道郷論争と大石寺東坊地の係争

 


坂井法曄



 
目 次


 はじめに
一章 道郷論争
 
@諸文献の検討
 
A日道の六箇/十箇謗法について
  ・建武二年の動き
 
B鎌倉期の大石寺と日目の弟子達
  ・民部阿闍梨日盛
  ・宰相阿闍梨日郷
 
C伯耆阿闍梨日道
  ・西坊地について
  ・日道と日郷の接点
 
D日郷と安房国
 小結

二章 大石寺東坊地の係争
 
@係争前夜――南条氏一門の動向――
 A南条氏の退出と日郷の入寂
 
B係争の幕開け
 
C大石寺御影堂と奥州の勢力――日時と奥州・下野との関係――
 D日伝の退出
 
E係争のあと
むすび

東坊地係争関連略年表

 


 

はじめに


 タイトルの一つに掲げた大石寺東坊地の係争とは、卿阿闍梨日行(〜
1369)と中納言阿闍梨日賢(13391416、後に日伝と改名)によって開始された相論で、現存文書では、文和四年(1354425日の「大石寺蓮蔵坊搦沁磨vにその痕跡が認められ、貞治4年(1365)の「沙弥法西去状」によって表面化してくる。その後、相論は日行の後嗣日時に引き継がれ、応永12年(1416)、日時が地頭興津氏より去状を受け、日伝が大石寺東坊地を退くまでの長期に亘り続けられたのである。結果、大石寺は創建後はじめて門下が分裂することになった。
 いっぽう了玄院日精(
16001683)は、その著『富士門家中見聞抄』において、相論に先だち、日行・日伝のそれぞれの師である日道と日郷との間に、日目の後継者をめぐる対立――道郷論争――があったといい、大石寺の坊地についても、日道と日郷によって争われたと述べている。後述するように、この日精の説は、あまりにも出来すぎた、にわかに信用しがたい記述であるが、近現代の巻物に見られる「道郷論争」に関する記述を通読すれば、日精説が多大な影響を及ぼしていると判断されるのであって、その再検討は避けることができない。
 それにしても、考察対象の文書が伝わる「東坊地の係争」にひきかえ、「道郷論争」については、正直のところ、その実体がつかめない。それは何よりも、当事者である日道・日郷の自筆文書からは、論争の痕跡を見いだすことができないのであって、はたして「道郷論争」なるものが、実際に存在したのかどうかということさえ、ひとたびは疑ってみる必要があろうかと思う。よって、本稿では日蓮門下に定着している道郷論争について、その存在自体を批判的視野から捉え、再考してみたい。
 なお、本論に入る前に自制の意味も含め、あえて記しておくが、日道・日郷門下における、その研究史を通観するに、必ずといってよいほど、その支障を来してきたのが、いわゆる自門の正当・正嫡意識である。換言すれば道郷論争の研究史とは、門閥意識から生じた感情論の繰り返しであり、いつしか日道と日郷の思想・事蹟を再考するというよりは、末裔による正嫡論争に変質していったように思われる。
 「道郷論争」はもとより、その延長といわれる 「大石寺東坊地の係争」についても、東坊地側の日賢門下(現、安房抄本寺)は 「日日ー日郷ー日賢〈伝)」 の系譜を、対する西坊地側の日行門下(現、上野大石寺)は、「日目ー日道一日行」 の系譜を正嫡とした上での考察をし、その結果が語られてきた。
 しかし、そのような門閥意識を前提においた考察であれば、考察者の属する門派に有利な結論が導き出されるのは当然のことであり、あとはその正当性をいかに立証するかのみが問われよう。そのような意識が研究者にあったならば、結論は既に出されたも同じで、再考の必要はないと思われる。
 本稿においては、そうした門閥意識から離れ、当時の状況を把握した上で、現存文書を冷静かつ公平に判断して行きたい。

 

 

1章 道郷論争


 前述のとおり、日道・日郷の自筆文書からは、両者間に論争があったという痕跡は全くみられない。ただし、現在の日蓮門下においては、日道と日郷との間に論争があったという固定観念があり、その前提のもとに 「道郷論争」 について、次のようなイメージが持たれ、認識和されているのも事実である。


日興寂し、日目遺命をうけて上洛天奏せんとするに及び、日道を大石寺の留守役とし、日尊・日郷を伴として上洛、途中病を得て濃州垂井宿で遷化した。日尊は日目の意志をつぎ、日郷と共に上洛天奏の大任を果たしたのであるが、日尊はそのまま京都に止まり諸方に遊化し、日郷は富士に帰り日目の遷化と、上洛を終えた旨を報じ、更に日目入滅にのぞんで大石寺後董を付与せられたことを大衆に告げたので一山俄かに騒擾し、日道と日郷の間に継承の問題を回って確執を生ずるに至った。争うこと
3年、延元元年 (建武3年、1336) 日道大石寺を継ぎ、日郷は逐われて房州に赴き吉浜中谷の法華寺に退いた。
 

当文は 『日蓮教団全史・上』176頁に記すところの「道郷論争」であるが、多少のアレンジは加えてあるものの、これは全く了玄日精の著『富士門家中見聞抄』所収「日道伝」 を踏襲したものであり、事実とは反する。『教団全史』はこれに続けて、日目から日道への血脈相承を記す日精の説は否定しているが、道郷論争については、なんら検討を加えていない。しかしこれは『教団全史』 のみならず、ひとしく近現代の書物に記されるところであって、このイメージは拭いがたいものがある。
 そこで、まずは道郷論争に関する古今の諸説を整理検討してみることにしよう。

 

 

@諸文献の検討


 本稿を記すにあたり、披見した文献は次のとおりである。
『日睿縁起』 (二本あり)
『申状見聞私』 日我
『日道六箇条謗法事』
『祖師伝』 広蔵日辰
『日前他連署書状案』
『久妙両山並定善寺由来書』
『本宗史綱』 富谷日震
『大石寺久遠寺問答事』 本乗寺日会
『当門徒前後案内置文』 日我
『要郷興目師縁起』
『富士門家中見聞抄』 了玄日精
『富士諸寺佛法邪正記録』
『富士日興上人詳伝』 堀日亨
『興門教学の研究』 執行海秀
「寺僧の活躍による寺院の成立についてー大石寺を中心にー」 佐藤行信(『高僧伝の研究』所収)
『富士日興門下分裂略史』 松井孝純
『日蓮教団全史上』 日蓮教学研究所編
「日郷上人の研究」 石橋頂道他 (『学衆』 三号)
『日向開山日睿上人縁起考察』黒木英光 (私家製)
『富士門徒の沿革と教菰』 松本佐一郎
『日蓮宗事典』日郷・日道の項
「道郷論争について」 近藤済道〈『和党』
37
「東坊地をめぐる七十二年の系争」 高橋粛道(『道心』十六号)
 これらの諸文献の伝える道郷論争や大石寺東坊地の係争の内訳は多様であるが、おおよそ次のように整理されよう。

    A 日目の継承者をめぐる対立
  
B 日目・地頭南条家との俗縁関係の有無による対立
  
大石寺坊地をめぐる係争
  
D 日道の六箇・十箇の謗法による対立


 
A の日目の継承者をめぐる対立については『家中抄』『要郷興目師縁起』『富士諸寺仏法邪正記録』『久妙両山並定善寺由来寄』『本宗史綱』『衛士門下分裂略史』『日蓮教団全史』『興門教学の研究』『日蓮宗事典』の記すところであり、もっとも現代に定着した「道郷論争」のイメージといえよう、先述したとおり、これは日精の『家中抄』の影響が極めて強いと判断される。その内容は、前掲した『日蓮教団全史』と重複するが『家中抄』の日精説は、所規の根源となっているので改めて掲げておく。


日道ヲ移大石寺、御本尊御骨并御筆ノ御書等ヲ令守護。日目為天奏上洛シ玉フ於濃州垂井宿御遷化也。日郷者取御骨懸頸上京都奉納東山鳥辺野、帰富士居蓮蔵坊集衆徒告云、日目上人去ル十一月十五日於美濃国垂井御遷化也。依之大衆悲嘆幾許ソ乎。衣更著初興師御入滅、冬至今目師遷化、法威彌衰紅涙未乾。日郷云、目師御臨終ノ時、以大石寺某ニ付嘱シ玉フ云云。依之衆義區ニシテ而難一結、故日道与日郷、従建武元至延元三年、三年ノ間互為対論、両方各鳴貝鐘其間有三度対決。雖因為理非顕然被付道理於日道、而追放日郷等、不被置寺中而静寺中之乱逆畢


 この日精説の誤謬については追々述べていくこととして、ここでは『要郷興日脚縁起』と『久妙両山並定善寺由来寄』の記述について、若干触れておきたい。大石寺の所伝では、日目が天奏の供として従えたのは、日郷と日尊の両名といわれるが、日我の『申状見聞私』を取材に書き上げられたと思われる 『要郷興目節縁起』では、日郷を留守居とし、日道と日尊が随伴者だったと記している。しかも日目はすでに日郷に血脈を付嘱をしていたといい、日道が帰山後にこれを不服として、日郷と争ったというのである。なお日郷の留守居説は、日郷門下の所伝であったようで、『大石寺久遠寺問答事』『富士諸寺仏法邪正記録』『興門雑記』所収の妙本寺文書にも見られるから、むしろ日郷の留守居説の方が先行しており、日道留守居説は、日精が『祖師伝』の記述を敷衍して唱え始めたのではなかろうか。
 いっぽう『久妙両山並定善寺由来書』では、日目の天奏には触れず、「日目上人ヨリ日郷上人江御譲候所、日道卜申人御坊地相論有之」と記し、さらにその坊他の相論では、日道が地頭興津氏や守護今川氏を引き寄せたため、日郷は小泉に退いたと述べている。


 次に
B の日目・地頭南条家との俗縁関係の有無による対立について。これを記述するのは『家中抄』『興門雑記』『富士日興門下分裂略史』『日蓮教団全史』『日蓮宗事典』で、やはり日精の『家中抄』の影響が大きい。日精の説は、後述する「日道六箇条謗法事」に対する反論の形で記されているが、これがまた、いかにもそれらしく記されており、日郷門下による批判対象としては格好の材料となった。


日目遺跡付嘱日道道理非一。其故ハ新六人初日代者日興付処居住重須。日澄ハ先テ而逝去、日道是次第ノ法将也。勲功可重。学解亦勝故、是一。日道者目師甥南条時光養子性相近。最堪為付嘱。況日道ハ目師直弟、日郷ハ伊賀阿闍梨日世ノ弟子而目師孫弟子也。是故目師常ノ持言ニ云、此栗者イカノ中ヨリホリ出卜庸常御出言アリキ日代遺状ノ内、付処卜云ヘル以例知之、是二。日道ハ時光後室妙法養子也。上野南条棟内也。何閣有縁日道、可被付嘱無線日郷、是三。亦次付嘱之状無之云事、亦以無謂。右譲状新田ノ坊地ヲ日道ニ譲与卜者、下之坊事也。上新田講所タルヘシトハ大石寺ノ紳所タルヘシト(以下略)

 

 日精の頃には、大石寺における血脈の系譜――唯授一人血脈相承は、絶対的なものとして存在していたから、日郷門下における「日目−日道」の系譜批判に対する反論は、是が非でも行わなければならなかったのだろう。しかしこれは却って日道に対する批判を強める結果となった。近世には成立していただろう『興門雑記』所収の抄本寺文書では、日精説によって被害者意識が高まったのか、日道や日行は南条家の出身者であったゆえに大石寺を手中に収めることができたのであり、日郷は日目より大石寺を相続された存在であったが、南条家とは無線のために退出せざるを得なかったと述べ、日郷は悲劇の存在として語られるにいたった。しかもそこでは、日行が南条家の出身者であり、日伝は南条家とは無線の人物と記されているなど、日精説にかなり掻き回された形跡が見られる。
 この日精に始まった南条氏との俗縁関係による相続説は、大石寺の開基檀越が南条氏であることも相倹って、一面説得力もあったらしく、『富士日興門下分裂略史』『日蓮教団全史』『日蓮宗事典』にも受け入れられており、特に『日蓮教団全史』では「南条氏の外護によって日道は大石寺を継承したが、これは日郷にとっては極めて痛恨のことであったに違いない。それゆえ日郷はのちに法式五箇条を定めるに当たり、第一、第三、第四に名聞・俗姓・富貴を重んずべからざることを誡め、特に第三には『俗姓の親類を近づけ、仏種の弟子を遠ざくべからざる事』と厳誡しているである」(
177頁)と述べ、日郷撰と言われる『法式五箇条』をもこれに関連づけている。
 日郷が後年、南条家の惣領時綱の子息牛王丸(日伝)を受け入れ、弟子の筆頭に据えていることを併考すれば、『日蓮教団全史』の関連づけはどうだろうか。ともあれ日精の説が、ここでも大きな影響を及ぼしていることだけは、留意しておかなければならない。

 全体A B の説は、近世に成立したものが多く、日道・日郷両門下における論争によって、付加された色彩が濃厚で、当時の文献に照らせば、根も葉もない事項であることが分かる。鎌倉・南北朝期の文献による考察を後に控えているが、それによって現在日蓮門下に流布している道郷論争のイメージを、なんとかして拭いたい。結論から先にいえば、このようなイメージが定着したのは、一つに『日蓮教団全史』等が、近世の文献によって道郷論争の位置づけをしたことにあり、もう一つには、現在定着している大石寺の歴代譜を、そのまま当時に持ち込んで考察してきたことに理由があろう。
 すなわち日道門下は「日目一日道一日行」、日郷門下は「日目一日郷一日伝」の系譜を描き、それぞれの門下がその系譜に正嫡意識をもって論争を展開しているのだから、時代が下れば下るほど感情論が進むのも無理からぬことである。ともあれ、これらの諸説は後掲する当時の文献によって、一掃されることと思う。
 なお、昭和初期にこの問題を取り扱った堀日亨は、道郷論争ならびに東坊地の係争について「郷師所在ノ蓮蔵坊及ヒ東坊地ノ争ニシテ大石ニ関スルモノニアラズ」、あるいは「西大坊(本坊)に主職する日道と東坊蓮蔵坊に住する日郷との間に宗義の争い起り」等と述べており、今ひとつ定義されていないようである。
 次に道郷論争を「大石寺坊地をめぐる係争」であったと捉える
C の説は『大石寺久遠寺問答事』『日前他連署書状案』『久妙両山並定善寺由来書』『富士門徒の沿革と教義』に見える。中でも『大石寺久遠寺問答事』の記述は、係争の終結から、そう遠からぬ時期に語られた内容だけに詳述を要するが、大石寺坊地の相論については、別項を後に設けてあるので、それに譲りたい。
 そして「日道の六箇・十箇の謗法による対立説」
D を唱える文献に『日番縁起』『祖師伝』(小泉日義説踏襲)『日道六箇条謗法事』『当門徒前後案内置文』『富士諸寺彿法邪正記録』『久妙両山並定善寺由来書』『興門雑記』がある。またその反論材料としての引用ではあるが、前述の日精『家中抄』に記述が見られる。
この「日道の六箇・十箇謗法」については、比較的古い文献に見られるので、項目を設けて考察したい。


A日道の六箇・十箇謗法について


 日郷の直弟子日睿の日記を類聚したといわれる『日睿縁起』に次のような記述がある。おそらく日道と日郷との不和を窺わせる、最も古い文献だろう。


建武二年春比、伯者阿闍梨日道重々日興日目御本意被違間、大衆同心日睿為問答口有教訓。其誤六箇条、或十箇条云云。大衆列参下坊教訓者、建武二年六月十七日也。此時者宰相阿闍梨日郷入御給。然而日道無改転故、衆徒一同被申違。共時日睿問答口日道責伏給。雖然無捨邪帰正間、日睿捨日道、日郷上人奉付。


 ここに日郷の存在が記されてはいるが、当文は一読了解されるように、道郷論争と言うよりは、日道と日容との不和であり、日郷は第三者的な立場にいたことが分かる。この記述によると、建武二年春ころ、日道が重ねて日興・日目の本意に背いたため、日睿日容や日郷がこれを諭したが、日道は全く改める気配がなく、これによって大衆並びに日睿は日道を捨てたという。そして日興・日目の本意に背いたその誤りは「六箇条或十箇条」あフたと言っている。ここにその一々は載せていないが、日向定善寺に某筆の 「日道六箇条謗法事」があり、同文書の破損箇所を日我の『当門徒前後案内置文』互所収本によって補えば、次のように復元される。


