9章 五十展転の伝言ゲーム

 

 

 随喜功徳品第十八(第17章)に「五十展転の功徳」が説かれている。それは、安楽をもたらすあらゆるものを無数の世界に満たし、すべての衆生を阿羅漢の位に立たせることによって得る功徳と、この法門の一つの詩句(偈)でさえも1人から順番に伝えていって、50番目の人が聞いて喜ぶことによる功徳とでは、どちらが大きいかを比較する場面に出てくる。

 その比較の結論は次の通りである。

 「〔後者である〕その中断なき連続によって〔語り継がれた〕この50番目の人が、この法門から一つの詩句(偈)でも、一つの句でも聞いて、喜ぶとするならば――まさにこの[後者の場合の]ほうが、その〔前者の場合〕よりもずっと〔内容が〕富んでいるのである」(植木訳『法華経』下巻、299頁)

 鳩摩羅什はそれを次のように漢訳した。

 「是くの如く第50の人の展転して、法華経を聞いて随喜せん功徳、尚、無量無辺阿僧祇なり。何に況や、最初会中に於いて、聞いて随喜せん者をや」(同、298頁)

 これは、うがった見方をすれば、この『法華経』を語り継ぐことを奨励するための言葉といえよう。その半面、『法華経』――それは仏教と言ってもいいかもしれないが、その思想の特質をこの言葉から読み取れるのではないか。

 50人もの人に語り継ぐということは、まさに伝言ゲームであり、途中には誤解や間違った伝言が生じないとはいえない。筆者が、2011年に『仏教、本当の教え――インド、中国、日本の理解と誤解』(中公新書)という本を出した時、中公新書編集部の藤吉亮平氏が「壮大な伝言ゲームの果てに」「2500年、5000キロ、ブッダの教えはどのように伝わったのか」という名コピーを本の帯につけてくれた。それは、2500年と5000キロという時空を隔てたインドから中国、日本へと伝播する中でどのように理解と誤解を経て変容したのかをたどったものだ。それからすると、「五十展転」も 伝言ゲームに変わりない。それなのに、どうして50人もの人に『法華経』を順次に語り継いで、50番目の人にも功徳が大きいと言うのであろうか。

 

誤解を生じる原因のいろいろ

 10人ほどの伝言ゲームでも必ずと言っていいほど、最後には似ても似つかぬものに変わり果てることが多い。どうして伝言のたびに誤解が生じるのか、考えてみよう。何も多くの人に伝言を繰り返さなくても、11の間でも誤解はつきものである。われわれのものの見方、話の受け止め方、考え方にその原因があるのではないだろうか。

 その一つは、先人観、あるいは思い込みでものごとを見ることによるものだ。例えば、虹は何色かと聞かれると、私たちは、迷うことかく7色と答える。ところが、スウェーデンでは6色、ドイツでは5色、アフリカのある部族では3色だと答える。同じものを見ても、このような差が生じる。これは、多い少ないの問題ではない。文化的に無意識のうちに形成された先人観で虹を見ているという点は、いずれも変わりないのだ。科学的には光の波長の違いで屈折率が異なり、徐々に色が変化しているので実際は7色どころではない。自覚はなくも、われわれの育ってきた文化によってものの見方、考え方が規定されていることを示す好例であろう。

 部分を全体と勘違いすることによって誤解が生ずることもある。「六度集経」の「群盲象を撫ず」の譬えの示すとおりである。それは、生まれながらに目の不自由な人たちが、象を触って、その感想を述べ合うという話である(『大正新脩大蔵経』巻350頁下)。

 足を触った人は「象は筒のようなものだ」と答えた。尻尾を触った人は「箒のようだ」と答え、それぞれ、尻尾の根もとを触った人は杖、腹を触った人は太鼓、脇腹を触った人は壁、背を触った人は高い机、耳を触った人は団扇、頭を触った人は大きなかたまり、牙を触った人は角、鼻を触った人は太い綱のようなものだと答えた。そして、われこそが正しいと言い争いになった。これは、部分に囚われて、それをすべてと思い込む人の姿を示している。

 これと類似の話が、中国の天台大師智顎の著わした『摩詞止観』(岩波文庫、上巻、150頁)にある。眼の不自由な人に乳の白い色を説明する話だ。視覚に訴えるわけにいかず、譬喩的に説明するしかない。そこで、「色白きこと貝・株・雪・鶴等のごとし」と答えた。目の不自由な人たちは、それぞれの受け止め方をして、論争が起こったという。

