正信会にたいする感想文
はじめに
現時点での正信会に対する私個人の感想をこれから申し述べさせて頂きたいと思います。
こうした形をとらせていただいた理由は、感想文の中でも触れると思いますが、今の正信会では個人の意見や感想を発表する場に制限が加えられているからであります。
正信会全体として和を乱すと思われる意見や感想は公式の場を避ける形でしか発表ができないからであります。
私個人の一正信会員としての率直な感想であっても、内容によっては、これと同様の扱いを受けることになるのが、悲しいかな今の正信会の言論に対する態度であるように思えるからです。
このような形をとることは、まことに失礼なこととは思いますし、また私にとっても不本意ではありますが、失礼の段は重々お詫び申しあげまして、感想文と題して、正信会の議長、副議長、委員、教区、その他若干名の方々に配布させていただくことにしました。
正信会所属の一会員の正信会に対する感想としてお読み頂ければ幸甚に存じます。
(1)
私の正信会への入会は昭和55年7月4日に正信会が正式に発足したころだと記憶しております。
このころは55年の武道館大会の年で、日達上人がご遷化されて約1年、活動家僧侶が宗の内外から色々な圧力や攻撃を受け、今から思いかえしてみると、正信覚醒運動がピークに達する、ちょうどその時に当っていたように思います。
私自身が正信覚醒運動を始めた当初の動機は、正信会の当初より主張していた宗創の謗法を糾弾するということはもちろん含まれておりましたが、このことよりも重大な疑問の解決を求めてのものでした。
その疑問とは、私自身が本山に上がってより見聞し、教えられて来た、宗門のありかたや、法義に対する考え方が宗開三祖を始めとする富士門流の本来としてのありかたや法義に違背しているのではないかというものであります。
この疑問は時がたつにつれ、私の中で大きくなるばかりでこの疑問を解決することこそが、私自身の覚醒運動の最大の目的であると思いさだめて正信会へ入会したのであります。
したがって、私自身にとって宗創の謗法を糾弾するということは、二の次の問題であり、真に究明
すべきは私自身の長年の疑問への答でありました。
(2)
私は時の経過とともに、表面上に事件として現れている宗創問題の本質は宗門自身の信奉してきた、近来法義の修復し難い欠陥にあることを学びました。
私自身がそれまでに教えられて来た、宗門の間違っている体質や法義を身に付けていたのでは、宗開三祖の法門に立ち戻ることは、不可能ではないかと考えるようになりました。
私自身が自分の学んできた、宗門の近来法義に対して決別をする必要があるということ。また私自身の法義にたいする根本的な発想の転換なしには、本来の法義を取りもどすという大事は良くなし得るものではないとも考えるようになりました。
私がこのように考えを進めることが出来だのは、ひとえに、阿部師への相承を否定したことにより生じた、宗門と久保川師や在勤教師会の諸師との法義論争のおかげでありました。
【正信会報所収在勤教師関係等論文一覧表】
号 |
発行日 |
論 文 題 名 |
著者名 |
番号 |
6 |
56年1月1日 |
相承にっいての質問状(55年12月13日付) |
正信会 |
|
7 |
56年3月1日 |
通告文(阿部師への相承否定・56年1月11日付) |
正信会 |
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8 |
56年6月15日 |
水島・尾林論文の稚拙を破す(1) 水島論文に思う(1) |
在勤教師会 松田銘道 |
1 2 |
9 |
56年9月5日 |
水島・尾林論文の稚拙を破す(2) 正信覚醒運動は覇権主義にあらず 法体の広宣流布・化儀の広宣流布(1) |
在勤教師会 廣田頼道 倉光遵道 |
3 4 5 |
10 |
56年10月25日 |
法体の広宣流布・化儀の広宣流布(2) 水島・尾林論文の稚拙を破す(3) 水島論文に思う(2) |
倉光遵道 在勤教師会 松田銘道 |
6 7 8 |
11 |
56年12月5日 |
本仏観について |
関 慈謙 |
9 |
12 |
56年12月25日 |
色法と心法(上) |
山上弘道 |
10 |
13 |
57年2月20日 |
色法と心法(下) |
山上弘道 |
11 |
14 |
57年3月20日 |
宗旨・宗教と異流義について |
池田令道 |
12 |
15 |
57年4月20日 |
化儀と法門 受持一考 |
下道貫法 大谷吾道 |
13 14 |
16 |
57年4月30日 |
大村教学部長の発言に思う 私見二題 |
山上弘道 池田令道 |
15 16 |
17 |
57年8月10日 |
尾林師の論苑を読んで物思う |
