「正信覚醒運動の原点とその使命」

 

静岡県応身寺  荻原昭謙 師

 

正信覚醒運動は末法衆生の成道を願い、

                        社会の安寧を祈る崇高な信仰活動

 


 本日は、宗教法人正信会法華講全国大会が、ここ尾張法難の地において「法燈の継承を」をテーマに、かくも盛大に開催されましたこと、誠におめでとうございます。

 私は静岡県藤枝市・応身寺の荻原昭謙と申します。大会実行委員会より「正信覚醒運動の原点とその使命」についてお話をするように求められましたので、講演などとおこがましい、誠に拙い話しかできませんが、私の所感を述べさせていただきます。

 私は「宗風の刷新と創価学会の謗法問題の徹底追及」を願って興された正信覚醒運動に当初より参画し、昭和55年8月、東京武道館で第5回檀徒大会を主催したことを理由に、詐称法主の阿部師より擯斥に処された擯斥第1号の一人であり、当初より正信覚醒運動に携わってまいりました一人として表題についてお話をさせていただきます。

 「激動の昭和」と言われますが、ご存じのように正信覚醒運動は、その昭和50年代に興りました。悲惨な戦争の復興から高度経済成長に移行していった昭和20年代後半から40年代の日本。そのような時代に、末法の教主日蓮大聖人の仏法を継承する日蓮正宗(富士日興門流)は、信徒団体創価学会の激しい折伏闘争によって、急激な発展を見ることになります。

 私も日蓮正宗の一僧侶として、そのような時の流れの中にありました。

 富士日興門流は、御開山日興上人の時代には、日蓮門下の中でも有力な存在でありましたが、中世から近代までは時を得ることなく、創価学会が信徒団体となって日蓮正宗が世間的に注目されるようになるまで、他門に比すれば弱小教団的存在でありました。その教団が、信教の自由を迎えた時代の背景と創価学会の力で急激に膨脹いたしました。寺院も僧侶も少ない宗門は、昼夜不休の多忙を極めることになりました。

 そうなりますと、法務に追われ、僧侶としての大事な修行や修学も疎かになり「会員の指導は創価学会で! 御僧侶方は御授戒や葬儀、法務の執行を!」という学会との合意もあって、信徒や学会員に対する教化も次第に等閑になっていきました。そればかりか、永く伝承されてきた日興門流の法義信仰よりも、学会的な思想・信仰や教学が宗門に影響を与えることになり、学会の教学や信仰そのものが、日蓮正宗の法義信仰と見なされるようになっていったのであります。

 創価学会の特徴は、徹底的な排他独善、その上に罰と功徳の極端な現世利益の追求、会長へのカリスマ信仰、全体主義と見まがう組織至上主義、権力奪取のため選挙活動への狂気的な関与等であります。

 敗戦による精神的支柱の崩壊や貧困、病気等、現実のさまざまな苦悩に対し、僧侶の説く法門よりも単純明快な在家の強引な折伏と御利益信仰に、高度経済成長期とも相侯って、大いに折伏の成果を上げていきます。更には地方から都会への人口移動、ライフスタイルの変化や、家族形態の変化も寄与していたようにも思います。

 何よりも、700年の伝統ある総本山大石寺。杉の巨木が鬱蒼として、今日の大石寺にはその面影さえ見られませんが、明治の作家大町桂月をして「大石寺を見ずして寺を語ることなかれ」とまで言わしめた荘厳、清浄なる聖地。

 「創価学会は新興宗教じゃありません。700年の伝統ある日蓮大聖人の唯一正統の仏法です。百聞は一見に如かず、本門戒壇の大御本尊まします総本山に登山致しましょう!」。このキャッチフレーズも大いに学会を利して、創価学会に入会という形で入信する人々が爆発的に急増していきました。

 全国に新しい寺院が続々と建立され、僧侶も次々と得度養成される事態になっていきますが、同時に経済の発展から余裕や慢心が生じ、僧侶にも堕落・退廃の風潮が出てまいりました。そして宗門本来の法義・信仰よりも創価学会に媚び諂い、学会のあり方に迎合するような僧侶も出てきました。その代表的存在が、のちに相承を詐称して法主の座を奪った阿部師であり、宗務役僧方も然りであります。阿部師に至っては「池田先生の社会に開かれた教学は完璧です」などとお追従していたのであります。実に嘆かわしいことですが、このような姿勢は宗務役僧ばかりではなく、宗内のそこかしこに見られ、「学会と上手くやっていく」という姿が、宗内に蔓延していたのであります。

 というのも、昭和27年に学会が宗教法人を取得する当初から反対僧侶の吊し上げがあり、唱和47年の正本堂落成まで宗門と学会は時にぶつかったり、協調したりという関係でありました。その間、学会と対立したり、学会に睨まれた僧侶が吊し上げを受けたり、宗門から追い出されたり、自ら宗門を離脱する事件が数件発生しました。