 一 伯耆阿闍梨日道六ケ条謗法事


  一、大石寺別当職事
  二、日興ノ御弟子ニテ日目ノ御弟子卜被名乗事
  三、大聖人御筆御本尊自先師理境坊被給ルヲ横シマニ被抑留事
  四、玉野大夫阿闍梨之供養物被請取事 私云、日尊勘当ノ内之事也
  五、未処分跡被押妨事
  六、病人ノ事 日興上人ヲカシカクイホノ懶人卜被申事
 右条々事、建武二年ノ春、彼日道先師日興・日目ニ重々被違申間、其後六月十七日大衆同心以日睿為問答口、有教訓六ケ条、上ニ自分四ケ条惣シテ十ケ条申改、大衆列参下坊有教訓。日道無改転故、衆徒一同ニ被申違、日郷モ此時者入御給。仍日興・日日・日郷為御門流人於末代存此分不可同心者也。
   本云、於御本山日礼書写申
  [ ]阿闍梨御本書写之                      日我

 本奥書の「於御本山日礼書写申」をそのまま信用すれば、かなり上古の文献と見て取れるが、はたしてどうだろうか。そもそも第四条に見える日尊の勘当は、日興・日目在世中の件であるから、そうした事実があったなら、日興・日目から教訓されているはずであって、今更大衆が同心して教訓しに行く必要はなかろう。第二条の「日興ノ御弟子ニテ日目ノ御弟子卜被名乗事」もまた疑わしい。日道はその署名を見る限り、日興の弟子という意識が非常に強かったと思われる。
 日道は日興の在世中より日興の房号や阿闍梨号を継承しており、「日目ノ御弟子ト」名乗ったという翌建武三年八月四日にも『法華経題目抄』の写本に「白蓮」の署名をもって奥書しているのである。
日道が「弁阿闍梨」から「伯耆阿闍梨卜改名」したという文書は残っているが、日目の弟子と名乗ったと いう記録はない。しかも何度教訓しても日目の弟子と名乗り続けていたのなら、建武年間に日道が記した文 書の中に、一点くらいはその名乗りが見えてもよさそうなものである。
 第三、六条もどうか。たとえば「日興上人ヲカシカクイホノ癩人卜被申事」を大衆が列参して、重ね重ね教訓するようなことだろうか。日興の房号や阿闍梨号を継承し続けている日道が、日興を罵ったとは思えないし、しかも何度教訓されても日興を罵り続けていたとは思えない。これまた疑わしい内容である。しかも次下の文によれば「上ニ自分四ケ条惣シテ十ケ条申改」めたにもかかわらず、その四箇条は記されていない。いっぽうでは、総じて十箇条としたものを写したと言っておきながら、その本文が六箇条に留まっているのは、六箇条と次下の文とが、別個につなぎ合わされたものであることを証してはいないか。『日睿縁起』の「其誤六箇条、或十箇条」との記述も暖昧であり不審である。
 六箇条に引き続く文は、前掲の『日睿縁起』とほぼ同文であり、また『大石寺久遠寺問答事』とも内容が多く重複しているから、おそらく本文書の成立も、その周辺に位置づけられはしないか。ともかく、ここに挙げられている六箇条は、何れも事実を指摘できるものはなく、可能性もまた極めて低いものと判断されるのである。なお第一、五条は大石寺の坊地に関することであるが、『大石寺久遠寺問答事』の記述と勘合すれば、おそらくそれは、日道と日行の事蹟を混同した結果に生じたものと思われる。この二つの条目については後述する。次でながら広蔵院日辰の『祖師伝』に「六箇条謗法」に関する記述があるので挙げておく
.


大石寺衆云、日目以大石寺付属日道、々々付属日行、々々日時、日阿、日影、日有、日乗、日底、日鎮、日院。小泉久遠寺日義云、日道有六ケ謗法、一者奪取未虚分跡也、日目為天奏欲上洛、於濃州御入滅也、是故大石寺日目不付属日道、々々付属之状無之、然押領大石寺、是未処分跡奪取云也、二者玉野日尊者日興御勘気十二年也、其間日道受日尊供養也、三者以故聖教張屏風等也


 当文では第五条の詳細と「三者以故聖教張屏風等也」という、新たな項目が追加されているが、存疑濃厚たるは変わらない。第五条については後述しよう。
 ここでなお問題となるのは「本云、於御本山日礼書写申」という、日我の記した本奥書である。これに信を置いた上で話を進めていけば、次のように解釈される。すなわち日礼は日睿の姉弟にあたり、その日礼が本山において書写したと言っているのだから、その本山とは妙本寺と解して間違いない。『興門雑記』所収本では「六箇条謗法事」の題号下に「日郷記之」と記しており、両者を併合すれば「六箇条謗法事」は日郷の作であり、日礼はその本を写したと考えられよう。
 しかし、そこには「日郷モ此時者入御給」という、日郷が記したとは思えない文があるから、『興門雑記』所収本の説「日郷作」は却下される。可能性が残るとすれば日睿もしくは日伝の制作説であろう。その一人日伝については、後述する「大石寺敷地分割図」と「六箇条謗法事」の第五条の内容とが矛盾しており、やはり日伝の制作説も却下される。残るのは日睿か。しかし仮に日睿説が成り立っても、その内容に疑義の存することに変わりはない。後年の日時の訴状に見られるごとく、その当時にあっても、対立者に関する事実無根の偽証を記している例もあるから、そのケースも考えなければならないが、私は「六箇条謗法事」と次下の文との不自然さ、また内容からも後世の作である可能性が高いと考える。
 右に述べたことは、あくまでも日我写本の本奥書「於御本山日礼書写申」を踏襲した上での所見であるが、本奥書が後人によって付加された例は、枚挙にいとまがなく、その内容からすれば、日我写本の本奥書についても疑問視する必要があるのではなかろうか。私は後世作の可能性が極めて濃厚と思うが、日睿作、後人作の何れであれ、その内容については問題があると思う。
 但し、ここまで述べてきたことは「六箇条謗法」の内容に対する疑義であって、「建武二年六月十七日」における日道と日郷・日睿日との不和に関しては、さらにまた検討を要する。



建武二年の動き

 建武二年における 「下坊教訓」 に先立ち、その前年、富士門流内に起こった法華経方便品の読不読問答について簡単に触れておかなければならない。問題の核心は、これが日道と日郷・日睿日との不和に関連があるかどうかにあり、まずは両者の読不読問答に関する文献をあげる。


「日道書状」
抑日目上人御入滅之後無御音信候条、無心元思候処、此使悦無極候云云。日興上人御跡人々面々法門立達候。或同天目方便晶不読誦、或同鎌倉方迹門得道之旨立申候。唯日道一人立正義間、強敵充満候。明年秋御登山承候、世出世可申談候。毎事期後信候。恐々証言。
   建武ニ年正月十四日                                日道
 迫伸候。紫小袖一送給候畢。尚目出度候。新春之御慶賀自他申篭候。尚以幸甚々々。  

  
『日睿縁起』
重須義ハ自元蔵人阿闍梨日代、五十六品卜云フ法門被立間、非高祖上人並日興日目等御本意。日仙義又方便品不可読有偏立。是亦非代々ノ本意故二奉捨日仙。下坊伯耆阿日道(新六人一掾j奉付聴聞法理給。爾前法華勝劣・本迹二門相違等有相承。依之日睿度々日道為御使重須日代方令破畢。又日仙御坊へモ度々往キテ法門申偏立之義有説諌。


 両文を比較検討すれば、日道と日睿との不和が「方便品読不読問答」とは別件であることは明らかで、それどころか日睿は日道に師事し 「爾前法華勝劣・本迹二門相違等」を相承されていたのである。この『日睿縁起』の次下に続く文が 「建武二年春比、伯耆阿闍梨日道重々日興日目御本意被違間、大衆同心日睿為問答口有教訓」である。ゆえに「大衆列参下坊(日道)教訓者、建武二年六月十七日也。此時者宰相阿闍梨日郷入御給」についても、当然ながら 「読不読問答」との関連はない。
 日道が書状に 「或同天目方便品不読誦、或同鎌倉方迹門得道之旨立申候。唯日道一人立正義間、強敵充満候」と述べているように、建武二年の時点で、日道が「強敵充満」と感じ取っていたのは、天目や鎌倉方(五老僧)と同義を立てる人物の存在であり、それは換言すれば「日興上人御遺告」に見える、台当本迹を論じた 「鎌倉五人天台沙門無謂事」や「天目房カ方便品不可読立大謗法事」の遺誠を破失する存在だった。「日興上人御遺告」の筆録者は他ならぬ日道であり、そのような「強敵充満」の中にあって、日道が唯一人正義を立つ、という自覚に至ったのは、むしろ当然のことと言えるだろう。
 ちなみに日道は『諌暁八幡抄』の裏に、次のような文を記している
.


 今又日道建武二年丙丑五月廿八日ヨリ我不愛身命但惜無上道ノ請願ヲ立畢。又無他事。
 同七月廿八日ヨリ命ヲ法華経ニ奉テ父母師匠国恩ヲ報スト大願アリ。
 同八月廿八日離俗遁世ノ思アリ。


 この裏書と読不読問答との一件は、関連しているだろうか。教道院日因の『宗旨建立三四月会合抄』によれば、当文は 「今日蓮は去建長五年葵丑四月二十八日より、今弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間、又他事なし」という、いわゆる三月二十八日に続く二度目の法門表明から『八幡抄』の系年の根拠となる文の裏に書かれており、日道が何れも二十八日に誓願を立てていることを併合すれば、日道の裏書は、宗祖が「法門を申しはじめ」た「二十八日に準えて記されたものと思われる。そして日道は「建武第三丙子六月六日奉読誦畢、日道(花押)」と奥書をしており、長期に亘って 『八幡抄』を経典の如くに読誦していたと推測されるから、諸々の誓願を立てたり「離俗遁世ノ思」に耽ったのは、その影響によるもので、読不読問答とは別件であるかも知れない。
 ともあれ 「方便品読不読問答」と、日道・日睿の不和との関連は見いだせないと言えよう。しかし、そのことを指摘するのは容易ではあっても、不和の原因を追求し、その答えを提示することは至極困難である。日睿は『類聚記』に「建武二年六月中旬、大石寺御仏前」において日郷より法門を相伝されたと述べているから、確かに日睿は、建武二年を境に日道から日郷の門に転じており、それ以前に日道・日睿の両者間に何らかの不和があったことは間違いなかろう。
 「日道六箇条謗法事」 の内容に、多くの不審がもたれるので、今はそれを不和の理由として取り上げることはできないが、あるいは両者の不和は、近親憎悪にも似た感情のもつれによるものではなかったか。何れにしても『日睿線起』に見える建武二年の一件は、日道と日睿による不和であって、日郷は第三者的立場にあり、これまで語られてきたような 「道郷論争」 は、やはり見いだすことはできないのである。
 もっとも『日睿緑起』は、日睿の日記を中心にまとめられた書物だけに、信憑性もあるが、日道に関する記述には、「六箇条謗法」に見られるように、後人による対立感情が混入されている可能性も考えられ、その扱いは注意を要する。
 次に「道郷論争」において、よく取りざたされる日目の嫡弟問題について、日目在世中の大石寺、そして日道・日郷の自筆文書から両者の事蹟を概観し、その周辺を探ってみたい。


B鎌倉期の大石寺と日目の弟子達

 正応年間に創建されたと推定される大石寺は、開山日興が永仁六年に重須へ移住した後、日目が経営するところとなった。日興が自ら書状に「重須大坊」と署名し、大石寺を継いだ日目を「西坊主」と呼んでいるように、富士門流の拠点である大坊は日興の住する重須へと移り、重須の西に位置する大石寺は 「西坊」と呼ばれ、その主を日目が勤めることとなったのである。つまり、日興が大石寺に任したのは数年に過ぎず、したがって鎌倉期における大石寺の実体を探ろうとするならば、その伝は日目とその弟子による活動を考察すること以外には、得ることができないと思われる。また、そう判断せざるを得ないのは、鎌倉期の大石寺に関する官憲文書が存在しないからであり、やはり当事者の文書に依る以外に術はない。
 そこで、日目の遺文を紐解いてみると、内訳は様々で、大石寺の御堂番や寺内で栽培していた作物のこと、さらに貧窮を極めていた状況を伝えたものなどがあり、これによって大石寺の大凡が見えてくる。また日目がそうした大石寺の近況を伝えている書状の宛所を見ると、日目の直弟子である 「民部阿闍梨御房(日盛)」と 「宰相阿闍梨御房(日郷)」 に限られており、この両名が、日目と共に初期大石寺の状況を熟知していたものと考えられる。


民部阿闍梨日盛 (
1287〜)


 『日満抄』ならびに『御筆集』の奥に記された年次、並びに年齢から逆算すると、日盛は弘安十年(
1287)の誕生で、その出自は、おそらく小野寺氏の本家・下野小野寺氏と思われる。日目の出自がやはり小野寺氏の支流で、後に奥州へ渡った新田小野寺氏であるから、日盛と日目とは、ほぼ同族と考えてよい。日目が日盛へ宛てた書状に、奥州新田で執り行われた仏事について記したものがあり、中に日盛の「母儀・叔母両人」や新田信乃房が登場する。下野小野寺と新田小野寺とでは本流、支流の違いこそあれ、その書状からは同族としての親近感が窺える。
 また日盛には、下野国において教練を伸張させていた形跡がある。すなわち日興の本尊に「下野国民部阿闍梨弟子乗忍房」の授与書があり、また日盛の状断簡に「抑下野より米をたふへきよし申候に、到来候者、さてをきて、便宜に可被謂遣候、又自奥州も用途到来候者、早速に聞たく候」と見られる。おそらく嘉暦四年に日興から本尊を授与された「小野寺虎王麿」、また「日興上人御遷化次第」に登場する「小野寺太郎」も、下野小野寺氏の一族で、日目
――日盛のラインによる教化が予想される。さらに日盛は鎌倉に住坊を構えており、そこにおける日盛の活躍はめざましかった。日目が日盛へ宛てた書状には、次のようなものが頻出する。


「かまへてかまへて奥人らををしへて、はこね山こし給へく候」
「をくよりいせ殿小三郎か、ようとうハしもちてのほりて候」
「柳目の泉房をもさうせちもちてこよと申つかハして候也」
「馬をうり候間、ようとうは候べく候」
「奥人上て候ハヽ」
「奥人未見候、術計盡候了」
「十月奥より人ハ上て候」


 文中に見える「奥人」とは、日目の出自である新田一族をはじめ、奥州に在住する法華信者のことであるが、これらの書状は、何れも大石寺が貧窮を極めた時に、日目が記したものである。日目の書状を分析すると、毎年十月頃になると、奥人は大石寺を目指して奥州を後にしたようで、その中継点に存在したのが鎌倉の目盛の住坊であった。奥州から鎌倉へ向う経路には、東山道
中道、東海道の二つが存在するが、同族の小野寺氏が下野に任し、また同地が日盛の布教下であったことから考えると、奥人は東山道ー中道ー鎌倉のルートを利用していたものと思われる。日盛は奥人が鎌倉に到着すると、書状を日目に遭わしてこれを報告し、その返状において、日目は大石寺の現状ー貧窮状態ーを伝え、奥人の早期登山を要諦している。その他の日目の書状に見られる供養の品々も、その殆んどが奥人からのものであるから、これによって判断するに、鎌倉・南北朝における大石寺の経済的基盤は、奥州に求めざるを得ず、その中継役として、日盛は存在していたのである。
 後述するが、このように日目がわざわざ遠方の奥州へ経済的支援を求め続けていたことには、大石寺の開基檀越である南条氏が、公事繁多と分割相続により、この頃から急速に衰えていったことが影響していると思われ、それ以後も、大石寺は実質的に奥州の法華衆徒によって支えられていった。
 その他、目盛の活躍で特筆しておかなければならないのは、若手の育成と大石寺における御堂の番役であろう。日目の書状には「義科よくよく読みしたためて、二三月と下りてこれにて若御房達、児とも談戟有るベく候」と記されてており、日盛が講師として大石寺に招かれていたことが窺え、さらに大石寺の諸状況も目盛は熟知していた。


又満園の作物等皆草深しけり候之間指はて〜候。二文字、はしかみ、きたね、なす、ひる、
(五〉やうのものハ草をとロ(り〉て候へとも、よのものはさのミかJ(な〉はす候。人給候て、荘厳させ候へく候。畏言上候。抑今日は定入御之由、相存候之處、御風気之由、承候之条胎入候。参候て可承候(処)少御減之間、不可参之旨、王松殿の仰候之間、不能参拝候之粂、頗以恐入候。兼又自明日御堂の番にて候。十五日まては可勤仕候之間、暇あるましきにて候御留守之間の事、并に朝夕の物さたの事も侍従殿御方御申あるへく候欺。恐惶謹言。
  五月晦日                      日城〈花押) 