大橋一法 |
17 |
18 |
57年9月10日 |
三秘の解釈について |
関 慈謙 |
18 |
19 |
57年11月25日 |
擯斥所感 近代の管長問題について(1) 大橋論文の混乱に思う |
川村旺道 松田銘道 大黒喜道 |
19 20 21 |
20 |
57年12月10日 |
近代の管長問題について(2) |
松田銘道 |
22 |
21 |
58年2月20日 |
所感「御相伝の大事」を拝見して 富士の流義と血脈相承についての私見(上) |
成田詳道 池田令道 |
23 |
22 |
58年4月10日 |
富士の流義と血脈相承についての私見(下) 大橋問答への不審と質問 |
池田令道 大黒喜道 |
24 25 |
23 |
58年6月20日 |
近代の管長問題について(3) |
松田銘道 |
26 |
26 |
59年4月1日 |
仏法か外道か 伝燈への回帰(一) 当局教学の破折と富士の流義に関する一考察 |
大黒喜道 関 慈謙 池田令道 |
27 28 29 |
27 |
59年6月1日 |
伝燈への回帰(二 |
関 慈謙 |
30 |
28 |
59年8月1日 |
近代の管長問題について(4) |
松田銘道 |
31 |
29 |
59年10月1日 |
近代の管長問題について(5) 山田論文を一読して |
松田銘道 大黒喜道 |
32 33 |
30 |
60年1月1日 |
近代の管長問題について(6) |
松田銘道 |
34 |
34 |
60年10月1日 |
伝燈への回帰(3) |
関 慈謙 |
35 |
35 |
60年10月15日 |
折伏について考える |
池田令道 |
36 |
36 |
60年11月15日 |
御利益信仰の呪縛 伝燈への回帰(四 |
大黒喜道 関 慈謙 |
37 38 |
37 |
60年12月20日 |
礼節を守ろう・論説「異体同心に住して」 滅後末法の「衆生の得道」について |
菅原関道 |
39 |
38 |
61年3月1日 |
正信覚醒運動の本質 |
山上弘道 |
40 |
39 |
61年7月1日 |
山上師の主張を読んで |
川村旺道 |
(正信覚醒運動の本質・続 山上弘道 41)
※その他「事の法門について」「山内有志の御用教学に答う」「成仏への道」「興風」等。
『正信会報』を読み返してみると、表にしたように在勤教師会の諸師の論文が大変多いことに今さらながらに驚かされます。実に約40編もの論文を発表してきています。この他にも「事の法門について」や「山内有志の御用教学に答う」 「成仏への道」 「興風」等々が発表され出版されてきています。その他継命新聞紙上にも実に多くの意見・論文等が発表されています。
私の認識では正信覚醒運動は阿部師への相承を否定したことによって、それまであまり触れられていなかった、血脈相承や成道観を中心とした法義論争が主体となっていきます。
この論争の殆ど全てにかかわって来だのは、久保川師や在勤教師会等の諸師でありました。
私はこの方々の論文を、一々詳しく拝見し、その度に自らの不明を恥じるとともに、この論争の中にこそ私自身の覚醒運動の中心を置くべきであるとの決意を深くしたのであります。
正信会に所属する檀徒や法華講の方々も、継命等に掲載されるこれ等の法義にたいする意見を読まれ、又出版されたものを読まれて、学会時代の信仰に対する考え違いを改められ、又自分達の現在の正義を学習することができたのではないでしょうか。
(3)
しかし、内外の状況は時とともに変化していきます。正信会は私の認識から見る時、なぜか在勤教師会等の諸師の法義に関する論争を嫌うようになります。
対外的に裁判への影響が心配されるということが、大きな理由のようですが、その時まで約6年間もの長きにわたり本山との論争の殆どを在勤教師会等の論に依っていた正信会が、運動の小目的にすぎなかった(『正信会報』36号「論説」参照)裁判闘争の為に法義論争を控える方向へと変化していったのです。法義問題はなるべく個人的な研鑽にとどめ、外部には極力発表しないように制限を加えだしたのであります。
そして、今まで発表されていた在勤教師会等の意見はあくまでも個人的な見解であって、正信会として外に向かっての意見ではないという声も聞かれるようになりました。
正信会全体としての統一的な法義の確認がこれ以前に行われていない以上この意見は一応もっともなように聞こえます。
しかし、約6年もの間、正信会は各々の個人的な法義上の意見にすぎないという方々の論によって、本山との論争に相当の成果をおさめ、私の認識からみると一番の難局を乗り切ってきたように思えるのです。
私にとって疑問なのは、では、いったい、この方々の論陣を正信会として、その時点までどのように評価していたのかということです。そして、これからどのように評価していくかということなのです。