 これに関連して『摩詞止観』の別の箇所に、次の一節も見られる。

 「此を執して彼を疑い、一を是として諸を非とす。(乳を)雪のごとしと聞いて冷やかなりと謂い、乃至、鶴のごとしと聞いて動くと謂う」(同、35頁)

 「白い色は冷たいものだ」「いや違う。動くものだ」「羽毛に覆われているものだ」といった意見が闘わされたのであろう。雪の「白さ」を伝えようとしたが、雪の「冷たさ」で受け取られ、鶴の「白さ」も伝わらず、鶴の「勣くこと」「羽毛に覆われていること」で受け取られた。譬喩を用いて、意図したことと別の側面で受け取られるという好例である。

 誤解を生ずる一因に、人の心の在り方、境遇によって見え方が全く異なることも挙げられよう。唯識系の仏典には、「一水四見」という譬喩が説かれている。同じ河の水を見ても、天人は瑠璃、人間は水、餓鬼は膿血、魚は住処と、それぞれ異なった見方をするというものだ。

 赤い色眼鏡をかけていれば、赤い色は白と同じ色に見え、補色の緑色は黒い色に見える。

 アフリカに靴を売りに行ったヨーロッパ人の話がある。ある人は、帰国して「あそこでは靴は売れません。みんな裸足でいるから、靴を必要としていません」と報告した。別の人は、「あそこは、無限に靴が売れます。だれもまだ靴を履いていませんから」と報告した。同じことを見ても、前向きの人と、後ろ向きの人とでは受け取り方が全く逆である。

 『法華経』には、ザンダー:バーシャ(samdha-bhasya)とという言葉がしばしば出てくる。ザンダー(samdha意図)とバーシャ(bhasya、語ること)の複合語である。「意図をもって語られたこと」という意味だが、筆者は「深い意味を込めて語られたこと」(植本訳『法華経』上巻、77頁ほか)と意訳しておいた。釈尊の説法に込められた「意図」「深い意味」を汲み取れずに、表面的なところで受け止めて、自らを二乗だと思い込んでしまった人たちのことが『法華経』前半部に描かれている。彼らはそのことを釈尊に諭され、自己反省して、自らも菩薩であったことを想い起こす。こうして未来における成仏の予言(授記)がなされている。こうしてシャーリプトラをはじめとする二乗の作仏が明かされた。

 「似ているもの」から「似て非なるもの」へ、そしてついには「似ても似つかぬもの」へと変遷を遂げるということもある。例えば、マウスはネズミのことだが、その形状が似ていることから、コンピューターの画面上で文字列を選択したり、命令を指示したりするポインティング・デバイスにマウスという名前が付けられた。ひと昔前なら家の中でネズミを見ることがたまにあったが、今の子どもたちは、身の回りでネズミを見ることもほとんどなく、マウスといえば、コンピューターの用具のことしか思い浮かばない世代かもしれない。こうして、本来の意味が見失われる。意味の中心部から周辺部へとずれてしまうのだ。このように、世代を隔てて生じる意味のずれも指摘できよう。

 

 同様に、本来の意味AについてA'という説明がなされたとしよう。AとA'とは「似ているもの」ではある。そのA'を見た人が、A'の中とはいえAとは重なりのない周辺部に囚われて、それをさらにA"として説明したとしよう。A'A"は部分的に重なっているけれども、Aとは重なっていない。この時点てA"は、Aと「似て非なるもの」となる。さらに、次の世代でA’とは重なりのないA"の周辺部をとらえてA"’と説明したとしよう。こうなると、もはやAとA"’とは「似ても似つかぬもの」となってしまう。言葉の意味が、「似ているもの」から「似て非なるもの」、そして「似ても似つかぬもの」へと次々にずれていく。さらにたちが悪いのは、そのずれを正当化するために、こじつけをやって意義づけしようとする人がいるので、ますます本来の意義が見えにくくなってしまう。その解決策は原点に還ることである。

 「似ているもの」から「似て非なるもの」そして「似ても似つかぬもの」へという変化は、仏教の文明史観とも言うべき「正法」(saddharma、正しい教え」、「像法」(saddharma-pratirupaka、正しい教えに似ているもの)、「末法」(saddharma-vipralopa 正しい教えの絶滅)という考え方にも当てはまるであろう。それぞれ、千年、あるいは五百年の長さを経てずれていくと考えられた。

 日本では、言葉の持つ意味の一つの断面だけを受け取って、その言葉を用いるということがしばしば起きている。外来語の取り込みでそれはよく見られる。ドイツ語のアルバイトもその一例である。「私は大学で研究のアルバイトをしています」という文章は、もともとのドイツではその研究が本職であることを意味するが、日本では内職みたいなことになってしまっている。言葉の意味のずれが甚だしい。

