し、大石寺は宗祖以来の唯授一人の付属によって仏法を相続して来たから、常に原点を見つめて教団を維持せんとし、宗祖の正意を伝承する唯一の教団として今日に誇れるのである。
全く他の四山とは血脈の意味が異なっている。
従って日有上人が

「高祖より以来今に仏法の付属切れず」

と言われるのは二箇相承を根本として、それ以来唯授一人の付属が伝持されていることを示しているのである。


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二箇相承の紛失

 群雄割拠する戦国時代、武田信玄は甲斐を本拠に積極的に戦いを進めていった。
永禄十二年、今川征伐の際、重須本門寺と上野大石寺は信玄によって火を放たれ、西山本門寺と下条妙蓮寺は信玄の高札によって災厄から免れることができた。
信玄の子・勝頼は天正元年、西山に保護状を与えるなどして理解を示すふうであった。
 特に天正九年三月十七日、西山日春が勝頼の印判をもって、勝頼の臣下・増山権右衛門、興国寺奉行、信者衆を伴って重須に押し寄せ、大聖人の御本尊・御書・法華経・二箇相承等を奪い取ったのである。
これらの重宝が横領先の西山にそのまま移管されれば紛失することはなかったのだが、甲州に山越えし、勝頼の管理下に置かれることになった。
 当時の重須の長は日殿であった。
日殿は保田日我の高弟で、小泉久遠寺の要職にあったが、日我とうまくいかず破門されて重須に移り、元亀三年、日出より重須を継承した。
 日殿は十日後、重宝を取り戻さんと、自ら出府した。
日殿自身は三月から十月中旬まで在府し、その間の三月二十八日は門中一同が団結して訴訟を試みたが、少しも取り上げられなかった。
また同年六月日殿は『申状』を奉行所に呈したがこれも無視された。
日殿の申状を要約すると左の如くである。

 1.武田勝頼公の印判をもとに寺域を没収されたが、上意を恐れる余り宝物を奪われてもどうしようもなかった。

 2.重須に二百五十年伝来したものを、不法に手に入れた他人(西山) の財物であると決めつけられた。

 3.彼の筆記によるものや、絵像・御遷化記録は重須になく、日代が授与したという裏書もない。

 4.八通の置状に重須本門寺授与の証拠はなく、二箇の相承・血脈の次第を日代に授与していない。

 5.日代は異流義を立てたから重須を追放された。

 6.それだから日秀の遺跡も継げなかった。

 7.重須は日妙に付属され、日代が証人となっている証拠がある。

 8.重須は日妙に授与されたのであり、今度の一件は国法違背の罪科で軽んずペきでなく、法門付属の義と混同してはならない。


 日殿の主張は日春にも向けられたものであり、日春がどのような理由づけをもって横奪に走ったか知れよう。

日殿は再び同月十三日、『申状』を奉行所に出して宝物返還を願ったが聞き届けられなかった。

 天正九年十月十三日、西山は宝物の一切を日春に附与せしむるという勝頼の偽状(29)を作って自山の正当化を謀ったのである。

(※29 富要8−174)

 日殿は事態が一向に好転しないので、天正十年一月一日、意を決して堂に龍り、宗祖の正御影の前に端座して宝物還住を祈願し、願が成就するまで断食すると誓い、ついに二月六日、憤死したのである。

しかし、日殿の願いも空しく、宝物は還ってこなかった。
日殿、五十七歳の時である。
目殿の死により日出が八十八歳の高齢であったが再任した。

 天正十年二月末、織田信長が勝頼を征伐するに及び、徳川家康は武田追討に加わり、北山に陣屋を張った。
三月十一日、武田勝頼は一族と共に天目山麓に亡びたのである。

 北山の伝承によれば家康の家臣・大久保新十郎が武運長久の祈祷を日出に依頼し、日出は宗祖御直筆の御本尊を陣中守護に献じたことにより、家康は交戦中鉄砲の難を逃れる事ができたという。
更に五月、家康が帰陣の途中、前の御本尊を返すために北山に立ち寄ることになり、日出は対面する機会を得た。
このとき日出は重宝紛失の顛末、日殿憤死を詳しく語り、重宝返還の取り計らいを請うたという。
このことが後に効を奏するのである。