 文中に見える「御風気」に冒されていたのは日目であり、日盛はその日目の代務者として大石寺を支えていたのである。この日盛の寄状の紙背には墨痕が存しており、しかもそれは本状に対する日目の返状であった。その全文と検討は別に紹介してあるので省略するが、その書状の中で、日目は自らの近況と心境を余すところ無く伝えており、日盛に対する信頗の程が窺える。
 目盛は、大石寺をはじめとする本山格や談所の歴代に名を連ねていないこともあってか、従来は殆んど注目されることはなかった。しかし、日興や日目の書状を子細に見れば、日盛は両者からの絶大な信頼を受けており、特に大石寺の経営には不可欠な存在だったといえる。大石寺ー鎌倉ー下野ー奥州という強力なパイプは、日盛によって結ばれていたと言っても過言ではない。残念ながら日目滅後の活動については、殆んど知ることはできないが、日盛は長命だったようで、後述するように日時との接触も見られ、大石寺東坊地の相論に関しても多大な影響を与えたと考えられるのである。


宰相阿闍梨日郷 (
12931353


 以上のように、大石寺の経営に尽力した人物の一人に日盛がいたが、それに比肩する活躍を見せたのが、宰相阿闍梨日郷だった。日郷もまた、日目の直弟子として絶大な信頼を受けていたが、日目との師弟関係において、日盛と異なる点は、自らの法系譜に対する自覚と自負である。日盛にその表明はないものの、日郷には明らかに日目の嫡弟としての意識があり、そのことを後他に伝えるために、自ら次のような法系譜を書き残している。


この自輩の系譜が示すように、日郷には明らかに日目の正嫡という意識があった。そしてまた日蓮聖人・日興より、日目への学法と受法のあったことを記録しているが、南北朝期の日蓮門下における、このような自筆文書は類い希である。しかも日郷への系譜を示す文書はこれにとどまらず、相承の年月日までも明記した、衝撃的な史料が存在する。日郷の直弟、日睿の 『類聚記』がそれである。


日蓮聖人御出世御本懐御法門、日目聖人御相承ハ、弘安五年正月一日也。日目上人ヨリ日郷御相伝ハ元弘元年十月一日也。亦日睿此御法門日郷上人ヨリ相続ハ、貞和元三七日午時、京都七条坊門ニシテ相伝、御奏聞之時ナリ。建武二年六月中旬、大石寺御仏前二シテ相伝、先後二度。


 貞和五年(
1349613日の奥書を有する、この 『類聚記』は、日睿の自筆が安房妙本寺に伝わっているが、そこには 「上人四重興廃事」「本迹相違事」「迹門方便品読三義」など、相伝の内容が詳細に書き記されており、まさに一級史料と言える文書である。貞和五年といえば、日目の入寂から経ること僅か16年日郷はまさに存命中であった。故にこの類聚記の記述は、日郷の肉声を日睿が聞き取ったものと判断されるから、その信憑性は極めて高いと言えよう。
 「日蓮ー日日ー日郷ー日睿」と続いた相承の内容は不明ながら、それは、おそらく日目が身延在山中に修得した法門だろうと思われる。日郷は、その法門を日目から相伝された一人だったが、『家中抄』の「日目伝」には「日目御聖教ノ奥書云、曽祢部大弐阿闍梨日寿者蓮蔵坊之学法弟子也」と記されており、日目の学法の弟子には、他に日寿がいた。
 そもそも日郷は、日目が元徳
3年(133112月に書写した本尊に 「越後国宰相阿日郷授与之。日目弟子也」と記すように、越後国の出身で、『大石記』応永6116日の記によれば「越後国の法華宗平孫太郎助時」の教化により、伊賀阿闍梨日世を経て日目に入門したとある。日目が書写した本尊に

 

「日目弟子」と明記したのは、先の日盛とこの日郷の二名だけであり、それだけ両者は日目に重宝された存在だったのだろう。日郷の事蹟を詳論している余裕がないので、早速、大石寺と日郷との関連について述べようと思うが、その伝は、やはり日目の書状にある。

白布一、 良薬十十、こふのり紙袋五、あまのり壱袋送給て仏見参奉入候了。何も珍物に候之間悦入候。こふのりハ思わすれて奥州よりもち候ハて、たつね候つる也。
一、伊賀房ハ武蔵房の謗法を申候処、彼坊焼失する間、伊賀之所以とて武蔵房、伊賀房、性善共追出候間、大石寺にハ人なく候。日目か坊にハ大智房一人候間如無。越中房たつねてさうせちもちてきて一ニケ月坊主せよと候へ。たれもさうせちなくてハかなうましく候。一向術計つきはてて、けかちにて候けるところへ来候て、そんしはてて候也。大智房はしやミ候ハバ、花まいるものもあるましく候。柳目の泉房をもさうせちもちてこよと申つかハして候也。恐々謹言甜響。
  三月十四日                            日目(花押)


 先の日盛の書状と同様に、この日目状も鎌倉期における大石寺の諸相をよく伝えている。本状は大石寺の名称の文献上の初見であるが、本状の受取人が日郷であることは極めて濃厚で、そのことは、日郷の弟子の越中房へ伝言をしていることからも首肯されよう。文中にみえる大石寺の坊主とは、前掲の日盛の書状ならびに日目の返状を勘合すれば、大石寺「御堂番」勤仕者の代名詞であることはあきらかであり、日目は本状において、その御堂番を勤仕すべく、日郷の弟子、越中房日忍へ大石寺への早期登山を要請しているのである。
 同例を挙げれば、やはり日郷宛の日目状に 「大坊への進物等進候了。是又難有候々。何事よりも是に法師一人も候ハす候て、ときするものなく候。年越にかまへてわたらせ給候へ」「越中公如法、慇大公望になりて候。春ハくしてわたらせ給候へ。学門せさせ候へく候」とある。さらに次の書状は同例であるのと同時に、大石寺における談義の内容の大凡が見えてくる。



   〔端裏書〕
尼法花事越中こよくよく可問給候。
宰相阿闍梨御房          日目
一、越中公大公望に成て候。如法大切に候。よにそいたく候。年のより候ままよにそいたく候也。かまへてく明年ハ春より十月まてゐて可有談義候。兵法よくよくよミて可披来候。本共もちて可被来候。又破禅要文と諸宗帰伏の双紙をかかせ給候哉と覚候。可持来給候。これに本を失候。二月末二ハ必々可来給候。委ハ越中二申て候也。
                       
                           (日目)


 頻出する越中公日忍もまた、日目に重宝された存在であり、かつ日郷と日目との中間に位置していた存在だった。日目は日郷本人にも、やはり「此十月ハ随分相待候処不被参候。無心本候。明春者自常陸湯直可有来臨候」と書き送っている。ここに掲げてきた書状の宛所には、いずれも「宰相阿闍梨御房」と記
されているから、おそらく日郷が阿闍梨に補任された嘉暦元年(
1326)以降の書状と思われ、後述するように、その時は、すでに日郷は安房国にあったと考えられる。そしてこれらの書状を見れば、日郷のもとには常に越中公日忍がおり、さらに日目が書物の書写を依頼しているから、すでに安房国内には、日郷らの住坊が存在していただろう。そして日郷らはそこを拠点に富士と安房国を頻繁に行き来していたと考えら、れる。日郷と安房国につては後述しよう。

以上のように、当時の大石寺の状況を熟知していたのは、日目とその値系の弟子、とくに日盛、日郷であったと思われ、この両名が日目の後継者として、棲めて有力な候補に挙がっていたことは、まず聞達いなかろう。次に、大石寺の経営に関しては、全く接点の見られない日道について、その事蹟を概観し、日道がどのような位置にあったのかを確認したいと思う。


C伯書阿闍梨日道(12831341

 


 日道は弘安六年(
1283)、新田頼綱の子息として誕生している。日道の出自については、「新田頼網譲状」に「頼綱両(眼)不分明によつて登米三郎殿新田六郎入道殿、並子息判形を加了」と見え、そこに日道が署名・書判を加えているから疑う余地はない。なお新田家は、同譲状に「御公事」の語がみられ、また安堵の外題が付されているように、幕府に仕える御家人であった。
 歴史上の多くの人物がそうであるように、日道もまた、青年期に関する文献は皆無であり、その後の行実を詳らかにすることはできない。後に日道は日興の門に入っているが、たぶんそれは次頁に図示したように、日興と日目との師弟関係、そして日目と日道との血縁関係が伝となってのことだろう。その後、日道は日興から重宝されていたようで、「白蓮」あるいは「伯耆房」という、日興の阿闍梨号や房号を授けられており、さらに日興の晩年には「新六人」の一人にも加えられている。また次頁に掲げた図の示すように、日道は新田家の出身者であるのと同時に、南条家ともまた深い関わりを持っていた。そうした新田・南条両家との俗縁関係から、次のようないくつかの不動産を譲渡されている。

 まず、南条家における日道の位置を端的に示す一件として、南条時光の姪である尼鬼鶴の譲状を挙げておく。元徳四年(1332428日、鬼鶴は「するかのくに、かんはらのし□□(やう)、せきかしまのたさいけ」を日道に譲渡しているが、その「譲状」において鬼鶴は「おさなくよりようせられまいらせ候て、あさからぬ御心さし御おんおハりかたく思まいらせ候あいた、かのてつきのゆつ□□(り状)くたしふミあいそへ候て、やうふにいたのはわきのあさりの御はうに、ゑいたいをかきりてゆつりわたしまいらせ候」と述べている。
 この財産はその前年、時光が処分したものの
1つであり、それをまた鬼鶴は、日道に譲渡したのである。ここで注目すべきは、鬼鶴が日道を「やうふ(養父)」といい、日道に「おさなくよりようせられ」たと述べていることであり、日道と南条家との関係の密接さを窺わせよう。また次の日目の譲状は、日目と日道との俗縁関係をよく伝えており、日道が新田・南条両家に縁深きことが改めて確認される。

 

 

 


 譲度弁阿闍梨所
 奥州三迫加賀野村内ニ田貮反、加賀野太郎三郎殿日目ニ永代たひたる間、弁阿闍梨日道ニ限永代所譲与也。
 一、伊豆国南條
武正名内いまたの畠貮反少々くつれたりといへとも開発私領たる間所譲与也。余弟子共不可有乱妨。若至達乱者可為不孝人。仍譲状如件。
   嘉暦貮年
1110日                        日目{花押)
 又上新田坊並坊地弁阿闍梨ニ譲与畢。又上新田講師たるへし。此上新田之事ともハ弁阿闍梨一期之後者幸松に可譲与也。仍状如件。
    嘉暦貮年1110
                                                                                                                                 日目〈花押)


 文言から明らかなように、日道が日目より譲られたのは「奥州三迫加賀野村内ニ田貮反」「伊豆国南條
武正名内いまたの畠貮反」「上新田坊並坊地」の三箇所、そして上新田の講師職である。ここにおいて注目すべきは、やはり「上新田坊」の相続であろう。後年、教道院日因の記した『日日上人日道上人御系』では「日道上人御自筆三師御伝記に日く」として、日目が「弘安六年奥州に下向し、新井田において法華堂を建立」 したとの文を伝えている。
 ここに言う新井田の法華堂が「上新田坊」であろうことは疑う余地はなく、これによれば、その創建は大石寺よりも早い。日因の記す当文は、現存の「御伝土代」には見えないので注意を要するが、日目による奥州への下向は、比較的早かったと思われ、日興本尊の初見である弘安十年(
12871013日の本尊が、奥四箇寺の一つ、上行寺に伝えられていることからも、そのことは窺えるのである。

 日興や日目が奥州の門弟に授与した本尊は、現存するだけでも四十幅近くが確認され、さらに奥州には、鎌倉から室町期にかけての年号をもつ題目板碑が百基以上も伝わっているから、これによって同地には、多数の法華衆徒が存在していたことが裏づけられよう。そして既述したように、当時の大石寺を経済的に支えていたのは、他ならぬその奥州の法華衆徒だったのであり、彼の僧俗の集う道場が「上新田坊」であった。
 現代の感覚では、総本山大石寺とその末寺である上新田坊(現本源寺)とでは、その規模や役割に格段の差があるように思われるが、鎌倉期に遡れば上新田坊の果たした役割は、かなり大きかったと思われ、ゆえにその主僧として派遣される僧侶には、それ相当な人材が必要とされたはずである。
 上新田坊の寄進者が、新田家の惣領・頼綱であったろうことは、ほぼ間達いなく、その子息であり、出家者である日道は、まさにその諸条件を兼ねそなえていた。日道が奥州から日盛へ宛てた書状にも 「あまりにあまりに人々か留られ候間、逗留仕て候」と記されているように、奥州の法華衆徒もまた、日道の下奥を歓待し、常住を望んでいたのではないかと思われる。日目が日道へ上新田坊を譲渡し、講師として定めたのは、そのような状況を判断してのことだろう。もちろんそれは日興の了解を得てのことだったろう。
 後述するように、日道の滅後に勃発した大石寺の坊地をめぐる相論によって、日道の法系譜に連なる日時が大石寺を知行することになり、その結果、日道もまた大石寺の歴代(第四世)に名を連ねることになった。つまり現在の大石寺歴代譜は 「日蓮ー日興ー日目ー日道ー日行ー日時」 と次第している。それが日目や日道の意にかなったものであったかどうかは分からないが、諸状況から判断すれば、日目が後任として日道に望んだのは、大石寺よりもむしろ上新田坊ではなかったかと思う。しかも日道は、歴代に名は連ねてはいるものの、大石寺の在住を文献から確認することはできないのである。

日道の所在地を日蓮渡文の奥書等をたよりに列挙すれば、次の通りである。


乾元元年二月十五日  辺土より書を報ず  (「与大御坊中書」)
正和元年十一月   奥州新田   (「新田頼綱譲状」)
元徳四年正月十二日  重須大坊(推定)  (「日興上人御遺告」)
元徳四年三月十四日  上野南殿持仏堂    (「上野殿御返事 奥書)
正慶二年正月三日   武州崎西部崛須坊   (日興写本『法華取要抄』表紙)
建武元年以降     下之坊         (『日睿縁起』等)


 この間、しばしば奥州へ下向したろうことは、先の日盛宛の書状、ならびに日目より上新田坊を譲られていることにより明らかであるが、大石寺の在住については、やはり見いだすことはできない。日目の天奏にあたり、大石寺の留守居をつとめたという伝承はあるが、これは了玄日精の『家中抄』に見られるものであり、堀日亨も「(『家中抄』に)目師天奏のための西上の時の留守居であるを明らかにしてあるが、道師が重須より上野に帰られたことは大坊の留守居のためではなく、古史料によるに、下之坊であった」と述べるように、『日睿縁起』等によれば、晩年の日道の拠点は下之坊にあったと思われる。それにしても、日道が晩年を過ごした下之坊は何処に存在したのか。従来、元徳四年に日道が所在した「上野南殿持仏堂」は、既刊書では「南条持仏堂」と読まれていたために、建武以降に日道の任した下之との関連が予想され、私もかって「南条持仏堂ー下之坊ー妙蓮寺」という発展コースを想定したことがある。しかし正本の写真を見るに、既刊書の「南条」は、あきらかに「南殿」の誤読であり、ゆえに右の経緯にいては再考が必要となろう。その位置づけは困難を伴うが、極めて重要である。

 他ならぬ上野郷内に所在したことを考えれば、南条氏の持仏堂と比定して差し支えないと思われるが、即断はさけ、後考に課しておく。


西坊地について

 日興が元亨四年(
1324829日に書写した本尊に「大石持仏堂本尊日代(阿)闍梨」との添書が見える。当文によれば、日代が大石寺に関与したことは疑いなく、大石寺束坊地の係争後、本乗寺日会の記した『大石寺久遠寺問答事』の次文は、その考察をするにあたって傾聴すべき記述である。


 西坊六坊跡は重須本門寺蔵人阿日代の御成敗、日興上人第七年の御時本迹ノ法門迷倒候キ。鎌倉方ノ所流ニ同意也。依之大衆同心ニ日代卜各別候間、其儘西山移其証今歴然也。然間大石西坊白蓮坊無主之地ニ成行間日道横ニ御住候。唯シ開山上人ノ御遣状同日目上人御手続分明ニ候者無異論次第也。


 当文によれば、白蓮坊をはじめとする「西坊六坊跡」は、日代が日興より付嘱されたが、本迹問答において「鎌倉方ノ所流ニ同意」したため、日代は大衆によって追出され、西坊は無主となった。それを日道が「横ニ御住」したという。日道の押領については検討を要するが、ここに見える「白蓮坊」を、先の日興本尊の添書「大石持仏堂本尊日代(阿)闍梨」と勘合すれば、「白蓮坊=大石持仏堂」と解釈できる。さらに日興は、嘉元四年(
1306)卯月八日の本尊に「白蓮持仏堂□□(安置)也」と添書しているから、白蓮持仏堂・白蓮坊・大石持仏堂の三者同一たることが濃厚となろう。とりわけ「大石持仏堂本尊日代(阿)闍梨」との日興の添書は注目され、これによって日代が、西坊の主職にあったという『大石寺久遠寺問答事』の記述は、信憑牲を帯びてくる。