 日本語の「は」という格助詞のもたらす誤解もある。「スプーンは食器である」という文章を見て、スプーンが食器のことだと思い込んで、「食器をください」と言っても、スプーンは受け取れないであろう。この文章は正確に言えば、「スプーンは食器の一種である」ということだ。食器という集合の中の一つとしてスプーンがある。「スプーンは匙である」という文章と構造は全く同じだが、スプーンと匙は英語と日本語の呼び名の違いだけで、同じものをさしている。一つの集合に含まれることを示す文章と、イコールであることを示す文章が全く同じ構造であることから誤解が生ずることがある。

 論理の逆転ということもある。筆者が、小学生の子どもとその親たちに「水は零度で凍り、100度で沸騰する」という話をしていた。すると、「ヘーっ、ぴったり零度と百度なの、自然てよくできてるね」と感動する親がいた。これは逆で、標準大気圧で水が凍る温度を零度、沸騰する温度を百度と決めただけでありい感動するようなところではない。

 手段と目的の履き違えによる勘違いや、目的を見失ったり、すり替わったりして、手段が独り歩きすることもある。例えば、写経をする書写行である。『法華経』自体が、五種の修行の一つとして書写行の功徳を宣揚している。その理由を筆者は、印刷技術のない時代であったことに求めている。経典を広く流布するためには、手書きで書き写し、写本の数の絶対数を増やすことが求められた。それによって、経典を見たり聞いたりできる人たちが増えるし、救われる人も増える。その結果をもたらしたのは、書写行をやった人たちである。だから、書写行に功徳があるーーといった論理で、奨励されたのであろう。

 ところが、今日の印刷技術の発達は目覚ましいものがある。その意味では、かって大きかった書写行の必要性は小さくなったといっても過言ではない。ところが、その書写行自体に呪術的なご利益のようなものが強調されたりして、奨励されている。その経典に書かれている思想を探究したり、自らの生き方として問うことよりも、書写すること自体が目的になってしまった感もある。それは、習字の練習、精神集中などの意義は認められるとしても、経典を呪術的なものにすることは、経典を正当に評価をしているとはいえないのではないか。

 あるいは、無知が招く誤解もあるだろう。ある人の講演を聞きにいった知人が帰ってきて、「デカルト哲学についての講演だった」と教えてくれた。ところが、後日、活字になったその講演のデカルトに関する部分は、ものごとには「デカルト座標」(x軸とy軸からなる直交座標)のように基軸があるという話で、デカルト哲学でも何でもなかった。

 また、伝言ゲームで誤解を生む一因として、恣意的解釈を挙げることができよう。それは説一切有部が、代表的弟子たちから在家と女性を削除して男性出家者の「十大弟子」に限定してしまった仏典の改竄(第165頁参照)や、夫に対して言われていた妻への奉仕が、奉仕する人を妻だけに限定してしまった中国での漢訳のし方(第7256頁参照)などに見られる。

 『法華経』は女性差別の経典だと批判する人が、その理由として『法華経』に女性がブッダや、転輪聖王など5つのものになれない(五障)と説かれていることを挙げていた。しかし、それは『法華経』の主張ではなく、小乗仏教の女性観に囚われたシャーリプトラ(舎利弗)の言葉として挙げられていて、『法華経』はそれを論破しているのである。これは、前後の脈絡を読み間違えた勘違いである。

 とある一定の条件の中で語られたことが、その条件を見落としたり、無視したりして語り継がれることもある。例えば、「もし、Aであることが事実なら、それはBだと私は思う」という言葉を聞いて、「あの人が、『それはBだ』と言っている」と言い触らす人もいるようだ。

 また、「悪意による歪曲」を挙げることもできよう。以前、筆者があるところで講演した時、冒頭、次のように話した。

 「皆さん、疑問に思われたことは遠慮しないで質問してください。疑問は残してはいけません。何事も納得することが大切です。だからと言って、この場で答えられないこともあるかもしれません。その時は、もう一度来る機会がありますから、それまでに調べてお答えするようにします。それによって、私も気づけなかったことを学ぶことができることになります。だから遠慮しないで質問してください」

 ところが、数日後、知人が「植木さん、言葉遣いに気をつけたほうがいいですよ。『植木さんは傲慢ですね』と言っている人がいます。『俺は何でも知っている。何でも答えてみせるから、何でも質問してろ』と言ったんですって?」と言ってきた。何をどう聞けば、このようになるのか理解できないが、それは悪意による歪曲で、こうして話は歪められるようだ。