 やがて、ノンポリを決め込む僧侶も多くなり、学会の方針や活動について「おかしい、間違っている。それは謗法だ」と思っても、口に出すのは憚られるようになっていきました。「僧侶として安穏に日々が送れれば、それでよい」というような風潮が宗内に蔓延していきました。

 そのような時の流れの中に、池田氏の天下取り、公明党の政教一致の実態が国立戒壇論をめぐって、共産党によって国会で取りざたされる問題が起きました。

 この批判をかわし、同時に池田氏によって「広宣流布は既に達成された」との欺瞞のシンボルとして、本門の戒壇の大御本尊安置のための正本堂建立という大事業が、創価学会宗門全僧俗一丸となって進められました。学会はその御供養の集金力により、勢力を大きく社会に誇示する結果となり、勢いに乗り慢心を極めた池田氏は弥々時来たれり”とばかりに、「宗門を支配下に従属させるか、分離独立か」という予てよりの野望を行動に移します。

 昭和47年正本堂落慶の頃から、法主よりも自分が上だ″という無礼な態度を事あるごとに示し、宗内のあらゆることに干渉し、池田氏の意向が更に宗内を覆ってまいりました。そしてついに野望実現の手段として、「日蓮正宗インターナショナル構想」を打ち出して来ました。

 宗門を支配下に置くことの実現を図りながら、一方では目的が頓挫したときには宗門から独立することも画策していたのであります。池田氏の創価王国構想には、どうしても宗門は目の上のタンコブのようなものだったのであります。

 学会は元来、「学会組織の拡大そのもの」が最大の目的であり、池田氏をカリスマ化したのも本音は学会組織をもって創価王国構築のため、名聞名利のため。そのためには宗祖の教義を改変しようが、世間法に反しようが、恬として恥じないのが池田氏であります。

 「池田先生は現代の主師親の三徳を備えていらっしゃる。現代における大聖人様である。人間革命は現代の御書である」と、平然と大幹部に指導させ、洗脳して現代の御本仏に成り済ます。

 また「本尊流布することが広宣流布だ。手段を選ぶ必要はない。御本尊さえ持たせれば本人のためになるんだからそれでよし」、「公明党の選挙活動は王仏冥合のため、仏意仏勅である。一票獲得に功徳がある」等、所詮学会にとっては、宗祖の教えも教団組織に都合のいいように利用し、宗門も利用する手段にしか過ぎなかったのであります。

 昭和52年正月、池田氏は「仏教史観を語る」という新年の講演で野望を剥き出し、宗門に挑んでまいりました。「宗門を従属し支配下に持ち込めるか、分離独立か」。のちに言われる「昭和52年創価路線」であります。

 同時に学会は、宗門僧侶への恫喝、吊し上げという蛮行を展開しました。

 しかし、この事件をきっかけとして、今ままで宗門の姿勢、創価学会の姿に大いに義憤を覚え、熱い念いを抱きながらも忍んで来た若い僧侶たちの中から、「今こそ学会の邪義、謗法を糾そう」「宗開両祖の教え、法義と信仰を護ろう」という声が、燎原の火のどとく燃え広がっていきました。この念い、この護法の声こそ正信覚醒運動の原点であり、理念と目的となっていく「宗風の刷新」、「祖道の恢復」の原点であります。

 「宗風の刷新」。40年前、法友と熱く語り、誓い合った事を、今に決して忘れることはありません。

 私が断じて「宗風の刷新」を叫ばなければと覚悟しましたのは、運動を進めるためにある時は法友と連れ立って、ある時は一人で先輩僧侶、御老僧方を訪ね、「こんな宗門でいいのですか! 学会を一緒に糾して行きましょう!」と訴えますと、「二度と芋ばかりの生活はご免だ!」「長い物には巻かれろって言うじやないか!」という言葉が返ってきます。極めつけは、阿部師に至っては学会を庇って「本山の燈燭を護ってくれているのは創価学会であり、池田先生です」と臆面もなく言い放つ始末です。「仏法よりも経済である」と言明したのであります。

 私は同志・法友の皆さんと、如何なる処分、如何なる事態になろうとも一蓮托生の誓いのもと「宗風の刷新」を叫んだのであります。現在残念ながら袂を分かった古川・田村グループのように、「日蓮正宗を護り、日達上人の時代に帰すのが正信覚醒運動である」との考えには断じて与み致しません。なぜならば、正信覚醒運動は日達上人によって興されたものではないからです。