ところが日代は、本迹問答によって追出された。「然間大石西坊白蓮坊無主之地ニ成行間日道横ニ御住候。唯シ開山上人ノ御遺状同日目上人御手続分明ニ候者無異論次第也」。ともかく『大石寺久遠寺問答事』は、日道はその跡に住したと言っている。先の「六箇条謗法」も同様の主張をするが、西坊地は日賢の記した「大石寺敷地分割図」に「西坊敷者南条三郎左衡門跡日行相統地」と記されているように、日行が南条三郎左衡門から相続したものであることは明白である。日道と日行の事績は、日道・日郷門下ともに混同していることが多く、当文を記す『大石寺久遠寺問答事』も例外ではない。
 日行は『大石記』において「下御房の御代官」、『日睿縁起』にも「下之坊御同宿」と記され、さらに暦応四年(
1341)には、日道から「日道弟子一中一也」と言われた存在だったから、両者が混同されるのも無理からぬものがある。それにしても何故、日行は西坊地を相続されたのだろうか。小野眞一氏は、日行を南条時光の孫に想定しているが、その根拠は全く不明であり、日行と南条家との俗縁関係は見いだせない。おそらく西坊地の相続は、南条家における日道の助言によるものではなかろうか。
 ともあれ日行は西坊地を相続した。これに日興より白蓮坊を相続された日代を加えれば、西坊地は「日興ー日代ー日行」という坊職者の系譜が想定される。もちろんここに言う系譜とは、知行者をその順に連ねたものであって、現在言われるような唯授一人の血脈相承を指すものではなく、また日代は読不読問答によって追出されたのだから、当然ながら日行の坊職は、相承によるものではない。
 日興の重須移住後の大石寺西坊について見るに、その後嗣は日代であったが、大石寺の経営の実際は、東坊、すなわち主僧日目とその弟子によって行われていたことが濃厚で、それは先に考察した日目や日盛の書状によって明らかである。特に日目は「武蔵房、伊賀房、性善共追出候間、大石寺にハ人なく候。日目か坊にハ大智房一人候間如無。越中房たつねてさうせちもちてきて十二ヶ月坊主せよと候へ」、また「何事よりも是に法師一人も候ハす候て、ときするものなく候。年越にかまへてかまへてわたらせ給候へ」と日郷へ報じているし、日興の重須移住後、日代が白蓮坊に止留し、活動していた痕跡は窺えない。日興が西坊職を日代に譲ったことは、ほぼ疑いないが、その総職は日目に委ねられていただろう。
 なお日代は、自筆の伝わる「目安土代」によれば、日興より重須の「坊職並御影像」も付嘱されていたようで、「彼所者、妙源私寄進之地也」と述べている。事実「石河妙源寄進状」は、日代開基の西山本門寺に伝わっており、その信憑性は高い。つまり日代は、重須と大石寺西坊の二つの坊職を日興より相続されていたわけだが、結果的には、その何れからも追出されており、「方便品読不読問答」のみならず、日興との俗縁関係による重職の相続が、他の門弟の反感をかったのかも知れない。また方便品の読不読問答についても、日目滅後に東坊の主職にあった日仙と、西坊地の白蓮坊を相続した日代による、主導権争い等の確執から発展したという可能性も考えられはしまいか。
 いっぽうの東坊地について見るに、その輩頭は申すまでもなく蓮蔵坊日目であった。『日睿縁起』では、日仙の坊(上蓮坊)に「東坊中」と注記しているから、日興の「本弟子六人」の一人である、日仙の住坊も東坊にあったことが確認されよう。日興の初七日に当たる正慶二年(
1333)二月十三日の『日興上人御遺跡事によれば、大石寺には名目上「上野六人老僧」がおり、そこに日目・日仙・日善の三名が、一筆の同文書に加判をしている。この三名が「上野六人老僧」に連なる人物であることは疑いないが、日興在世中における、大石寺での日仙・日善の活動は見いだすことができず、おそらく両名は日興の入滅後に、東坊中に入ったのではなかろうか。

 建武元年の時点では、すでに日仙は東坊中に住坊を構えていたことが確認されるから、たぶん日目の入滅後は、日仙が東坊中の主職にあったろう。日仙は、上野六人老僧、日興本弟子六人のそれぞれに名を連ねる重鎮であり、その職にもっとも相応しい人物と言える。現存する日仙の寄状二通は、何れも供養の品に対する礼状であるが、日仙はその書状において、供養の品を「御経日蓮聖人見参」に供え「御状を仏前ニまいらせ」たり「心をいたし候て御経」を奉読したことを報じており、主僧的立場にあったことが窺える。
 これに、その後の諸状況を加えて推考すれば、大石寺の坊職者の系譜は次のように整理されよう。



 

 

大石寺における日興の主職は、重須へ移住した永仁六年(1298)が下限であり、それ以降は日目が大石寺の主職にあった。その後は重須大坊と大石寺という二大拠点が富士門流に存在することになったが、その状況については曽て述べたとおりである。これに領主である南条氏を加えれば、時光の配分により、東方は南条四郎左衛門時綱、西方は南条三郎左衛門の知行するところとなっていた。
 右の系譜はあくまでも想定だが、現在の系譜とはかなり異なっている。まずは、日興・日目の次に連なる日代と日仙が、現在の歴代系譜には見えない。それはおそらく、先にも引用した日道の書状に 「或同天目方便品不読誦、或同鎌倉方迹門得道之旨立申」と非難され、日睿もまた 「日睿度々日道為御使重須日代方令破畢。又日仙御坊へモ度々往キテ法門申偏立之義有説諌」と述べているように、両者の「方便品読不読問答」における主張が、いずれも富士門流内の僧侶間より異流義と見なされた結果であろう。日仙もまた、追出に近い扱いを受けたのではなかろうか。
 日行が南条三郎左衛門より、西坊地を相続されたのは、当然ながら、日代の退出俊だったろうし、日郷は建武五年(
1338)に南条四郎時綱より東坊地を寄進されたが、読不読問答において失脚するまでは、日仙が東坊地の主職にあったと思われる。日仙・日代の除名は、読不読問答によると思われるが、さらに「日郷−日伝」の系譜も、東坊地の係争後に、やはり除外されている。そして日伝の退出後、日時が大石寺を知行したことにより「日蓮ー日興ー日目ー日道ー日行ー日時」という、現在に至る大石寺の歴代系譜は成立したと思われる。
 以上、西坊地ならびに大石寺の坊職者について若干の考察を加えたが、やはり日道の大石寺在住は、その証を得ることができなかった。現在の系譜が後世に作られたものであることを考えれば、取り立てるほどのことではないかも知れないし、末弟によって大石寺四世に名を連ねられたとしても、はたして日道本人に大石寺の継承者という意識があったかどうかは、別問題と言えるのではなかろうか。

 

 

 

 

 

 



日道と日郷との接点

 日興が元亨四年(
1324)十二月二十九日に書写した本尊に、次のような添書と加筆がある。
  最前上奏之仁卿阿闍梨日目(日興筆)
  日道相伝之、日郷宰相阿闍梨授与之(日道筆)
 これは日道・日郷の自筆文書に見える、両者の唯一の接点である。堀日亨は日道の加筆について「(日郷は)元弘三年天奏には京地案内の法兄日尊とともに随伴して西上せられたが、老師(日目)の不幸のために空しく富士に帰り 大坊の日道上人にその法労を稿らわれて 開山上人より目上に賞与せられた最前上奏之仁と、脇書ある大御本尊を賜つたと意義づけている。日道門下に立脚した意見ではあるが、日道が日郷へ当本尊を授与した時期については 私も日目滅後のことだと思う 
 授与の理由についてのコメントが見られないので推論の域を出ないが 日道は 日目と日郷との師弟関係を考え 日郷は当本尊を持つに相応しい人物と思い至つたのてはないか 参考史料ではあるが 『家中抄』の「日目伝」に 次のような記録がある。 


  日目御聖教ノ奥書云、曽祢部大弐阿闍梨日寿者蓮蔵坊之学法之弟子也 仍任遺言 以自筆之双紙 奉相伝者也

   于時建武第四姑洗下旬                             日道往判 

 その自筆を披見していないので真偽のほどは分からないが、当文は日目が学法の弟子てある日寿へ 自筆の双紙を相伝するよう日道へ遺言していたという記録てあり、 日道の奥書は おそらく日寿がそれ相応の人材に育ったことを意味し、授与したことを証した文てはないだろうか。 全くの推論てはあるけれども、日郷もまた、日目付法の弟子であり、それ故に日道は 日郷へ日目授与の日興本尊を授けたのではないか。日道は俗縁関係から、師弟関係とは別な意味で日目とは近い関係にあり、そのような委託は他にもおったと思う。 
 もちろん堀日亨の言う、元弘三年の天奏随伴が理由と考えられなくもない。堀説は「最前上奏之仁卿阿闍梨日目」との日興の添書を関連づけたものであろうれども 元弘三年の日尊・日郷の随伴は伝説的でもあり、その確証を得ることはできないから、これもまた参考意見である ちなみに前述したように 近世の
 「富士諸寺佛法邪正記録iては「従樽井日郷被下手続之御本尊御使日道也」といい 当本尊については「彼御本尊裏書云 日道承之宰相阿闍梨奉渡矣。 日郷大石寺住持職日道御供丿段抑分明也 誰レ入疑之」と改竄している それは日道筆の「授与之」の文が上意下達を意味するからであり、日郷門下としては日道と日郷とが、そのような関係にあったことを否定したかったからだらう。 
 しかしそれは 門閥意識から両者を無理に対立関係に置こうとした結果であり、当文をそのまま解釈すれば、日道と日郷とは、むしろ親交の関係にあったと見ることができるのではないだろうか。 日道と日郷との接点についての参考文献を挙げれば、『大石記』応永六年十一月六日の記に、日郷が日目の門に入った後に、 日目の命によって日道が日郷へ内外典を教示した、という逸話を伝えている。日道は日郷より十歳年長であり、年代的に見て考えられなくもない。 
 なお 本項の結びとして 近世以降の「道郷論争」においてよく語られる、日目の嫡弟の問題について一言述べておきたい。了玄日精の説を挙げるまでもなく、日道の門下では、例外なく日目から日道への血脈相承があったといい、対する日郷は前述したように、自ら相承のあったことを述べている。 日目は本尊の授与書において日郷を「日目弟子也」と明記しており、日郷自筆の「法系譜」や日睿『類聚記iの記述からしても、日目から日郷への相承は充分に立証されよう。 
 しかし日道は場合はどうだらうか。日道は日興の弟子であって、日目の弟子ではないのである 日興が師弟関係について極めて厳格であつたことは 「佐渡国法華講衆御返事」や本尊の添書に見える「申与之」の化儀から明らかであり 日道はその日興の弟子なのである。 日目がそのことを存じていないはずはなく、ゆえに日道は日目との俗縁関係から、不動産等を譲渡されることはあつても、嫡弟として定められることは まず考えられないのではなかろうか。 
 もちろん 日蓮聖人の定めた「六老僧」や 日興の「本弟子六人」の例があるように、付嘱の弟子が一入でなければならない必然はないが、日道の場合は、その師弟関係からすれば日興から付嘱されるべきであり 日目が日興を差しおいて日道に付嘱するということは、まさに越権行為であるし、そうした事実はなかったと思う。また後年、日郷門下が批判するような、日道が日興との師弟関係を破棄し、日目の弟子と名乗ったということもなかっただろう。 何のためにその必要があったのか、理由が全く解らない。 
 そもそも日道が日目の弟子に連ねられた根源は、大石寺の坊地係争後に成立した「日目ー日道」にという歴代譜にある。日道の法孫である日時が大石寺を知行したことにより、必然的に日道は、大石寺の系譜に連ねられたが、室町期に人って血脈の相伝が唱えられはじめ、やがて日道は日目から血脈を相承された人物。 つまり日目の嫡弟として存在するようになった。それに対する日郷門下の批判は「日道ハ開山上人之御弟子ニテ日目上人ノ御弟子ト号シ」(『大石寺久遠寺問答事』)というものであったが、日道がそのような位置になかったことは、諸状況からして明らかである。 
 その後 了玄日精の再反論と、それに対する日郷門下の批判が入り乱れ、日道の存在に様々な虚構が加えられていったが、とりわけ日精が自門の正当性を立証するために力説した「甚深の血脈相承」は質が悪い。 日精の頃に大石寺に定着していた唯授一人の血脈相承という独善的体質は、その系譜に連ならない者を、まるで謗法者のように扱っているが、鎌倉・南北朝期には、そのような相承は存在していなかったのであり 門下による血脈の正当性を立証するために、日興との師弟関係を破棄され、日目の弟子に連ねられた日道にとっては まったくもって迷惑な話だろう。 
 そのような門下のいだく正嫡意識によって作り上げられた謬伝は他にもあり、次項においては 日目の嫡弟をめぐる日道との争いに敗れ、日郷が安房に去ったという、日道門下の説について検討を加えたい。 



D日郷と安房国


  日郷の開山になる安房妙本寺の成立は、寺伝では「建武二年」と言われている。佐藤博信氏も指摘されるように、それは建武二年に発給された「某袖判安書状」の年号と結びつけられたものであろうが、日目はその書状において、安房国にあった日郷に対し、書物の書写を依頼したり、弟子を大石寺に登山させるよう要請しているから、日郷は日目の在世中、すなわち正慶二年(
1333)以前には、安房国に住坊を構えていたと推測されるのである。その濫觴を、どこまで遡らせることができるかは分からないが、日郷が安房国への弘通を志ざし、まさに同地に到着した直後に遣わされたと思われる、日目の書状がある。

 
委細承海路之間無殊事云々、抑安房国者聖入御生国、其上二親御墓候之間、我身も有度候へとも老体之間無其義候処、御辺居住候ヘハ喜悦無極候。相構々々法門強可被立候。国人皆以聖人之御法門廃候山間候。可被継法命候。 恐々謹言 
    五月二日                                    日目足抑て
     進上 宰相阿闍梨御房


 短文ながら本状は、安房抄本寺の濫觴を語るにおいて不可欠な文書である。日目が「聖入御生国、其上二親御墓候」と記し、日蓮遺文にも自ら「東条、日蓮心さす事生処なり。日本国よりも大切にをもひ候」と記されているように、安房国、具体的に言えば東条郷片海は、門弟にとっての聖地であった。 
 日郷が最終的に定めた布教の拠点は、吉浜であったが、当初、日目や日郷の望んだ布教の拠点が、宗祖生誕地の東条片海にあったろうことは、言うまでもない。しかし、日目がここに記す「国人皆以聖人之御法門廃候」という状況が、そうはさせてくれなかったのだろう。鎌倉・南北朝期におけろ安房国の日蓮教団の動向を示すものとしても、貴重な文献といえる。この書状は、日目の晩年に遣わされたものと思われ、そのことは日目が自らを「老体」と言っていろことからも首肯されよう。ちなみに大夫目我は『申状見聞』において「為目上ノ御代官、房州へ御下着於磯村御弘通あり」と記し、次下に本状を引用していろ。
 ところで、この日目状の受取人であろ日郷は、元亨四年(
1324)十月六日の日興書写本尊では、日目より「宰相房日郷」と称されていたが、日目が正中三年(=嘉暦元年、1326)卯月に書写した本尊では「宰相阿闍梨日郷授与之。為守也」と、阿闍梨に昇格していろのみならず、「為守」の本尊を授与されていろ。
 本状の宛所が「宰相阿闍梨御房」であろこと、そして「海路之間無殊事」、「国人皆以聖人之御法門廃候」という危機的状況と、右本尊の「為守」の文とは、関連してはいないだろうか。日郷は安房国の弘通にあたり阿闍梨に補任され、「為守」の本尊を授与されたという可能性もあろう。
 ともあれ本状の核心は、「国入皆以聖入之御法門廃候」という安房国の状況の中で、日郷が「継法命」ぐことにあった。法命にっいては目蓮遺文に、法命を継ぐ人は大難に遭うと説かれていろように、まさにそれは法華経を色読する、行者の証だったのである。
 後年、日郷門下の日山がこの書状を書写しているが、日目の書状を門下が書写しているという例は、管見では見あたらず、安房に拠点をおく日郷門下にとって、この書状のもっ意義はそれだけ大きかった。事実、天文六年(
1537)七月七目、日向定善寺日楊ならびに学頭日杲は、日我が大衆より妙本寺住持の推挙を
受けて思案していたとき「可披続(継)法命事一門中本望候」といい、それこそが「妙本寺之代々血脈之導師」と伝えている。その「代々」継がれてきた「法命」の淵源が、この日目の書状にあることは申すまもない。
 さらに日目は、本状の上所に(進上」)という鄭重な文言を添えているが、「進上」と記された日目の書状は、本状と日興への披露を請うた書状の二通だけであり、しかも日興へのそれが披露状の書式に則ったものであることを思えば、違例とさえいえるのである。そのような日目の熱意が、日郷の奮起を促さないはずがなく、日郷の安房弘通に懸ける意気込みは、いよいよ確固たるものへとなっていっただろう。
 そうした日郷の意志を示すように、建武二年(
1325)三月十一日に発給された某袖判の安堵状に「師資相承の地」なる語が見られる。言うまでもなく発給者が安堵の地を「師資相承」と位置づけたのではなく、これは日郷の訴えを受け入れたからに他ならない。もちろん、安堵状に見える「吉浜村法華堂坊敷」
 等は日目の財産ではなかったし、日目がこれを日郷に譲ったという事実もない。ただ、日郷が安房国における弘通を日目より託された、という意識は非常に強かったと思われ、その意気込みは、日郷が文和二年(
1353)四月に、安房の法華堂、重宝に関して、四通もの置文を記していることからも窺えるのである。
 そのような視点から推考すれば、右に挙げた「某袖判安堵状」や『日叡縁起』等の記述に見える、建武二年の日郷の安房国在住を、日道門下が言うような、大石寺を退出、あるいは摘出されたと見る必要はないだろう。後に日伝が大石寺から退いたために、彼の拠点となった吉浜法華堂(後の妙本寺)は、分派として異端視されがちであるが、そもそも安房国におげる日郷の弘通は、日目の意向によるものであり、吉浜法華堂はその結果に建立された富士門流の新たな拠点なのである。日郷はその安房国と富士とを往還していたにすぎない。いま、日睿の『類聚記』からそれを抽出すれば、