 仏教では、身・口・意で行なう「十悪」のうち4つが口によるものとして、@妄語(嘘をつく)、A綺語(綺麗ごとを言って護摩化す)、B悪口(悪口を言う)、C両舌(二枚舌を使う)――を挙げて禁じている。『スッタニハータ』において釈尊は次のように語っている。

 「人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言つて、その斧によって自分を切り割くのである。毀るべき人を誉め、また誉かべき人を毀る者、――かれは口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない」(中村元訳『ブッダのことば』146頁)

 これは、サーリプック(舎利弗)とモッガラーナ(日鍵連)のデマを言いふらしたコーカーリヤという修行僧について述べたものである。デマの内容は、二人が牧牛女と洞窟で二夜を明かしたということで、「二人には邪念がある」というものだ。二人は暴風雨の夜、雨風を避けて洞窟の中で二夜を明かし、翌朝、出て行った。ところが、その洞窟の奥には牧牛女が先に雨宿りをしていたようで、二人が出て行った後に、洞窟から出てきた。それを目撃したコーカーリヤは、「二人にはよこしまな欲望があります」と吹聴した(同、366頁)。

 日ごろから二人に対して敵意を抱いていたコーカーリヤは、釈尊から何度も〔2人を〕信じなさい」と諭されたにもかかわらず、中傷することをやめようとしなかった。そのコーカーリヤは、全身に腫れ物が生じ、その病苦のために死去し、「紅蓮地獄に生まれた」(同、144頁)と仏典に記されている。

 こうした中傷に対するには、天璋院篤姫の決まり文句「一方を聞いて沙汰するな」に学ぶべきで、どこまでが事実で、どこまでが憶測かのかを明確にしなければならない。

 

「あるがままに見る」ことの難しさ

 以上の例を見てきても分かるとおり、人はありのままにものごとを見るのが困難なようである。それは、序章(3頁)に挙げた北杜夫氏の鏡についての話も同じであった。ところが、寿量品第十六(第15章)

 「如来は三界を、実にあるがままに見る(drstam yatha-bhutam)」

 「如来如実知見三界之相」(如来は、如実に三界の相を知見す=植木訳『法華経』下巻、228229頁)

 「如実知見」とは、「あるがままに、ものごとを知見する」ということだ。これは、既に原始仏典においてしばしば説かれていた。しかし、われわれはこれまで見てきたとおり、ありのままに物事を見ていないことが多い。先人観で見たり、部分を全体と思い込んだり、権威をもって語られていることによって、自分が見たことまで否定してしまうこともある。

 江戸時代に漢方の医師たちが俯分け(解剖)を見学に行った。腹部が切り開かれると、診察室の壁に貼って日ごろから見慣れていた五臓六俯の図と位置が違っていた。それに気づいた彼らは、動揺するが、最終的にどう結論を下したかというと、「この腑分けされている男は罪人である。悪いことをしたので、心がけではなく五臓六腑の位置まで狂ってしまったのだ」と。これなど、自分の眼で直接見ているありのままの事実を認めようとしないで、権威ある漢方の教えは絶対だとしてそれに固執してしまったという例である。笑うに笑えない他山の石の教訓であろう。ある人に直接会って、その著書まで読んで感動しておきながら、だれかにデマを吹き込まれて態度を豹変させるのも同じことだ。それほどまでに、「あるがままに見る」ということは困難である。

 険しい山道を越えてきて、ほっと一息ついたとき、道の片隅にひっそりと花が咲いていた。その可憐で清楚な姿に驚くとともに心が癒された。近づいてみると董の花であった。松尾芭蕉は、その時の思いを次の句に詠んだ。

  山路来て何やらゆかしすみれ草

 これは、京都から大津へ向かう逢坂山越えの折のことを詠んだものだ。道端にひっそりと花を咲かせる董に、健気でひたむきな生命力を感じ、自らの生き方と重ね合わせ、「何やらゆかし」と詠嘆の思いを込めて詠んだのであろう。

 ところが、われわれであれば、きれいだなと思って近づいて、「何だ、董か」で終わってしまいがちである。この一言を口にした瞬間に、ものごとが分かったつもりになってしまい、自身が抱いた感動、驚きを横へ置いて、自分が聞きかしっている董の知識や、先入観に安住してしまう。ありのままに見ることを放棄してしまうのだ。