 日春にすれば頼みの綱であった勝頼の死は衝撃であつた。
次に日春の打った手は徳川家の管理する宝物を買い取る算段である。

 天正十年十月十五日、日春は甲府の総檀方衆に書を送った。

 熊以(二)使僧(一)令(レ)申候。仍自(二)去年(一)已来各々御苦労被(レ)成、我等も苦労致候。書物之代金五百両之高辻(金額)にて当月七日請取申候。誠にちふんもなくして過分之請乞を致候事定各々れうしの様二可(二)思召(一)候へ共、自(二)重須(一)は此高辻よりもましても請取たがり候つれ共、三聖様之御内証にても候歟。此方を本作ひいき二被(レ)存候て此方へ渡被(レ)申候、外分実儀一日成共本望之至令(レ)存候へ。重須にてハ無念かり、うちわにて会式にもけんくわ口論さまさま致候由二被(レ)存候。扨てニケ之御相承・額・八通之御遣状ハいまたいて申さす候へ共、是ハ堅ク本作いたすへきの領掌にて候。此方之望ハ此三通にて候へ共、のこりの書物を我等うけとり申さす候へハ三通之儀もいてたり共、此方へハいたすましきの由候間、三通をうけとらんためにのこり之書物をうけとり申候。言にものらさる御筆共候。即時二其元へももち候て各々二おかませ申度候へ共、其元之様体をも不(レ)存候間、まづまづ以(二)使僧(一)申計候。恐々
      十月十五日                                       目春花押
  甲府 惣御檀方衆 参                                  (諸記録四−二一)


 この文からすると日春の横奪の目的は二箇相承・額・八通の遺状を手に入れることであったことがわかる。
西山日春は勝頼の所持していた重宝を自山の所有物にするため五百両の金を檀方衆に無心し、十月七日に金を落手した。
日春は檀方衆にぶしつけで礼を失したと言い乍ら、重須は五百両に上乗せしても受取りたがっていると言っている、また、徳川家康の家臣、本多作左衛門が西山を贔屓し、宝物の引渡しの約束を取り付けたことも記している。
一方の重須に対しては、重須は無念がり、内輪でお会式にも喧嘩口論さまざましたであろうと述べている。

「ニケ之御相承・額・八通之御遣状ハいまだいで申さず候へ共、是ハ堅ク本作いだすべきの領掌にて候」

との文を見ると二箇相承は徳川家の管理下に置かれて散逸は免れたようである。
日春は逸早い三通の入手を望んだが、本田作左衛門をその気にさせるまでには至らなかった。

 天正十年十月二十八目、本多作左衛門 (重次) は書を日春に送った。

  今度大乱に就き日蓮の御筆拙者改め出し申し候処、黄金五百両の御礼として下され候はんとの御兼約候つる処、末代のために候間五百両の金を取り申さず候、彼の日蓮の御筆新きしんとして永く進せ置き候、是を以ていよいよごん経をも御無沙汰無き様に仰せ付けられ候て然るべく候。彼の御筆どもに若し横合の者御座候とも拙者進し置き申す上は違乱少しも御座有るまじく候、右の旨駿甲の御檀方之仰せふれられ候べく候。仍て置状件の如し。
    天正十年午年拾月二十八日        本田作左衛門判
    本門寺日春上人様                             (富要八−一七四)

 宝物返還にともない、お礼として五百両の受け渡しの兼約があったが、本多作左衛門は突如としてそれを辞退し、無賞で西山に寄進した。
宝物返還の中に三通がなかったことが無賞ということになった一因でもあろう。
かくて日春の一番ほしかった三通は西山に戻らなかった。

 ところで、二箇相承紛失に関する妙本寺の古記には、

 織田信長、徳川三河守家康、今川氏真、其外北条氏政、関西東国信甲駿遠乱入し、武田勝頼壬午年三月滅亡し、西山
 荷担の大竜寺・小山田備中守是も西山贔負なり。是皆滅亡し、其外武田一家中悉皆滅亡なり。共時御大事紛失せり。
 然る処に甲州商人岡田宇賀右衛門と云ふ者不思議に御大事を過半警固し奉り乱中に駿州に越山す。(富要九−二四)

とあり、岡田宇賀右衛門が三月の戦乱中に警固して駿府に持ち出したと記してある。
これは事実であるか、ないか分からない。

 その後、資料はないが、自山の宝物を徳川家の力を借りて西山から戻そうと運動したにちがいない。
家康が戦乱の時代、かって北山に陣屋を張った経緯から家康に接触する機会を得た。
天正十年十一月には、家康は駿河の奉行であったが、日出の請により井手甚之助に命じて重須に用水堀を造らせた。