  建武二年六月中旬  大石寺御仏前ニシテ相伝
  建武二年十二月一日 安房国吉浜ニシテ相伝
  建武二年二月二十日 相伝安房国磯村
  建武二年二月二日  磯村所立御時示承

 と確認され、建武二年三月十一日に吉浜法華堂を安堵された後、大石寺と安房国を往還していたことが分かる。さらに『日睿縁起』によってこれを補えば、日郷は貞和元年(
1245)二月七日には、大衆同心のもと大石寺において日興の十三回忌を奉修している。また暦応二年(1240)七月十五日の「延年寺成願売
券」に記された「安房国当住大田宰相阿闍梨日郷」、貞和二年(
1247)七月十八日の「成願後家売券」では日郷を指して(おしてらのれんさう房」と言っている。これらに先立っ建武元年六月十六日、日郷は日蓮遺文『薬王品得意抄』に奥書をしているが、これが大石寺におけることであったのか、それとも安房国であったのか、その判定が困難なくらい、日郷の往還は頻繁である。
 そして前述したように日郷宛の日目の消息を見れば、日目は、日郷の弟子に登山を要請したり、書物の書写を依頼したりしているから、日郷とその弟子による富士と安房との往還は、日目在世中から続けられていたことが明らかであろう。日郷は建武五年に「大石寺東方」を南条時綱より寄進されているが、当然ながらそれ以降も、大石寺に留まっていたわけではなく、いっぽうの安房国の弘通も続はていた。
 後年、建武二年の日郷の安房国在住は、日道の門下によって、退出・擯出と位置づけられたが、既述してきたように、日郷の安房在住は、退出・擯出によるものでないことは明らかであり、日道門下の位置づけは、全く自門の正嫡たるを立証するために述べられた一方的な見解であって、史実に反するものと言わなければならない。


 小結 


 以上、近世の文献に見える「道郷論争」の記述について批判を加えつつ通観し、次で日盛・日郷の自筆文書等をたよりに、日目人滅直後にいたるまでの大石寺と、日道の位置、そして日郷と安房国との関係について概観した。道郷論争について纏めていえば、了玄日精の『家中抄』の記事が、現在流布する「道郷論争」のイメージを定着させ、それを中心に、現代の書物は道郷論争の考察を進のてきたといえる。そしてその流れは、おおよそ次のように位置づけられ語られてきた。

  日目の後継者をめぐり日道と日郷が対立
     
         
  南条家の血族の力により日道が大石寺を相続
     
 
  相続争いに敗れた日郷が安房に退出

 しかし、これらは全く根拠のない妄説であり、おそらくその成立は、次章にて述べる「大石寺東坊地の係争」終結後、それぞれの門下による対立感情の深化から生じたものと思われる。すなわち係争終結後、日時が大石寺を知行したことにより、大石寺の歴代系譜は「日目ー日道ー日行ー日時」と次第し、「日郷ー日伝」は除外されるにいたった(日有「歴代忌日表」)。

 日郷門下は当然ながらその系譜、とりわけ「日目−日道」を強烈に批判したが(日会『大石寺久遠寺問答事』「六箇条謗法」等)、大石寺の了玄日精は、これに対する再反論を行い、「日目ー日道」の系譜の正統なることを立証するために、日目は日道に「甚深の血脈」を相承していたといい、加えて日道・日郷両者の南条家縁無縁の説を唱え、さらには日道と日郷が日目の正嫡をめぐって二度対決し、敗れた目郷は擯出された、という根も葉もない妄説を唱えた(『家中抄』)。
 それ以降、日道・日郷の事蹟は疎外され、もっぱら日精説に対する反論が日郷門下によって行われたのである。そして日道・日郷は、それぞれの門下から憎悪にも近い対象として位置づけられ、これに感情論から生じた虚構が加えられ、現代版「道郷論争」は成立したと見てよい。
 現在、日蓮門下に流布しているのは、その日精の説であり、ゆえに近来の「道郷論争」の考察といえば、まったく日精説を踏襲した上で行われ、現在描かれている歴代譜も、そのまま当時に持ち込まれて考察が進められてきたために、様々な誤謬や矛盾が生じたと言えるだろう。しかも、それぞれの門下が正当性を主張する「日目ー日道」、「日目ー日郷」の系譜からすれば、はたして日目の嫡弟は、日道・日郷の何れであったのか、争点がそこに到達するのは当然の成り行きで、こうなれば、もはや日道と日郷とは対立関係に置かれざるを得ないだろう。つまり日道と日郷が日目の正嫡を争ったのではなく、それぞれの門下が日道と日郷を対立関係に置き、日目以下の正嫡論争を繰り広げたのである。
 本章では、そうした近世より現代に至るまでの説を退け、「道郷論争」は後世に作られたものと位置づけた。そして、もっともらしく語られてきた日道・日郷両者の南条家縁無縁の説も、その後の大石寺の相続には、何ら影響を及ぼすものではなかったことを、次章にて述べたいと思う。

 

 


 

2章 大石寺東坊地の係争



本章はその性格上、南条氏ならびに大石寺坊地の相論に関する文献を『静岡県史・資料編5』(以下「静5」)『同・資料編6』(以下「静6」)『同・資料編8・中世資料編補遺』(以下「静補」)より多用し、同書の文書番号をその下に記した。また同書に欠ける文献は『富士宗学要集』(以下「要」)所収本を用い、同書の頁数を記した。なお引用文を原本の複写等によって読み改めたものもあるが、その場合は本文後の注にその旨を記した。


@係争前夜――南条氏一門の動向――

 そもそも富士上野郷の大石寺は、日蓮聖人の高弟、白蓮阿闍梨日興の開山になるもので、上野郷の地頭南条時光がこれを招いて寄進し、初期富士門流の拠点となった寺院である。創建はおそらく正応年中であろう。ただし日興は、時光からの寄進状は受けておらず、日興の後嗣、日目もまた同様であった。その理由はわからない。しかし日興と時光とは相当な信頼関係をもって結ばれており、日目もやはり時光とは俗縁関係にあったから、両者の大石寺居住は僧俗双方の了解によっていたと思われる。
 寄進者である南条氏は、伊豆国の南条より興った一族で、「南条時光譲状」に「代々の御下文並てつきのもんそあいそえて、ゆつるところをまことなり。御くうし・ねんくハ、せんれいにまかせてさたすへし」(静
5-1604)と見えるから、御家人であることは明らかで、加えて『吾妻鏡』寛喜元年九月九日条では、南条七郎次郎が北条泰時より「祗候人」と称されているように、南条氏は御家人であるのと同時に得宗被官でもあった(63)。それ以降の南条氏の系譜を、川添昭二氏は『吾妻鏡』や「大石寺文書」を伝に「南条七郎左衛門尉時貞七郎次郎入道ー七郎次郎左衛門尉時光」と想定されている(64)。日蓮遺文に見える七郎、そしてその子息で大石寺の開基檀越となった時光が、はたしてその系譜に連なるのかどうかは、まことに大きな課題であるが、その考察は別稿に譲りたい。
 ともあれ、時光の父七郎の代には、南条氏はすでに富士上方上野郷に入部していた(
65)。日興の『弟子分帳』によれば、同族に「駿河国富士上方成出郷給主南条平七郎」(66)がおり、同所が文治元年以降、得宗領となっていたことを併考すれば(67)、給主に任じられた平七郎はもとより、七郎の系譜に連なる南条氏もまた、得宗被官たろことが明らかである。事実、七郎の息女蓮阿尼は上野郷の「一分給主」であった(静5-1575)。南条氏が上野郷を領知することになった背景は定かでない。ただ、南条氏は「承久の乱」あるいは「伊賀氏の変」などにおいて活躍しており(68)、勲功等による拝領であろうことは、ある程度予想されよう。それ以降、七郎系の南条氏は、上野郷を本拠とする在地御家人としての性格が強くなっていった。
 いっぽう、上野郷へ移住した南条氏とは対照的に、鎌倉へ常勤していた一族もおり、例えば『親玄僧正日記』には、執権貞時の使者として、しばしば親玄僧正を訪れた南条二郎左衛門尉の存在が記録され(
69)、 また金沢貞顕の書状によれば、南条新左衛門は、執権高時邸の近隣に住居を構えていた(70)。さらに幕府奉行人の一番引付に名を連ねた南条四郎左衛門(71)らがおり、これらはすでに、奥富敬之氏や細用重男氏によって得宗上層部に位置づけられている(72)。
 しかし上野郷へ移住した七郎系の南条氏は、鎌倉に屋敷を構え、「得宗領為欠所之随一」といわれた山内荘にも所領を有していたが(
73)、社会的地位の向上は認められず、その方面においては、全くといってよいほど、ふるわなかった。
 その理由の一つにば、内管領との対立も考えられよう。上野郷の南条氏が法華宗の熱心な信奉者であったことは、よく知られるとおりであるが、文永八年(
1271)、さらはは弘安二年(1279)にも日蓮聖人、あるいはその信奉者と平頼綱との間に、非常に大きな衝突が起こっている。時光による頼綱への反抗は、弘安二年の熱原法難に顕著であり(74)、 この事件において時光が支持したのは、むるん同志の信奉者だった。すなわち時光は法難は関わった神主らを匿い、しかもその行為は極めて自発的なものであったと思われる。
 日蓮遺文にも「するかの国は守殿(時宗)の御領」(
76)と記されているように、駿河国は得宗領であったが、時光の所領も法難の舞台となった熱原郷も、その内はある。そこにおける時光の反抗は、時綱はとっては極めて不快であったるう。しかも時光ば「殿もせめをとされさせ給ならば、するかにせうせう信するやうなる者も、又、信せんとおもふらん人々も、皆法華経をすつへし」(76)と言われるようは、その地方における法華衆の中心的人物だったのである。 

 これに先立つ建治元年(
1276)七月二日の日蓮遺文にば、「そりやうなんどもたがふ事あらば」(77)と記されており、時光の所領そのものが、危ぶまれる状況にあったことを思わせる。おそらくこの一件も法華信仰と内管領頼綱との衝突と無関係ではあるまい。長崎氏と多く行動を共にした在鎌倉の南条氏とは対照的である(78

 また上野郷の南条氏は経済的貧窮性を有した存在でもあったらしく、時光宛の日蓮遺文には「わづかの小郷にをほくの公事せめにあてられて、わが身ばのるべき馬なし、妻子はひきかくべき衣なし」(
79)と記されている。高木豊氏は、他の遺文に見える南条氏の供養の品からも、そのことが窺えるとして、供養の品は「とりわけ芋の多いのは時光所領の上野郷の立地条件によるものであったるう。それだけに白米の供養ぱ特筆すべきであるう。また大根・鶏冠菜等の野菜を身延に届け得たのも近距離にあったことにもよるうが、それはまた、南条氏の領主としての経営規模が大きくなかったことを示すものでもあった」(80)と分析している。高木氏の言われる「上野郷の立地条件」はついては、若林淳之氏や小和田哲男氏らも「水利に恵まれない地域」と報告しており(81)、その影響はやはり大きかったと思われる。
 宗祖入滅後には、身延を難山した日興を迎え大石寺の創建に尽力したが、上野郷の南条氏は、それ以降も急速に衰えていった。徳治二年(
1307)の「得宗家奉行入奉書」によれば、時光は姉の蓮阿尼により 「所当来以下公事」について訴えられており、その弁申を奉行人から求められている(静5-1575)。奥富敏之
氏は、これを時光の押領によるものと推測されているが(
82)、そう考えられなくもない。また元亨四年(1324)の「南条時光売券案」によれば、時光は上野郷内の屋敷つきの田畑を、二十五貫文にて売却する意志のあることを示しており(静5-1709)、そこには徳政文言まで付されているから、実際にこれば売却されたも
のと思われる。経済的な貧窮がその理由だるう。
 さらに当時の一族の多くが苦しめられた分割相続もまた、これに追い討ちをかけた。大野一族の内紛を例に挙げるまでもなく、分割相続の対象には、田畠在家はもとより、御堂や社、門堂、炭釜までもが含まれており、その実態は想像する以上に、当時の各一族に重くのしかかっていたことが窺える。このような例は決して迂遠な史料ではなく、南条氏の場合にも当然あてはまるものである。時光による所領の分割は、延慶二年(
1209)から元徳二年(1331)にかけて行われているが、その配分された不動産の中には、やはり大石寺も含まれていた。大石寺敷地の東西分割も、そうした一環として行われたものと思われる。
 建武五年(
1338)の「南条時綱寄進状」や、日賢の記した「大石寺敷地分割図」によれば、大石寺の東方は南条時綱、西方は南条三郎左衛門がそれぞれ相続している。結果的にはこれが係争へと発展していくのであるが、当時の南条家の状況から判断すれば、大石寺の僅かな敷地さえ分割しなければならない貧窮性が認められるのであって、これは致し方のないことであった。


 
A南条家の退出と日郷の入寂


大いしてらのひかしかたハ、ときつなかそりやうなるあひた、のこるところなく、さいしやうのあさりの御はうに、きしんつかまつるところなり。よんてのちのためにきしんのしやう、くたんのことし。
けんふ五ねん五月五日                             平時綱(花押)
  さいしやうのあさりの御はう                              (静
6-199

  日目の入滅から五年が経過した建武五年(
1338)五月五日、南条家の惣領時綱は、当文に見られるように時光より相続した「大石寺東方」を日郷へ寄進した。翌、暦応二年二月十五日には置文を定め、譲状の旨を厳守するよう子孫に書き残している(静6-225)。それにしても、なぜ時綱は日郷へ大石寺の東方を寄進したのか。理由は定かでない。中には時綱の子息、牛王丸(後の日賢・日伝)が日郷へ入門していることを挙げて、時綱に政治的意志のあったことを見いだそうとする見解もあるが、牛王丸は時綱が日郷へ東方を寄進した後に誕生しているから、これはその理由とは別件であって、むしろ日郷が、寄進者の子息を受け入れたものと見なされよう。
 考えられることの一つには、日郷が日目の弟子の筆頭格にあり、大石寺の経営にも精通していた人物だったからということ。もう一つは「南条時綱着到状」(静
6-10)の証判と、先にも引用した安房吉浜法華堂、具体的には日郷に対する「安堵状」(安房妙本寺文書)の袖判が酷似していることから、それぞれに花押を据えた人物――支配者・権力者――が同一人である可能性も指摘され、そのことも何らかの関連があるのではないかと思わせる(83)。           