 第一、刷新しなければならない宗風こそ、近代宗門のそのものであるからであります。正信覚醒運動は、日蓮正宗という教団組織を護るものではなく、僧侶の思い通りになる宗門を取り戻すためのものでもありません。偏に宗開両祖の法義と信仰を護る運動、御信徒の成仏への道を護る運動だと考えるからであります。

 次に、私は「祖道の恢復」こそ正信覚醒運動の使命と堅く信じて止みません。「祖道の恢復」とは、創価学会と二人三脚で歩んで来た近代宗門や、富士日興門流の永い歴史の中で、さまざまな出来事や門流教学などによって派生した宗開両祖の教えでないもの、また失われてしまったかもしれない御法門等、伝燈法門と言われるものも検証し直して、真実の日蓮大聖人・日興上人の教義、信仰を取り戻すことだと思っています。

 私は正信覚醒運動こそ、富士日興門流再興の道だと堅く信じております。運動のきっかけは「宗門の宗風の刷新」「創価学会の詩法の是正」であったかも知れませんが、やがて運動を通じて、単なる学会批判、宗門批判ではなく、富士日興門流本来の法義と信仰を求める道を歩むことになりました。これは大変有難いこと、素晴らしいことだと思っています。祖道の恢復を願行するのは、今申したように「正しい宗開両祖の教えを求め、富士日興門流の法燈を正しく継承したい」という念いに尽きるのであります。

 同じく運動に励んで来たと思っていた古川・由村グループの僧侶たちとは、出発点から違っていたのでしょうか。日達上人の時代の宗門を全肯定して、「何も足さない、何も引かない」等と愚かなことを平然と主張していますが、この言葉からは求道という仏法の本来あるべき姿が見えません。

 更にあの時代の全てが肯定されるのなら、取りも直さず「宗風の刷新」も全く不要であり求めていなかったということになります。そこには、私の理解する「正信覚醒運動の原点」など全く見ることができません。

 「宗風の刷新と祖道の恢復」を否定し、放棄して、いったい如何なることをもって正信覚醒運動というのでありましょうか。

 彼らは正信覚醒運動を創価学会問題に限定し、法主を詐称して自分たちを擯斥に処した阿部師の非道は非難するが、「大石寺安置の戒壇板本尊一体のみが大聖人出世の本懐、大聖人の御当体、功徳の電源・発電所である。我らは英邁な法主の出現を待つ」という主張のようで、宗門と全く同様に「法人正信会は本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈を否定している。戒壇本尊と唯授一人の血脈は大聖人の教義の根本、絶対だ」と叫んでいるようですが、ならば先ず戒壇の本尊と称する板本尊一体のみを功徳の電源、全ての御本尊の頂点とランク付けする道理と文証を示していただきたい。更にその御本尊、教義裁定の全ての権能が唯授一人と称する血脈相承の法主にあるとする、このような御法門を宗開両祖はどこに、どのようにお示し下されておられるのか、その道理と文証を示した後、大いに論議しようではありませんか。

 富士日興門流の原点は日興上人身延離山の御精神にあります。「聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候わん事こそ詮にて候え」と、血涙の中に御聖地を離れ、「富士の立義聯も先師の御弘通に違せざる事」と、富士に大聖人の仏法を奠定されましたりこのことは、飽くまでも「御書と大聖人の御振舞いを根本とする」という教義、法門立てであります。

 この日興上人身延離山の御精神とその富士の立義の法燈を継承していくならば、宗開両祖がどこにも仰せでない教義を造り出してまで、富士門流の唯一正統を他門に誇示し競う必要など全くないのであります。

 今日、同じ正信覚醒運動と称しながら、別々の道を歩んでいらっしゃる御僧侶方にも、再び「宗開両祖の祖道の恢復」「聖人の御義に生きる」正信覚醒運動の道を、共に歩んでいただきたいと願って止みません。

 正信覚醒運動は、日蓮大聖人の仏法を護り、富士日興門流の法燈継承を願うものであり、末法の衆生の成道を願い、社会の安寧を祈る崇高な信仰活動であります。

 私たちは日蓮大聖人の弟子、日興上人の遺弟として、法義の研鐸や信行の練磨、法燈継承とその道場の建立、護持など、一つひとつに真撃に取り組み、「聖人の御義に生きぬかん」ことを共に求め、本日大会第一部で放映されました尾張法難の先達方の信心に学び、富士日興門流の法燈継承を誓い、共々に精進してまいろうではありませんか。

 最後に『立正安国論』の「弟子一仏の子と生まれて諸経の王に事う、何ぞ仏法の衰微するを見て心情の哀惜を起こさざらんや」、この御金言を我が身、我が胸に再確認いたしまして、お話を終わらせていただきます。

 皆さま、いよいよ御身を大切になさって御精進あらんことをお祈り申し上げます。

 御清聴誠に有難うどざいました。

 

 

 

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