 重須日出の懸命な働きかけが効を奏し、十二月二日、徳川家康は本多弥八郎に命じ、西山を没収地とし宝物を重須に返さしめた。
更にニケ月後、平岡岡右衛門に命じ残りの宝物を返還させて一応の決着をみたのである。

しかし、苦労して戻した宝物の中に二箇相承はなかった。

筆者不明の妙本寺古記には

「興門廃失の悪鬼入其身は彼目春に非ずや、後代の為に之を記す」 (富要九−二四) 

と残している。

あるいはこのまま紛失したのであろう。

 ところが、駿府政事録の慶長十六年二月十五日の項には、
                                  
 今晩富士本門寺校割(重宝の意)ニケノ相承(日蓮筆)後藤少三郎備(二)御覧(一)二。(諸記録四−三二)

とある。

天正十一年から約三十年をへて、家康は二箇相承を拝したのである。

これには「日蓮筆」とあるが、重須で一度失った正本を見ることが出来たのであろうか。

 また、『古老茶話』にも『駿府政治録』と同様の記事がある。

 また、崇伝(本光国師)が公儀の写した二箇相承を道春(林羅山)から得たことを記した日記の末文に、

 右之両本文在(二)公儀(一)写二通、慶長十六亥十二月十九日 道春より得(レ)之、写留也。(大日本史料第十二編之九−一三〇)

とあり、家康のもとにあったことを窺知させる。

その後、二箇相承は久能山讃妙院にありと伝えられるに致った(諸記録四部附記) が、いまだに発見されてない。

 二箇相承は武田勝頼の滅亡と共に散失したか、或はそれが家康のもとに届けられて途中で散失したか、どちらかであろうが、いつか発見出来ることに夢を託したい。


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他門の偽書説

 日現の 『五人所破抄斥』に、
          
 御判形現前也。去レトモ一向非(二)ス 御正筆(一)二、偽書謀判也、又非(二)ス 日興ノ手跡(一)ニモ、蔵人阿闇梨日代ト云フ人ノ筆二似タリト 承リ及フ也。若御付弟状於(二)テ必定(一)者何ソ六老・中老・下輩可(レ)キ無(二)カル御存知(一)耶。(宗全七−一八二)

とある。

日現は越後本成寺の八代住職である。
当時、日教本同様、日現の写本のような粗雑本が広まっていたのであろう。

松本氏は

 実物を見ないで「承及」だけで言ってゐる史料に大きな権威はない。一向正筆でないと言ひ乍ら現師は何時どこで
 これを見たとは断ってゐない。富士の風儀として他門の人にたやすくこれを見せる筈は無いから、現師の説は又聞
 の上に立ったものだろう。師の引用した本も例の波木井山中云々とある誤写本で、こんな本に立脚しては正しい判
 断ができるものではない。(七一)

と言われ、

「試論二箇相承書」 は

 日現はこの時現物を調査していないか、筆跡を鑑定する能力を著しく欠いていたか、あるいはその双方であろう。
 日代の偽作を匂わせるに当り、伝聞情報を挿し挟むなど、到底冷静な観察とは言い難く、「五人所破抄斥」を根拠に
 捉えた偽書説は、全て存立基盤を失うであろう。百歩譲って両相承書が他筆だったとする。そもそも日現の前提に
 は聖人の著作が全て自筆でなければならないとの思い込みが働いているようたが、暴論である。(一七)

と、一歩進んで述べている。

日現は花押も疑っているが、日現のみたものは粗雑本の一つであり、花押も宗祖のものであるはずがない。
正本、又は臨写本を見ていないのである。
                                    
 そのほか他門からの疑義として、

「もし興師を嫡弟であり、付法の弟子であるとするならば付法(30)は既に九月に行はれているのであるから不次第とする必要はない」、故に興師は嫡弟付法の人ではない、  といい、(※ 30 日蓮宗宗務院 「創価学会批判」 三一頁・昭和三十年七月刊)

また、大石寺四代導師の「三師伝」にも伝えていないから偽書(31)であると言っている。

(※ 日蓮宗辞典 294)

しかし、松本氏はこの二つの疑難に対し明確に反論している。(32)

(※ 32 富士門徒の沿革と教義二九頁・六ニ頁。
「不次第」とは順序が一定していないということだから、血脈を度外視した序列とも解釈できる。ここでは大老僧の制定を記述したまでで付嘱まで筆が及んでいない。
御伝土代に二箇相承のことがないから、相承がないとすれば、御伝土代に記述されていない三師の史実は全て無かったということになってしまう。道師が興師の相承を書き留めなかっただけであると考える。


 

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