本山からは血脈否定の大謗法・師敵対と非難され、これにたいして、真の血脈と真の富士の流義を示し、本山側の信奉する近来法義の矛盾点を指摘して、我々にこそ正義ありと主張したのが在勤教師会等の諸師の論であったはずです。
私の受けた感じからいえば、その時以後の正信会は在勤教師会等の諸師と本山側との論争のそとにいるかのような姿勢を取っているように見えました。
正信会として、法義に対する責任ある姿勢がその時までも当然そうあらねばならなかったと考えますが、その時以後も、今も、今後も、最も重要な基盤づくりとして、欠かすことのできないものではなかったのでしょうか。
これから先、正信会は、いったいどのような法義を信奉することによって、ひとつにまとまって行こうとしているのでしょうか。
(4)
『正信会報』36号の論説に、「大方が小異を曲げて異体同心しうる共通項は、ただに、宗創の謗法厳戒にこそある。就中、52年に露見した創価学会の謗法の真摯な懺悔を求めるにある。そして、この一点こそが運動の原点でもあり、大目的でもある。又、一貫して変わらぬ、否、変えてはならぬ運動の公的旗印でもある。」との主張が(正信会からだと思いますが)出されました。
これに対して、37号に、 「正信覚醒運動の本質」と題する山上弘道師の主張が掲載されました。山上師はこの中で、先の36号の論説の主張に批判を加えるような(というように私には感じられました。)主張をされました。
「運動の原点とは何か。
たとえば、『覚醒運動はあまり複雑化せずに、原点に戻ってなされるべきである』ということを、しばしば耳にするI原点・基本に帰ることは大変すばらしいことではあるけれども、ではその原点とは何だろうか。もし覚醒運動発生当時の学会問題と、それを擁護する宗門の糾弾にそれを求めての意見だとすれば、それは覚醒運動の道程を全く無視したものであるといわざるを得ない。
現在の覚醒運動の原点は、まさに日顕師の否定、そして排斥処分にある。ここが理解されなければ、どうしても自己矛盾の道を歩むことになる。
あくまで覚醒運動の原点を、出発当時に置くべきであるのなら、もう過ぎてしまったことではあるけれども、断固として日顕師を否定してはならなかったし、なにはともあれ排斥を避けて宗内に止るべきであった。たとえ運動がつぶされる結果になってもである。しかしそれは所詮過去の話であるし、なにより近来の法義の矛盾から目を背けた自己欺瞞の道である。今は、現在の自分達が置かれた位置をしっかり認識し、運動の原点を見極めることが第一であると思う。」
と主張されて、阿部師への相承を否定したことにより生じた法義問題にこそ覚醒運動の原点を置くべきであるとされています。
これに対して、正信会は訴訟上の影響もかんがみて、協議した結果、翌38号に「山上師の主張を読んで」と題する川村旺道師の一文を掲載し、その中で川村師は、正信覚醒運動にかんして、
「むしろそれは法義以前の話である。端的に言えば、法義の探求を含め、日蓮正宗の僧侶としての責任感の忘却であろう。経済的発展にのみ眼を奪われることによって、法義の探求や自己の信仰的反省を忘れがちになるという精神的風潮が徐々に広がってきたことが、今回の宗門の混乱の遠因の一つである。これは今回の問題が学会問題という形で現れたことによって雄弁に物語られる。
つまり、厳密な意味での法義が宗門内で真摯に論じられていたのであれば、本来創価学会が問題の中心となって現れるはずもないのである。
未だその風潮の中にあって気付かぬ人の多くは、我々をして『謗法の者たち』と言う。しかし、その人たちが私をどう見るかはともかくとしても、私がその人たちを見る場合(それはかっての自分の姿かもしれない)、そこで最初に発見する差異は、法義を云々するほど高尚なものではない。そこにある差異は、身延離山の精神を継ぐ日蓮正宗の僧侶としての責任感と自覚の有無の差だけである。
この様な風潮に対する自己批判をふまえ、宗内の覚醒を求めたのが正信覚醒運動そのものの原点であったはずである。」
と述べられ、山上師への反論を、正信会を代表してという形ではなく、一個人の会員の意見として提出されました。
山上師からは再度反論を提出されようとしましたが、それは会報には掲載されませんでした。
正信会として、この「運動の原点をどこに置くべきであるか」という問題に関して、これ以上の論議の深まりと広がりは、無用な内外の誤解を招き、訴訟上にも影響を与える恐れがあり、又会内をいたずらに混乱させるだけだとの配慮からであったのでしょう。
しかし、山上師は、再度の反論を発表し、ごく小部数ではありますが、これを配布して、師の意図するところを訴えました。その中で、