 ともあれ、時綱は大石寺の東方を日郷へ寄進した。先代の時光の時分には、大石寺は「寺」とはいえ、南条氏所領内の氏寺であって、日興や日目は正式な寄進によるものではなく、暗黙の了解のもとに住していたのである。時光が大石寺を東西に分割して子息に相続させた事実も、いまだ僧侶側へは大石寺を正式に寄進していなかったことを物語るものであり、日興や日目もそのことは承知していたはずである。日興が大石寺に住すること数年にして重須へ移住した事情も、そうした南条氏一族の動向と無縁ではなかろう。南条氏が文書をもって大石寺を寄進する旨を伝えたのは、この「時綱寄進状」が初見であり、ここにいたって南条氏は初めて正式に大石寺を寄進したといえる。
 もちろんその実際は、日興や日目が経営していたのであるから、形式的なことに過ぎないものではある。ともあれ日賢の記した「分割図」によれば、大石寺の西方は南条三郎左衛門が日行へ相続しており、これにより大石寺の「東方」「西方」は文字どおり「坊地」となり、東坊地は日郷、西坊地は日行の知行するところとなった。大石寺は寺院として、一歩前進したことになる。
 しかし南条氏にとっては、これは決して明るい材料といえるものではない。分割相続による一族の相論が絶えず、不動産の処分を明確にせざるを得なかったのである。時綱が日郷へ大石寺東方を寄進したその同じ年、南条高光と節丸との間では「上野郷内在家田畑等」をめぐる相論が行われており(静
6-222223)。南条家の内部抗争、混沌とした状況は依然として続いていたのである。南条家における上野郷内の相論はこれにとどまらず、貞和二年(1346)には、やはり「田在家」をめぐって南条時忠後家と乙松・乙一との間で相論が交わされ(静6-338)、さらには丹波国内の所領でも「仙阿」なる人物と相論が行われており(静6-336)、もはや南条氏は壊滅に近い状態にあった。
 結局これらの相論の解決は、文書からは確認することができず、やがて上野郷の知行者としての南条氏は文献上から姿を消し、替わって今川氏の代官、興津氏が上野郷の地頭として登場する。これに先立つ文和二年(
1353)四月八日、日郷は時綱より寄進を受けた大石寺東坊地並びに御堂について置文を記し、御堂の香華当番を怠ることの無きよう定めている(静6-524)。日郷は置文の中で「日郷円寂之後者、為惣物」すよう遺誠しているが、これは具体的にいえば自らの門弟の意であり、筆頭に定めた日賢がその中心となるものである。この間、大石寺の坊地に関する違乱は全く認められない。
 南条家の分割相続とそれによる相論によって、上野郷は騒擾としていたが、ついに大石寺は、南条氏が上野郷を退出するまでの間、その渦中に巻き込まれることはなかった。それは大石寺が南条氏の氏寺であり、寺院という性格もあったからだろうか。
  しかし、南条氏が退出し日郷が入寂すると、それぞれを相続した僧侶間において、大石寺の坊地をめぐる相論が勃発した。私は大石寺の東坊地をめぐる相論は、この南条氏の上野郷退出と日郷の入寂によって始まったと考えて差し支えないと思う。係争が確認される文和四年(
1355)四月八日の「大石寺蓮蔵坊搦沁磨v(静6-557)に記された「但大石寺東方坊地、如本安堵之時者」の文によれば、日郷の在世中には、後に表面化する西坊地の住僧日行による違乱は無かったとみるべきではないか。日行らが日賢を東坊地から追出しようという意志のあったことは、その後の行動にあきらかであるが、日賢が譲状や置文を帯している以上、不当性は認められないし、また寄進者である時綱、置文を記した日郷の存命中に相論をするのは得策ではない。そしてもし、南条氏がそのまま地頭を勤めていたなら、日行は時綱の置文を反故にできるはずがなく、一時的とはいえ、東坊地を安堵されることもなかっただろう。 

 

B係争の幕開け

去渡申大石寺事
右所者雖為上野郷内法西知行分、任先師相続、如本主寄進、御堂並西東坊中相共、卿阿闍梨日行仁去渡所也。於法西子孫不可違乱妨候。但為後日去状如件。
   貞治四年十一月十三日                          沙弥法西(花押)


 日行が去状(静
6-728)を受けたのは、貞治四年(1265)、日郷の入寂から12年後のことである。南条氏の去った今では、この去状は新寄進にも似た文書といえよう(84)。南条氏の退出後、新地頭に働きかけ、先手を取ったのは日行だった。 一読領解されるように、去状の内容は全く日行の意向をストレートに受け入れたものであり、それまでの事情を知らない興律法西は、そこに署名加判をしたにすぎない。すなわち日行は、大石寺の「御堂並西東坊中」は「先師(日道)」から相続されたものであり、「本主(南条)」から寄進されたものである、と興津氏に訴えたのである。                           
 大石寺の西坊地については、後掲の日賢筆「大石寺敷地分割図」に「西坊敷者南条三郎左衛門跡日行相続地」と明記されているように、これは自他共に認められたものであったが、「東坊中」を南条氏から寄進され、日道から相続されたという主張は、「時綱寄進状」や「日郷置文」は照らせば、不当たる訴えで
あることは明白で、これが時綱や日郷の存命中であれば、まかり通るはずのない暴論である。

 


 日郷の後嗣日賢が、この日行の訴えを看過するはずもなく、早速、駿河守護・今川氏家に対し、日行の「違乱妨」を成敗すべく訴えて出た(静
6-729)。
これを受けた氏家は「興津美作入道(法西)」へ書状を遣わし、日賢の申し分を取り計らうよう、要請している(同上)。
 翌年九月十七日の「法西置文」によれば、この時、日賢は「時綱寄進状並師匠日郷置文」等を証文として添付しており(同
742)、これによって法西も前言を翻し、「止宮内卿阿闍梨日行競望、如元返付中納言阿闍日賢」している(同上)。その後、日賢に安堵すべき旨の文書が七通現存するが(順に静6-743、静補110、静6-768773、要9-42、静6-803)、この間の文書を見ると、やむを得ぬことではある

 けれども、守護や地頭が、それまでのことは勿論のこと、当時の大石寺の状況を全く把握していなかったことが分かる。日行の意向をそのまま受けいれた「法西去状」はその典型といえよう。文献上のこととはいえ、僅か数年の間に大石寺の坊地が壹回しにされたのは、そうした権門大側の認識不足によるものであった。そのことはまた、少なからず日賢に対すろ安堵にも影響を及ぼしている。
 当初より日賢は、東坊地における日行の違乱を停止すべく「時綱寄進状並師匠日郷置文」等を証文として添付しているにもかかわらず、権門大は大石寺そのものを日賢に安堵したり、日賢を「大石寺別当」に任じたりしていろのである。故にこの間に裁許されたのは、「大石寺」(静
6-803)、あるいは「東御堂並坊地」、さらには「別当職」(同743768)であったりと、かなりの錯綜が見られる。前頁に掲げた「分割図」を日賢が記した理由の一つには、そうした駿河守護・上野地頭に対する、状況把握を求める意味もあったのではなかったか。
 日賢が当初から裁許を望んでいたのは「大石寺東御堂並坊地」に対する日行の「違乱妨」であり、大石寺そのものを手中に収めようとするものではなかった。そのことは一巡の官憲文書、そして日賢が「分割図」に「西坊敷者南条三郎左衛門跡日行相続地」と、わざわざ大石寺内に日行の相続地があることを明記していることからも明らかである。
 相論の対象が「大石寺東御堂並坊地」に絞られるのは、文献上では応安三年(
1370)七月三十日の「今川範国書状案」(静6-819)以降のことであるが、その前年の八月十三日に日行は入寂しており、相論はその後嗣、日時ヘと引き継がれていた。また駿河守護の職務活動も応安二年五月からは泰範が行っている。
なお、日賢の記した「分割図」の成立年代について推定しておけば、そこにおいて日賢は、「卿阿闍梨日行、今乱妨人也」と言っているから、日行入寂の応安二年(
1369)が下限であり、相論開始後に、日賢に対する安堵状が発給された貞治五年(1366)を上限とすることができよう。


C大石寺御影堂と奥州の勢力――日時と奥州・下野との関係――


 安房妙本寺に、大石寺東坊地の相論に関する次のような未刊の文書がある。


中納言律師申富士上方上野郷内大石寺東御堂事。任七月廿八日御書下之旨、相尋候之処、於此御堂事者、無異儀候之由申候之間、遣使者沙汰付彼御堂於日賢代候訖。以此旨可有御披露候。恐惶謹言。
   応安二 八月廿五日                          兵庫亮泰基判
    進上板垣左近将監殿


 本状は日行の入寂直後に遣わされたものであるが、これは先立つ七月二十八日に駿河守護より安堵書下が発給されていたことがわかる。日行の入寂は同年八月十三日であるが、この頃の相論は実質的に日時に引き継がれていただるう。本状に見える書下の詳細は不明であるが、泰基の書状に記されているとおり、安堵は依然として日賢に対するものであった。翌応安三年(
1370)五月二十八日には、地頭興津美作入道より
 「大石寺東御堂並坊敷」に関する渡状が日賢に対して発給されている。渡状は現存しないが、同年七月三十日の「今川範国書状案」にその存在が記されており、範国の書状は、渡状を受けて日賢に同地を安堵する旨を伝えたものだった(静
6-819)。
 以降、明徳二年(
1391)まで相論に関する文献はない。つまり、西坊地側(日時)からの違乱はなかったと思われる。おそらくその理由は、そのこる日時が御影堂ならびに御影造立のための勧進活動を展開しう。ここに言う大石寺ので「主人」とは、むろん日時であるが、翌年日時が御影の造立銘を記していることからしても、『門徒古事』の記述の信憑性は高いといえるだろう。
 この御影ならびに御影堂の造立に、どれ程の時と費用を要したかは不明であるが、御影に関しては、幸いに高木豊氏が平安・鎌倉期の文書にみえる仏像の造立銘、注文案等から、造像の費用を抽出してあるのは参考になる。あくまでも参考だが、正安四年(
1302)の「専忠文殊像造立願文」には「文殊造像之間用途員数、惣合二百五十貫文、勧進奉行比丘専忠」と記されており、米に換算すれば二百五十石ほどの費用によって造立されていたことが判明している。
 そしてその浄財を施した勢力、つまり日時を支持する勢力に奥州法華宗、野州法華宗、武州法華宗、駿州法華宗のあったことは注意しなければならない。
 日時が書写した本尊
30幅の内、一幅を除く29幅は、係争のほぼ終結した応永九年(1402)から同十一年(1404)の間に集中している。そしてその授与書に多く見られる奥州や下野の法華衆らが、御影の造立に資材を投じていることは、やはり留意すべきであろう。御影ならびに御影堂造立の勧進者は、むろん日時であったろうが、後年、宮内阿闍梨日主が「大堂願主之為褒美」本尊を授与したという例があるように(要8-199)、日時による奥州・下野法華衆らへの本尊の授与もまた、その意を合んだものであったと考えられるのである。
 そして後述するように、安堵料を含めた長期にわたる係争の費用についても、彼らのバックアップがあったろうことも容易に推測されよう。
 奥州の法華衆徒が、草創期いらいの大石寺を経済的に支えていたことは、既述のとおりであるが、日時はその奥州法華衆徒、そして後に奥州と同等、もしくはそれ以上の財力を待った下野法華衆徒との間に、非常に強いパイプを持っていた。両者の関係は前掲の造立銘や本尊の授与によってほぼ立証されるが、日時の入寂後も、奥州の僧俗は日時の三回忌、七回忌のそれぞれに「奉謹以造立処也」との碑文を板碑に彫刻し、日
時への報恩を謝しており、両者の親近さは予想以上に密接であったろうと思われる。奥州の法華衆徒にとって、日時は上新田坊を日目より継いだ日道の法孫にあたり、本寺である大石寺の係争に関しても、全面的に日時を支持しようという傾向は強かったに違いない。
 そのような日時と奥州との関係から、久保常晴氏は、日時の出自は奥州ではなかったか、と推測されている。また日時の先師日行は、奥州加賀野氏の出身者だったし、その先師、日道は新田家の惣領頼綱の子息であり、さらに初期大石寺の主僧、日目の出自も新田氏だったことを思えば、自ずと被支持者と同地との関連が見えてくる。
 そしてもう一つの勢力、下野との関係はどのようにして成立したのか。考えられるのは民部阿闍梨日盛の存在である。日盛が日目の在世中より「大石寺ー鎌倉
下野ー奥州」のパイプ役であったことは既に述べたが、日時はその日盛とも密接な関係にあったと思われる。例えば日盛書写の『御筆集』に「謹奉相伝之、日時(花押)」と記されており、同じく日盛書写の『日満抄』の奥にも「日時相伝之」の文が見える。下野のみならず、武州法華衆も、おそらく日盛の住坊が存在した鎌倉を中心とする勢力だったろう。早くから大石寺の経営に携わり、その状況を熟知していた日盛が支持したのも、やはり日時だったと思われる。
 このように、大石寺を取りまく勢力が、何れも日時を支援していたことは、日時にとってはこの上ない力であり、対する日賢にとっては大きな痛手となったに違いない。最終的に日賢が退出を余儀なくされたのは、こうした勢力への対抗馬を、日賢側が持ち合わせていなかったからではなかったか。


D日伝の退出


 前項において述べたとおり、嘉慶二年、日時は強力なバックアップのもと、御影堂ならびに御影を造立したが、それを終えると再び大石寺東坊地の獲得に乗り出した


  (端裏書)「明徳二 初度御書案文」
中納言律師日賢申富士上方上野郷内大石寺東御堂並坊地事。先年就心省之挙状申候之間、故法西禅門無異義被沙汰付日賢当知行之処、近日錯乱之由歎申候。不便次第候歟。無相違之様計沙汰候者、悦入候。恐々謹言。
   明徳二 六月十五日                                泰範御判
    興津美作守殿                                       (要
9-43

 本書状は先の今川範国書状から
21年を経て、再浮上した相論関係文書であるが、この間、権門側にも大きな変化があったようである。本文に明らかなとおり、上野郷の地頭、興律法西はすでに入寂しており、おそらく日賢は、その後嗣興津美作守(法陽)は対し、代替による新寄進を求めたと思われる。しかし、この時は「近日錯乱之由歎申候」とあるように、西坊地側はよる違乱が再開されていた。しかも、日時による違乱はかなり強行だったようで、泰範の「無相違之様計沙汰候者、悦入候」との伝達は全く功を奏しなかった。同年八月二十九日の書状において、泰範は興律法陽に対し「先立申候之処、不事行候之条、何様之次第候哉。無心元候」(静6-126)と言っている。さらに同年十二月十四日の書状(年号は推定)においても同様の催促を行っているから(同1127)、興津氏は日時による違乱を退けられなかったと解される。
 翌年、泰範は次のような書下(同
1144)を発給し、日時による違乱を退けるよう、再び求めた。


中納言律師日伝 改賢字 申、駿河國富士上方上野郷内大石寺東御堂井坊地等事。
右、云相伝、云知行文書、炳焉之処、卿阿闍梨日時掠領無謂之間、可返付日伝之旨、当郷地頭興津美作守方江去年中至于三ヶ度雖遣書状、一切不承引之上者、違背之科難遁。然早退日時掠領、所返付日伝也。
    領掌不可有相違之状如件。
   明徳三年六月十二日  

                                                         前上総介(花押)


 当文に明らかなとおり、日賢は日伝と改名している。文中にみえる三ヶ度の書状とは、前掲の明徳二年の書状三通を指しており、十二月十四日付の書状(無年号文書)を同年に推定したのも、その内容とこの書下に見える「当郷地頭興津美作守方江去年中至于三ヶ度雖遣書状」の文とを勘合した結果である。書下を受けた今川家奉行人の範綱、高久の両名は、同日に連署の「奉書」を記し、日時の掠領を成敗し日伝に安堵するよう目代(興津法陽力)に求めた(同
1145)。
 このように、文面上では一貫して日伝に安堵すべき旨がうたわれていたが、換言すれば日伝は、常に安堵を求め続けなければならない劣勢に立たされていたのでる。それにしても、これ程まで立て続けに安堵すべき旨の文書が発給されているのにも拘わらず、その効力は全くといってよいほど発揮していないのであり、日時とそれを取りまく勢力は、想像する以上に強固なものであったと思われる。
 日伝が文面に反して劣勢であった理由を、堀日亨は大衆の支持を得られなかった、と推測しているが、有力な見解だるう。ここに言う大衆とは、むろん日時を支持する僧俗であり、先に挙げた奥州等の勢力を含むものである。
 ところで、こうした長期に及ぶ相論の中では、訴人と権門人との間において、次のような行為も行われていた。東京某氏の蔵する「今川泰範書状」を挙げよう。

  不思寄存候処、鞦一員、羽二尻送給候条、令悦喜候。諸事期後信時候。恐々謹言。
   三月六日                                  泰範(花押)
  大石寺別当御中                         (要
9- 4
 