「正信覚醒運動は、もはや中途半端な小手先の感情的運動であってはならない。その動機がどうであったにせよ、ここまで来たからには、永年たまった宗門の垢を、すべて洗い清めるという抜本的宗門改革を目指すべきである。そしてその中心的役割をはたすのは、やはり法義である。今日の宗門の過ちの根源は富士本来の法義を見失っているところにある。
極端な権威主義も、世俗的繁栄指向も、独善的体質も、物質至上主義も、みなこれによっている。
川村師は、この運動は法義を云々する程、高尚なものではないという。法義を高尚という意味がさだかではないが謗法問題を含め些細なことがらについても、宗教を論ずる時に、法義をはずすことなど考えられない。つまらぬ今日の堕落の姿も、今日の法義のあり方が結果的にそれを許しているのである。」 (15〜16頁)
「もし正信会が、思想基盤について、正面から対処をせずに、いい加減なまま運動を進めていくとすれば、それは自殺行為に等しいだろう。」 28頁)
「私はあくまで今までの価値観――寺院や僧侶の在り方から、本尊、謗法観にいたるまで、総てを一度ご破算にして、真の富士の立義を追求し、それを思想基盤とするべきであると思う。勿論、それには並々ならぬ覚悟が必要である。」 (18頁)
「そういう意味では私にとっての覚醒運動の対象は宗門や創価学会という形骸ではなく、その中にひそむ近来宗門の法義の欠陥にあるのである。」 (19頁)
と主張されております。
しかし、正信会としては、この論争以前より打ち出していた、基本方針「個的立場において、私的見解を披瀝され、甲論乙駁されることは大いに結構でありへ健全でもあると思うが、右の点を忘却しては、意見の当否はともかく、折角の舌鋒も穏当を欠こうし、なによりも単純明快な運動にあって面食らうことしばしばである。同志たる立場においては、最低限、原点のルールだけは逸脱すべきではないと思う。」 (36号「論説」)に従って、山上師の再反論の掲載を見送り、その他のこの両者の論争にかんする意見等の掲載も、38号以後は見送りつづけているようであります。
この「36号の論説」に主張されるところの見解を読んで私はこれは、会内の言論の制限・統一を意図したものであると感じたのであります。
それが証拠には、これ以後(山上師の主張は誤って掲載してしまったもののようですが、)正信覚醒運動の公的旗印にそぐわないと思われる意見や主張掲載を見送られています。つまり、そういう正信会の「公的旗印」から見て好ましからぬ意見は、昭和61年春以降、地下へ潜ってしまったのであります。
そして、運動の小目的に過ぎなかった、裁判闘争のために覚醒運動の命脈であるべき法義問題が正信会の「公的旗印」にかんする問題ではないとして除外され、公式の場を避けてしか、語られないようになってしまったのであります。
これ以後の正信会は、いろいろなルールを設けて、会内の統一を計る方向への力を強めていきます。
(5)
62年1月1日付で出された議長通達には、会内統一のために、委員会決定を遵守することについての徹底を呼びかけられています。
「 委員会の決定について
*61年3月実施のブロック別懇談会のおり全ブロックにおいて『委員会の決定には従う』旨了承された。
*正信会会則を一部改正し『委員会の決定を最終決定とする』旨確認。
☆以上現時点の委員会の確認事項と最低限のルールである。これを遵守出来ない場合は正信会会則に従い、除名も含む処分を受けることも有り得ることを認識し正信覚醒運動の大義に殉じていただきたい。」
と正信会としてのルールを守らない者は処分も覚悟してもらいたいという通達を出されています。
62年から開催されている正信会の教師講習会にしても、
「目的
イ、参加者が一同に会することによって親睦を深め、正信会の方向性に添ってお互いが連携し、意識の統一をはかっていく場とする。この目的に従って教義研鑽発表も偏った意見、無責任な発言でなく正信会にプラスとなる研鑽発表でなければならない。
発表内容
イ、自由な研鑽発表が望ましいとの意見もあったが、正信会として一つの統一的な方向に向っていくための講習会である以上、其れを乱すような変更、独善の論じは避け、正信会の将来にプラスとなる建設的意見発表とする。
特に正信会内を四分五裂するような特殊な論題はさけ、宗史、文献考証的な教義研鑽発表がよい。」(昭和62年4月6日「議長諮問委員会議事録」)
と解答されて、この内容に従って講習会も運営されてきています。
つまり、61年春ころからの正信会は私の受けた感想からするならば、会内への団結を求めるあまり、正信会としての「公的旗印」に関する以外の意見への自粛を求めることと、ルールを守るうと言う、言葉を合言葉にした、委員会決定への遵守を強力に迫るようになってきたということです。