かって阿部猛氏が、東寺百合文書「厳而書状」に見える「一献をすすむ」行為、すなわち奉行人に賄賂をおくり、訴訟を有利に進めようとした例のあることを紹介されたが(、 「大石寺別当」による守護への貢ぎ物もまた、これと同義のものと見なされよう。本書状は無年号文書のため、宛所にある「大石寺別当」が日時、日伝の何れを指すのかは分からない。明徳三年(
1392)以前ならば日伝、同四年以降であれば日時である。
 ともあれ、そのような賄賂行為が、大石寺の坊地をめぐる相論においても行われていたのである。また日伝は、明徳三年、守護方に「安堵料」として「三十貫文」を支払っているが(静
6-11471153)、いっぽうの日時側も、その系譜に連なる日有の談『御物語聴聞抄』には(大石カ原ト申ハ上代地頭奥(興)津方ヨリ永代ヲ限り十八貫ニ買得ニテ候」と記されており、明徳年間には、そうした金銭絡みの攻防も行われていたと思われる。
 日時はその攻防に応戦する傍ら、大石寺内では多くの支持を得ているものの、「云相伝、云知行文書、炳焉之処、卿阿闍梨日時掠領無謂」(静
6-1144)と、その不当性を指摘され、守護より安堵を得られないとさとってか、明徳二年七月には、次のような目安(静6-1149)を鎌倉府に提出し、事態の打開をはかっている。


駿河国上野郷大石寺別当宮内卿阿{  }当寺東僧坊同別当坊屋数等間口(事)
     副進
    一巻 当所管領証文等案
右当寺者、従開山日蓮上人迄于口口(日時)相続無相違者也。爰中納言阿闍梨日伝依有不口(慮)子細、蒙先師日目上人之勘当之間、年来令停止寺口(中)経廻之段、世以無其隠。然先師円寂之後、相語権門人、点別当坊敷、建立新御堂、剰押領東僧坊、背先師遺命、致門家乱逆之条、言語道断所行也。依之於地頭作州方就訴申、任道理、如元被返付宮内卿阿闍梨日口(時)畢。随而当知行無相違之処、彼日伝竊奉掠守護御方、申成御吹挙云々。造意之企、以外濫吹也。然早被召口所掠給御書下、永被停止彼之非分奸訴、於卿闍梨口(梨)日時者、任相伝当知行之理運、預永代不易之御成口(敗)、弥為抽大下太平、御家門繁栄御婚之祷懸念。粗目安言上如件。
   明徳三年七月 日


 日時の執念を感じさせはするが、目安の内容は全く事実に反したものである。まず、日伝が日目より勘当を蒙り、大石寺寺中の経廻を停止されていたというが、日伝は日目滅後に誕生した人物であり、そのようなことは年代的に不可能である。また日目滅後に権門人と語らって新御堂を建立し、東僧坊を押領したというのも、全く一方的な言いがかりであり、そのことは時綱の寄進状や日郷置文に照らせば明白であるう。さらに「大石寺別当」を名乗り、上野地頭興津氏によって東坊地は、自らが安堵されていたかのようなことまで言っている。          

 このような虚言は塗り固められた訴状の内容を通観すれば、それを証明すべく「副進」じた「当所管領証文等案」の存在も、その内容を疑わざろを得ない。訴人の副えた証文中に偽文書が挿入されていた例のあろことは、早く笠松宏至氏の指摘されたところであろが、「裁判が徹底して当事者主義を原則とし、証拠も
 自ら提出したものがすべてであった」という時代にあっては、偽証文書の見分けも困難だったと思われる。事実、笠松氏の指摘された偽文書は、その裁判を左右し、幕府の公式記録にまで影響を及ぼしていたのである。日時の副えた証文中にも、そのような文書が挿入されていた可能性があろう。
  この目安は、相論中に見られろ西坊地側の唯一の文書であろが、ここにおいて注目すべきは、日時はこれ程あからさまな事実無根の偽証を述べておきながら、「従開山日蓮上人至迄于口
(日時)」の経過の中に、日伝の先師日郷や南条時綱に関しては何らコメントが見られず、この訴状による限り、日時は東坊地の押領は、日伝はよるものと認識していたかのようにも見てとれる。もっとも時綱や日郷の存在はついては、触れることを避けなければならなかったのかも知れないが。なお日時談の『大石記』にもまた、日郷は関すろ批判的記述は見られず、留意しておく必要があろう。
 ともあれ、翌年以降は状況が一変して、安堵は日時に対するものとなった。それにしても、このような吹挙のみで状況が一変したとは考えられず、日時の鎌倉府に対すろ働きかけは、想像する以上のものがあったに違いない。また披見が不可能なので事実を指摘できないが、存疑濃厚な「当所管領証文等案」の内容も、その吹挙を事実と誤認させろに相当なものだったのだろう。ともかく日時の手筈を整えた行動は功を奏し、しかもそれは速効だったのである。鎌倉府
駿河守護上野地頭への伝達は、そう時間を要するものではなかったらしい。
 まずは明徳四年(
1393)正月二十三日、散位某は書下を発給し「任明徳三年十二月九日御施行之旨」せて、日時に大石寺を安堵するよう「興津又六」に報じ(静6-115)、これを受けた泰遠は、同年三月十七日、やはり大石寺を日時に交付している(同1156)。
 それ以降、日伝による奪回活動は文面からは窺うことができない。もはやその気力も、日時とその支持者に対抗する勢力もなかったのか、それとも東坊地を知行していくことは不可能と判断したのか、それは分からない。権門人もまた、手のひらを返したように日伝を支持しなくなった。
 応永十年(
1403)七月十二日、今川泰範は書下を発給し、日時に大石寺を安堵している(同1320)。そして同十二年卯月十三日、上野郷地頭、興律法陽の去状(同1350)によって、大石寺は日時の知行すろところとなった。先師日行が法西より去状を受けてから、実に四十年が経っていた。 

    
さり状
右、富士の上方上野郷内大石寺の東坊地者、法陽か雖為知行分之内、如本別当卿阿闇梨日時にさりわたし申也。但中納言阿闇梨日伝、彼ひかし坊地を令競望依掠申、権門様御不知案内之間、御口入候によりて、しハらく彼仁のかたへわたし候といへとも、もとよりの理運にまかせて、日時のかたへわたし申処也。仍法陽か子々孫々異義あろへからす候。若此旨を違背せん輩においてハ、不孝の仁として、法陽か所領を全不可知行候。仍為後日さり状如件。
   応永十二年乙酉卯月十三日  

                                                     沙弥法陽(花押)


 駿河守護も興津氏も、それまでは、日伝の副えた証文「時綱寄進状並師匠日郷置文」によって「云相伝、云知行文書、炳焉之処、卿阿闇梨日時掠領無謂」(静
6-1144)と言っていたのである。しかし今は違う。掠領していたのは一転して日伝となり、「権門様御不知案内之間、御口入候によりて、しハらく彼仁のかたへわたし候」との遁辞が付加されろにいたった。
 こうして大石寺を手中に収めた日時は、侍従阿闇梨日周を通じて、日伝に御影の返還を求め、係争の決算をはかっている。


返々去年退屈之状給由候とて、其由を被申候つれとも是にてはや御中を愚僧申なをして候之間、判形ねんころにまいらせられ候事、目出度存候。尚々興津方の事更に異義なくあられ候。およそは返々御心やすく候へく候。目出炭候。
其後久不入御見参候之間、真俗共御床敷存候。抑坊地之事により候て先度人を進候處に委細承申候條、悦喜申候。就其候者興津殿之状、同子息豊後守殿御状まいらせられ候程に目出度存候。大なる人の方へ加様の大事の口入申候事はたやすからぬ事にて候へ共、興津の状被進候し程に悦喜申候。人目内と申早々御影をも如元帰まいらせ給候は、目出度候由披露申させ給候は目出度存候。恐々謹言。
   五月十三日                                僧日時(花押)
    侍従阿闍梨御房                                    (静補
125


 結局、大石寺に安置されていた御影は戻ることはなく、嘉慶二年に日時が造立した御影が、それ以降も安置されろことになった。日時も御影については譲歩したのではないか。日伝側の返状がないので、何ともいえないが、本状の雰囲気から窺えば、大石寺の東坊地については、日伝側も断念していたようである。
 それにしても、このような結末を迎える要因となったのは何だったのか。一つには、しばしば述べてきたように、日時とその支持勢力による影響である。日伝は明確な証文
――時綱寄進状並師匠日郷置文――があつたにもかかわらず、常に劣勢に立たされていたのは、やはり経済力をはじめとする日時への対抗勢力がなかったからにほかならず、大衆有力者の支持を得られなかったからだろう。嘉慶二年に日時が堂々と大石寺の中央に御影堂を造営し得たのも、日時が寺内の支持を得ていたことの証左である。
 前章において考察したように、近世の『家中抄』や妙本寺文書、さらにその説を踏襲した『日蓮教団全史』などは、日道門下が大石寺を手中に収めた理由として、南条氏との俗縁関係による相続説を挙げている。開基檀越が南条氏であることを勘案すれば、もっとも妥当な見解と思われるかもしれない。しかし相論が開
始された時には、すでに南条氏は上野郷から退いており、その影響は殆んど考えられない。まして相論において常に劣勢に立たされ、退出を余儀なくされた日伝は、南条家の惣領、時綱の子息だったのであり、対する日行は、奥州加賀野氏の出身者であった。
 私はこの構図
――日伝(南条)・日行(奥州)――から、相論の結末に多大な影響を及ぼしたのは、南条氏ではなく、奥州を中心とする勢力だったと結論する。開基檀越南条氏が上野郷の地頭であった頃には、さすがに奥州の勢力も、南条氏を軽んずることはなかったろうと思う。しかしその南条氏は上野郷を退出してしまったのである。奥州勢の本寺を支えようという意識は、当然ながらそれまで以上の高まりを見せただろうし、同族から大石寺の主僧を推挙しようという動きも生じたことだろう。
 日行が自発的に突如として名乗りを挙げたとは考えられず、それは彼らのバックアップがあったからこそ、なし得た事ではなかったか。そして奥州の法華衆徒には、本寺である大石寺を草創期以来、常に支えてきたという自負心があり、実際にその勢力は、大石寺の経営を大きく左右してきたし、相論の結末にも多大な影響を及ぼしたと言えよう。その他、日時による鎌倉府への働きかけも功を奏し、安堵料をはじめとする、権門人への賄賂行為などは、係争を長期に及ばした理由だったろう。日時門下の日有が、大石寺は「地頭奥(興)津方ヨリ永代ヲ限り十八貫ニ買得」したといっているが、その終止符は安堵料によって打たれたのかも知れない。
 係争の終結した翌応永十三年(
1406)六月四日、大石寺を手中に収めた日時は入寂した。その生涯の大半をこの相論に費やしたのだった。いっぽう日伝は、同二十三年卯月八日、北山の諸檀那道場を「上野蓮蔵坊彼所移申」と意義付け、これを「総門徒本山」と定めた(静補133号)。そして同年十月十一日、やはり
係争に費やしたその生涯を終えたのだった。こうして、長期に亘った相論は終結した。


E係争のあと


 以上のように、大石寺東坊地をめぐる相論は、日伝の退出をもって決着をみた。日有の言葉を借りれば、大石寺は日道の門下が「地頭奥(興)津方ヨリ永代ヲ限り十八貫ニ買得」したものであったが、この長期に亘る係争によって、日道・日郷の門下は互いに心情を害し、士地争いのはずが、血脈の有無による正嫡争いへと発展していく。日行や日時の代には、あくまでもこれは士地の相続争いであったし、当人にもその意識があった。即ち日行は大石寺の御堂ならびに東西坊地を「先師の相続」によるものといい、日時も訴状案に
 「当寺者従開山日蓮上人至迄子口口(日時)、相続無相違者也」と述べている。とこるが日有の代になると、物件の相続はもとより、仏法の付嘱(血脈)の有無が加わっていく。即ち日有は「聞書拾遺」に「此ノ大石寺ハ高祖ヨリ以来子今佛法ノ付嘱不切次第シテ候」といい、さらに寛正二年には、次のような「歴代忌日表」と称される文書を記して、そのことを後世に知らしめんとした。


  日蓮聖人 十月十三日

  日興上人 二月七日

  日目上人 十一月十五日

  日道上人 二月廿六日

  日行上人 八月十三日

  日時上人 六月四日

  日阿上人 二月十日

  日影上人 八月四日
   寛正二年十月廿九日  日有(花押) 

 既にここには、東坊地に住していた日郷・日伝の名は除外されており、門流意識が確立されていたことを物語っている。先に考察した日仙・日代も「読不読問答」によって除かれているが、もはや両者間の門流意識の中に、日仙・日代は存在していなかっただろう。
 いっぽう、日有の画いた大石寺の血脈系譜に対し、日郷門下が批判を加えるのは必至で、本乗寺日会は『大石寺久遠寺問答事』において、両門下の不和の由来と現状を次のように述べている。

日道ハ開山上人之御弟子ニテ日目上人ノ御弟子ト号シテ日目上人ノ血脈日道也ト沙汰候。西坊白蓮坊ハ重須蔵人阿闍梨日代御成汲(敗)候処ニ、日代本迹ニ御迷乱候テ鎌倉方ノ所立ニ同シ御座候間、重須ノ大衆御問答候テ日代重須御退出、於今ニ西山ノ御建立也。隆眼前之礼(例)証也。故二日目上人ノ御法水日道也ト沙汰被申乱間、日郷門徒トシテ伯者阿闍梨日道盛ニ御房地御相論、中古代々已来義絶於今如此畢。御坊地相論文証、日郷上人代々引付分明也。爰ニ及近代御坊地故ノ義絶ニ無之候テ、日目上人ノ法水日郷上人ニ無之間、日郷門徒トシテハ不被帰日道門徒ニ候テハ可致成仏法水断絶旨、自近代於当代門徒義絶之段也。此趣於中古都鄙僻見ノ重也。其意趣既ニ大口近代大石自日持
(時)坊(房)州妙本寺日伝上人・侍従(従)阿闍梨日周上人両御代ニ日時ヨリ書状妙本寺ニ細(来)リ候。其御状ノ趣分明ニ御坊地故ノ相明白也。取詮其状云、大石寺東方ハー縁ニときつなかしよりうたるによつて、さいしやうのあさり日郷上人きしんしたてまつろところ実也。もししそん此むねニそむかんともからハ、不けうはうぽうの(者)たるへし。よつてのちのためくたんのことし云々。又其後日時より日周上人江の御状、これ又いささか御えいもとのことく大いしへ入御申めてたく可存候。地頭興津方より懇ニおほせられ候ヘハまゝと□□目出度存へきむね御状候。取詮此等の明鏡分明ノ条、ひとヘニ東房御坊地之相論明白也。中古以来此段ニ候処ニ、及日有之代ニ血脈の伝不伝沙汰候テ、一向日郷門跡堕獄なとゝ雑意諂曲不実浅間敷次第。


 引用が長くなってしまったけれども、要すろに日会の批判は、そもそも日道・日郷による相論は、坊地をめぐるものであったが、日有はこれを血脈の正嫡による論争にすり替えた、というものである。日有が自門の正当性を血脈によって立証しようとしたことは、前掲の文書によって明らかであるが、何よりもこの日会の批判の中で注目されるのは、日行・日時と日伝とによって争われた東坊地の相論を、両者の師である日道と日郷の代にまで遡らせていることである。
 これはあきらかに日有の画いた血脈の系譜、すなわち大石寺の歴代から日郷・口伝が除かれていることに対する反動で、とりわけ「日目ー日道」の系譜は、言ってみれば日興の弟子である日道に、日郷の坊職を奪われたようなものであるから、日郷の門下としては強い批判を加える必要があっただろう。冒頭の「日道は開山上人の御弟子にて日目上入の御弟子と号し」云云は、まさしくそれを語るものであり、これは前掲した 「日道六箇条謗法事」の第二条にも挙げられている。日道にそうした発言があったか否かはなお不明であるが、先述したとおり、日道は署名に白蓮、伯耆阿闍梨、伯耆房という、日興の房号・阿闍梨号を記し、さらに「申状案」の冒頭にも「日蓮聖人弟子日興遺弟日道」と記している。これらは何れも日道の自筆が伝わっており、文献的にも信憑性の高いものであるが、これをもってすれば、日会の批判や、「日道六箇条謗法事」の記述は、やはり対立感情から付加されたものと判断せざるを得ない。
 おそらく日有や日会の頃になると、対立者の先師である日道・日郷を、それぞれの立場から批判する必要があったのではなかるうか。血脈による正当性を立証しようとする日有は、自らの系譜を画き「日郷門跡堕獄」といい、対する日郷門下は、日有側の系譜に日目の弟子として日道が連なっていることを批判し「日道は開山上人の御弟子にて日目上人の御弟子と号し」という。この批判を含めた「日道六箇条謗法事」なども、そのような過程の中で作られたものであろう。
 日会が『大石寺久遠寺問答事』に続けて「大石日有ノ代ヨリ当代房(坊)地故ノ不和ニシテ差置、盛日目上人ノ智水ノ有無ヲ被申来候。結句日郷門徒として大石日道・日行ノ法水ニ無相伝者、堕獄ナトナト沙汰」するに至ったと述べているが、それは事実だったと思われる。そしてまた、日行・日時と日伝との対立関係を見れば、大石寺東坊地の争いは、すでに日道と日郷の代にあったと見るのも無理からぬことである。
 こうして、日行と日伝にはじまった坊地の争いは、やがてその門下によって、日道と日郷との争いに遡らされ、近世に入ると了玄日精の『家中抄』の記述と、それに対する反論が入り乱れ、これに感情論から生じた様々な虚構が付加されて、いわゆる「道郷論争」は成立した。そしてこの日精説によって完成の域に到達
した「道郷論争」の記述ば、近現代の書物に多大な影響を与えており、諸文献を検討すろことなく、日蓮門下の事典にまで定説のごとく記されるは至ったのである。
 よって、現在流布している「道郷論争」については、信憑性を欠く記述があまりにも多く、やはり再検討を要すると判断されるのである。