正信会の決定権は前述のように全て委員会が掌握し、個人の会員は委員会の意見に従うという代表制度をとっています。
個人の意見は教区会で述べて、それを各教区の委員が委員会の席上で、教区でこういう意見があったと発表され、それを参考意見として、委員会で決定されたことが正信会の運営方針になっています。
委員会で決定されたことはルールになります。
正信会の会員がもし、委員会の決定に従わなければ、ルール違反として除名を含む処分をも覚悟せねばなりません。
正信会の大勢は、
「正信覚醒運動とはそもそも、宗創問題であり、宗門で悪いのは阿部一派であり、混乱を招いたのは彼等の方である。
阿部師は法主でもないのに法主を僣称し、不当に監正会を解散させ、正信覚醒運動を圧殺せんとしたのである。真に秩序ある行動を取ったのは正信会である。正信会員は一時不当な管長の弾圧によって、宗外に出されただけで、今でも真実は宗門内に居るのである。
外に出ているのは、あくまでも一時的な現象に過ぎない。従って、教義も化儀も従来どおり、宗門内にあるのと同じものを信奉し、正信会としての強固な体制を築いて、時を待つのみである。という方針のように私には感じられます。
この方針に従って行くのが正信会の大勢を占め、これこそ正しい覚醒運動の姿だと信じるのも、構成員それぞれの、信仰上の自由だと思います。
しかし、私はもし、これが正信会の、今も変わることのない真実の方針であるとするならば、この方針に従って、ともに行動していくことは、今の私の信仰上の信念からしてできなくなってきているのであります。
私にとって真実の覚醒運動の標的とするべき問題は宗門の誤った法義にあり、特に近来法義の誤りをただしていくことにあるからです。
そしてこのことを足がかりとして、宗開三祖の残し置かれた富士の法義を確認して行くことにこそあるからです。
(6)
結論的に申し上げるならば、私は、正信会の一会員として、正信会にたいして、
@「宗創の謗法厳戒と就中、52年に露顕した創価学会の謗法の真摯な懺侮を求めること」のみを、旗印として、それに従えない者はルール違反だとしていくならば、このような方針には従うことはできない。 `
A今後、作成されるであろう、会則や規則についても、その大前提となる、思想基盤の確認への論議なしに、これを作成し、遵守を求められても、遵守することはできない。
B宗門側と体制・教義がほとんど同じような会へと、これから、なっていくならば、脱会したい。
というような感想を持っているのであります。
こういうような感想を持つにいたった、最大の理由は、正信会全体として、同一の思想基盤を確認しようとする方向にないこと。または、このための努力を放棄しているように感じられるからであります。私にとっては、覚醒運動とは、思想基盤の確認にこそあるからであります。
伝教大師は遺誠の中で゛道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」と仰せられています。興師も御遺誠の中で「義道の落居無くして天台の学文す可からざること」と仰せられています。
義道の落居は甚だ難しいことです。しかし、これを完成することなしには、次の一歩が出ないのでありますから、何年かかろうとも成し遂げねばなりません。
今、冷静に考えますと、宗創は勿論のこと、正信会の内部でも、私自身を含む大勢の方々が、この義道の落居という、真実の意味が確認できていなかったのではないでしょうか。
私は、この義道の落居とは、文底法門のことだと考えています。あたり前のことだと思われるかも知れません。しかし、文底法門を知り、文上との境目を確認し、文底仏法の世界に住するのは至難のことだと最近、ようやく気が付くようになりました。
人は順番に死んで行くことはありません。私とてそれは同じことわりであります。また正信会員の方々も全く同じことわりの中で生きているのです。
明日のことなど誰にもわからないのです。
しかし、だからこそ、私は、先輩だから後輩だからという世界を、もうこのあたりで捨てて、集団で行動していれば何となく安心感が得られるという、私にとっての安易な道を捨てて、自立した一人の人間として、三祖の御内証の法義を求めて行きたいのであります。その中で、宗門の近来法義の誤りをただして、本来の富士の流義に帰ることこそが、真実の覚醒運動だと考えているのであります。
おわりに
これは最初にのべたように私個人の正信会に対する感想文であります。決して意見書でもなければ、要望書でもありません。こういう会員もいるのだという事実を御確認頂ければさいわいでございます。
ながながとお読み頂きまして誠に有難うございました。厚くお礼申し上げます。
(昭和63年12月1日 『芝川』8号所載)