 むすび

 以上、道郷論争の成立とその背景について、東坊地の係争を通じて若干の考察を試みた。道郷論争についてはい両門下のいだく門閥意識によって掻き回され、一点一点の文献の整理と批判を加えることに精一杯だったのが実状で、体系的な批判と私見を充分に提示できたかどうかは甚だ心許ない。また日道・日郷の自筆文書による論争の痕跡が見えなかったために、微小な文献をもって、推論の行きすぎた箇所も多々あろうかと思う。諸賢のご批判をお願いする次第である。道郷論争については、未検に終った事項が多く、私自身さらなる考察をすすめて行きたいと考えている。特に下之坊の位置づけは、まったく曖昧なまま終ってしまったし、東坊地の相論に主眼があったため、西坊地や、その主職であった日代についても、充分な論究ができなかった。今後の課題である。
 いっぽうの東坊地の相論については、二章において現存文書を公平に分析し、それなりの結論を出したつもりである。すなわち、東坊地の相論は、南条家の退出と日郷の入寂を機に、日行が押領したことにより始まったこと、また係争の結果に影響を及ぼしたのは、従来の説、すなわち南条家の縁・無縁によるものではなく、草創期いらい、大石寺を支えてきた奥州をはじめとする旧来の勢力であったこと、などを述べた。
 そして、東坊地の係争は、道郷論争の延長のように言われてきたが、逆に東坊地の係争の終結後に深化した、両門下によろ対立感情から道郷論争は作り上げられたことなども提示しておいた。
 近年における道郷論争に関する考察といえば、決まって日精の『家中抄』説をもとに進められてきたが、本稿では、日精説それ自体を疑問視し、どのような過程においてその説が成り立ったのか、換言すれば、道郷論争は何にして成立したかを考察することに主眼をおいた。すなわち、道郷論争から東坊地の係争を観るのではなく、東坊地の係争から道郷論争の実体を探ろうという、時代の流れに逆行する方法を採ったわけである。それは日精説の再検討だけでは、全く従来の焼き直しになってしまうからであり、本稿における考察方法は、事態の打開を図るための試論の一つであり、それを実行したものである。もとよりそれは、私に
 「道郷論争は架空のものである」という固定観念にも似たものがあったからこそ、なし得たことであり、そもそもの方法論の可否についてもご批判をいただければと思う。
 それから本稿では、係争後に記された大石寺の系譜を再考すろために、日道と大石寺との関わりについての批判的考察をしたが、ついに大石寺における日道の活動は見られなかった。また日精等によって付加された、日道の位置づけを排除したが、そのことを強調したことによって、ややもすれば日道に対する批判的な印象を与えたかも知れない。しかし富士門流は、何も大石寺のみによって成り立っていたのではなく、むしる日興の在世中に、その拠点となっていたのは重須大坊であり、日道はそこにおいて「日興上人御遺告」を筆録し、『三師御伝土代』を完成させるなど、大石寺の日盛や日郷には見られない活躍がある。ゆえに日道が当時の富士門流における重鎮たることを否定したのではない。

その末弟のいだく正嫡意識はよって、日道は無理に「大石寺四世」に固定されてしまったからこそ、さまざまな矛盾が生じるのであり、本来は存在しなかった、そのような肩書きを取り外し、当時の富士門流という枠の中で捉えようとするならば、日道の存在価値は、改めて確認されるだろうし、現在の系譜をそのまま当時に持ち込めは、当然ながら矛盾が生じるし、過小評価を与える結果となるだろう。
 日道や日代の位置、そして大石寺と重須本門寺など、富士門流をトータル面から捉える考察も、今後の大きな課題となろう。また、これを機に富士門流の諸問題に関すろ議論の高まることを、切に願うものである。
 なお、本稿において引用した文献の殆どは、大黒喜道編『日興門流上代事典』に解説が加えられている。その一つ一つの文献解釈については、全く触れろことはできなかったが、異見をはじめ、本稿を補ってくれるものが多々あるので、是非とも参照されたい。

 

 


 

東坊地係争関連略年表

元弘二年(
1333)十一月十五日      新田卿阿闍梨日目寂
建武元年(
1334)正月七日         方便品読不読問答(仙代問答)
  元年(
1334)二月二十六日       日道、日目百箇日の追善のため本尊を書写
  元年(
1334)六月十六日         日郷『薬王品得意抄』に奥書す
  元年(
1334)大月一日          日睿、大衆の推挙により、日延跡に住す(日睿縁起)
  二年(
1335)正月二十四日       日道日尊へ書を遣わす
  二年(
1335)三月十一日         日郷、某より安房吉浜法華堂敷地を安堵される
  二年(
1335)春               日睿と日道に不和が生ず(日睿縁起)
  二年(
1335)五月二十八日       日道、『諌暁八幡抄』に裏書す
  二年(
1335)六月中旬          日郷、大石寺御仏前において日睿に法門を相伝(類聚記)
  二年(
1335)六月十七日         日道と日睿との不和に日郷が介在
  二年(
1335)七月二十八日       日道、『諌暁八幡抄』に裏書す
  二年(
1335)八月二十八日       日道、『諌暁八幡抄』に裏書す
  二年(
1335)十二月一日         日郷、安房国吉浜において日睿に法門を相伝(類聚記)
  二年(
1335)十二月十五日         日道、御書四通を日行へ授与
  三年(
1336)二月十五日          日道、本尊を書写
  三年(
1336)二月二十日          日郷、安房国磯村において日睿に法門を相伝(類聚記)
  三年(
1336)二月二日            日郷、再び安房国磯村において日睿に法門を相伝(類聚記)
  三年(
1336)五月十二日          日道、日興写本『法華本門取要抄』を日行へ授与
  三年(
1336)六月六日            日道、『諌暁八幡抄』を読誦し終る
  三年(
1336)八月四日            日道、『法華経題目抄』の奥に加筆
建武四年(
1337)二月下旬           日道、「聴講見聞録」を日目の遺言により、大弐阿開梨日寿に授与
  四年(
1337)五月二十四日         日道、『安国論問答』奥に御書二通を抄写し、六月二十五日にかけて夢想を記す
  五年(
1338)五月五日            時綱、大石寺東坊地を日郷に寄進
暦応元年(
1338)十一月一日          某袖判「吉浜代官職補任状」が発給される
  二年(
1339)二月十五日           時綱「置文」を作成、「寄進状」の旨を厳守するよう定む
                       
    ※この年南条牛王丸(日伝)誕生
  三年(
1340)七月十五日          日郷、延年寺成願より鳥辺山の日目廟所を求む
  四年(
1341)二月五日            日睿、蓮蔵坊に参着し、重須大衆に見参(日睿縁起)。
  四年(
1341)二月十二日          日睿、安房吉浜にて日郷より法門を相承される(日睿縁起)
  四年(
1341)二月廿六日          伯耆阿闍梨日道寂
  四年(
1341)二月十八日        時長、大石寺東大門につき「時綱寄進状・置文」に相違なきことを記す
康永二年(
1343)二月二十八日       日郷、本尊を書写し女夜叉に授与

  二年(1343)四月             日尊、鳥辺山廟所に逆修塔を建つ
  二年(
1343)四月十六日        日郷、万年救護本尊の讃文を書写す
  三年(
1344)閏二月廿八日       日睿、成願後家尼より鳥辺山の日目廟所を求む
  三年(
1344)八月一日          日郷、本尊を書写し、龍玉丸に授与
  三年(
1344)八月十五日        日郷、本尊を書写す
  三年(
1344)八月十八日        日睿、大石寺大経所にて日郷より法門を相承される(日睿縁起)
  三年(
1344)十二月           日睿、蓮蔵坊に参着し、越年する(日睿縁起)
  三年(
1344)十二月十二日       日郷、本尊を書写し、円命に授与
  三年(
1344)十二月            日郷、本尊を書写す
貞和元年(
1345)              日興・日目十二回忌
  元年(
1345)正月            日郷、本尊を書写す
  元年(
1345)二月七日         日郷・日睿、大石寺における日興十三回忌に参列す(日睿縁起)
  元年(
1345)二月大日         日郷、奏聞のため上洛。日容同伴(日睿縁起)
  元年(
1345)二月七日         日郷、七条坊門にて日睿に法門を相伝す(日睿縁起)
貞和元年(
1345)五月二十一日      日盛、「御筆集」を書写す
  元年(
1345)六月十二日         日郷、本尊を書写し、高松に授与
  元年(
1345)六月十五日         日郷、本尊を書写す
  三年(
1347)七月十八日         日郷、成願後家尼より鳥辺山の日目廟所を求む
  四年(
1348)二月十日           慶俊、「問答記録」を書写す
  五年(
1349)                日興・日目十七回忌
  五年(
1349)                日郷、上洛奏聞(日睿縁起)
  五年(
1349)正月             日郷、本尊を書写し、容祐に授与
  五年(
1349)正月             日郷、本尊を書写す
  五年(
1349)六月十二日        日睿「類聚記」を編む
  五年(
1349)六月二十八日       日郷、本尊を書写す
  五年(
1349)九月二十一日           日郷、本尊を書写す
  五年(
1349)十一月十五日          日郷、京都にて日目十七回忌を修す(日睿縁起)
観応九年(
1350)七月七日            日郷、本尊を書写す
文和二年(
1353)四月八日            日郷「置文」を作成、日郷入寂後も大石寺東御堂番を僧衆で勤めるよう記す
  二年(
1353)四月八日              日郷「置文」を作成、吉浜の法華堂の重宝守護につき衆徒に書き置く
  二年(
1353)四月八日              日郷「置文」を作成、吉浜の法華堂を南条牛王丸(日伝)に付属す
  二年(
1353)四月八日              日郷「置文」を作成、暫定的に吉浜の法華堂を日明に付属す
  二年(
1353)四月十七日            日郷「置文」を作成、日明に安房伊戸村の法華堂を付属す
  二年(
1353)四月廿五日            宰相阿闍梨日郷寂
  四年(
1355)四月廿五日            日郷の弟子ら「大石寺蓮蔵坊薗次事」を定む
  四年(
1355)四月廿五日            日郷の弟子らによって「大石寺蓮蔵坊三月宛番帳事」が定められる
延文九年(
1356)十月七日           日助、大石寺安置の御影が南条時長に奪われた旨の「置状」を記す
  二年(
1357)正月七日             上蓮坊日仙寂
  四年(
1359)十月二十五日         日盛、「日満抄」を書写す
貞治四年(
1365)二月五日           日睿ら、大衆同心して日興・日目・日郷の仏事を修す。六日の説法を日容、七日の
                
                  説法は日明が勤める(日容縁起)
  四年(
1365)三月十一日           日睿、蓮蔵坊に参着し、同日式部阿闍梨の坊に留まる(日睿縁起)
  四年(
1365)三月十再日           日伝、成音より鳥辺山の日目廟所を求む
  四年(
1365)十一月十三日         沙弥法西、大石寺御堂・東西坊地を日行に去り渡す
  四年(
1365)十二月廿九日        今川氏家、日賢の申し分を取りはからうよう上野地頭興津美作入道に依頼す
  五年(
1366)九月十七日           沙弥法西、日行の訴えを退け大石寺御堂・坊地を日賢に返付する旨を記す
  五年
(1366)十月十四日          日賢、大石寺別当職に任じられる
  六年(
1367)十月八日             法船、大石寺を日賢に安堵した旨を上野地頭・興津美作入道に報ず
  七年(
1368)二月廿八日          今川範国、大石寺別当職・東坊地を日賢に知行させるよう、興律法西に求める
応安元年(
1368)四月十六日        範国、大石寺東御堂並坊地につき、日賢に安堵するよう今川氏家に報ず
  二年(
1369)五月廿八日          法西、日賢に大石寺東御堂・坊地寄進の証文を与う
  二年(
1369)五月廿八日          駿河守護・今川泰範、大石寺が日賢に安堵された旨を報ず
  二年(
1369)七月廿八日         大石寺東坊地につき今川家より書下が出される日賢に安堵)
  二年(
1369)八月十二日         加賀野卿阿闍梨日行寂 これより先、日賢「大石寺敷地分割図」を記す
  二年(
1369)八月廿五日         泰基、七月廿七日の書下の旨に相違なきことを板垣左近将監に報ず
  三年(
1370)七月世日           守護・今川泰範、大石寺東御堂・坊地等の安堵状を日賢に与う
嘉慶二年(
1388)十月十三日      日時、大石寺に御影堂ならびに御影を造立
明徳二年(
1391)八月廿九日      守護・今川泰範、大石寺東御堂・坊地等を日賢に安堵するよう興律法陽に求める
  二年(
1391)十二月十四日       今川泰範、再び大石寺東御堂・坊地等を日賢に安堵するよう興津美作守に求める。
                 
             これより先、日賢、今川泰範に安堵状が効を奏していない旨を訴える
  二年(
1392)六月十二日         泰範、東御堂・坊地等につき、日時の押領を退け日伝(日賢改)の領承を認める旨
                 
             の交付を命ずる。同日今川家奉行人、連署をもって東坊地を日伝に沙汰するよう
                 
             目代(興津法陽カ)に報ず
  三年(
1392)七月五日           氏清、大石寺東坊地の安堵料(二十貫文)につき、味出某に書を報ず
明徳三年(
1392)七月七日        光俊、大石寺東御堂・坊地を日伝に打渡す
  三年(
1392)四月十三日        日時、本尊を書写し、奥州一迫伊与公に授与す
  三年(
1392)七月              日時、日伝の訴えを退け、大石寺東僧坊・別当坊地を自らへ安堵するよう鎌倉府
                 
           に訴える
  三年(
1392)閏十月廿二日     氏清、大石寺東御堂の安堵料(二十貫文)を受け取る
  四年(
1393)二月廿三日       散位某、大石寺の法華堂・堂地を日時に交付する
  四年(
1393)三月十七日       泰遠、大石寺法華堂・坊地を改めて日時に交付する
応永二年(
1395)十一月廿八日   二階堂成喜「妙本寺職地安堵事」を発給す
  二年(
1395)十二月十一日     二階堂行孝「妙本寺職地事」を発給す
  八年(
1402)十月廿七日       鶴岡八幡宮別当弘賢「妙本寺坊地安堵状」を発給す
  八年(
1402)十月廿七日       賢成「妙本寺坊地安堵状」を発給す
  九年
(1402)四月十一日       日時、日舜写本『報恩抄』を日影に授与す
  九年
(1402)                  日時、本尊を十幅書写す
  九年
(1402)七月十二日       今川泰範、大石寺堂地・西坊地を日時に安堵する
  十年
(1403)九月廿二日       日時、「御伝土代」に奥書す
  十年
(1403)                  日時、本尊を九幅書写す
  十一年
(1404)              日時、本尊を十一幅書写す
  十二年
(1405)四月士二日    興律法陽、大石寺東坊地を日時に去渡す
  十二年
(1405)五月十三日   日時、小泉久遠寺日周に御影の返還を求む
  十三年
(1406)六月四日     宮内卿阿闍梨日時寂
  十七年
(1410)二月十八日   鶴岡八幡宮別当尊賢「妙本寺安堵状」を発給す
  廿二年
(1416)四月八日     日伝、蓮蔵坊を北山・諸檀那道場に移し、弟子日宣に譲る
  廿二年
(1416)十月十一日   中納言阿闍梨日伝寂

 

 

 

 

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