 われわれは、それほどにものごとに執着し、固定的にとらえることに陥りがちである。仏教では、ものごとに執着することを否定するために、あらゆるものには不変の実体はないとして「空」(sunya)が強調された。ところが、その「空」自体も実体として固定的にとらえ、「空というもの」に執着する人が出てきた。そこでさらに、「空亦復空」(空も亦復空)と言わなければならなかった。「空亦復空」がまたもや実体とみなされたら、「『空亦復空』亦復空」と言わなければならないのではないか。それほど、執着する癖が抜けないのである。

 釈尊の修行は、禅定や苦行といった当時の常識とされていた修行方法にのっとって始まった。それも、これまでだれもやったことがないほど徹底したものであった。しかし、それによって満足することはなかった。自分の求めることとは違うという、その違和感が大きくなり、最終的にそれらを放棄して山を下り、川で身を清め、乳粥をもらって食べて体力を回復し、菩提樹の下で覚った。苦行を放棄し、食べ物をもらって食べたことに対して、一緒に修行していた五人たちから、「ゴータマは堕落した」と非難された。それでも、既成概念や先人観に囚われることなく、釈尊は自分の納得するままに修行した。そして、覚りを得た。

 その覚りの内容は、「十二因縁」(十二支縁起)だとか、「中道」だとか、「四諦」「八正道」だとか、いろいろと取り沙汰されている。経典によって異なっているのだ。そこに共通項のようなものは、見出しがたい。筆者は、その違いは「一水四見」同様、釈尊の教えを聞いた弟子たちの受け止め方の違いによるのではないかと思う。あえて、それらに最大公約数を見出すとすれば、釈尊は「あるがままにものごとを見る」という「ものの見方」を覚ったのではないか。それは、全く別々の現象のように見えるリンゴの落ち方と、天体の運行のし方に共通しているものとしてニュートンが万有引力を見出したようなものであろう。

 「十二因縁」などは、「あるがままに」見た結果てはないか。すなわち「如実知見」という眼差しで、人の悩みや苦しみの生じ方を見れば「十二因縁」となり、その眼で善と悪などの二元的対立を見れば、両極端に偏らない「中道」という在り方となり、修行の在り方を見れば、「八正道」となり、苦の生成と消滅の因果の在り方を見れば、「四聖諦」となっただけで、そこに一貫しているのは、「あるがままにものごとを見る」見方である。「あるがまま」ということは、ものごとに囚われないということで、執着や欲望などに囚われないということでもあろう。先に誤解をもたらすものとして検討した先入観や、権威ある教え、悪意、部分観に囚われることも、執着心の現われである。

 そうした透徹した眼で見れば、釈尊が徹底した平等主義を説き、迷信・ドグマ等を否定していたこと(中公新書『仏教、本当の教え』第一章参照)は、当然の帰結であった。

 ベナレス郊外の鹿の苑(鹿野苑)で成道後初の説法(初転法輪)を終え、ウルヴェーラー(優楼頻螺)に舞い戻った釈尊は、バラモン教の火の行者として評判であったカッサバ(迦葉)三兄弟を教化した。釈尊の「よく説かれた言葉と、法と利を伴った語句」を聞いて、弟子となったカッサハ三兄弟の末弟ガヤー・カッサバ(迦耶迦葉)は「あるがままの真実に即した道理」(『テーラ・ガーター』39頁)という想を漏らした。それは、「あるがままにものごとを見る」眼で見えてきた道理という意味であろう。

 このように、「十二因縁」も、「中道」「四聖諦」「八正道」も、「如実知見」というものの見方で見えた結果であり、根本には「如実知見」がある。個別的な知である「十二因縁」「中道」「四聖諦」「八正道」よりも、より根本の「如実知見」のほうがより普遍的である。前者は断片的な知になりやすく、意味が固定化しやすいが、後者は晋遍的で応用が利く。

 

個別的な知と晋遍的な考え方

 釈尊の教化を受けて弟子となったものたちは、すぐに「犀の角のようにただ独り歩め」と言われて、伝道の旅に出ている。初転法輪で五人の弟子たちが覚ると、すぐに釈尊は別行動を取っている。そのほかの弟子たちも、釈尊から教化を受けたのはそんなに長期間のことではない。断片的な知識であれば、そんなに短期間に習得できないであろう。また、個別の情況に対応できても異なる情況には対応できないということも起こる。根本の普遍的な「ものの見方」を身に着けたから応用が利いたのであろう。

 財団法人「日本数学会」が2011年に大学生約六千人を対象に行なった数学力テストで、論理的思考力が乏しい学生が多数いると発表した。その問いの中に、奇数と偶数を足し算すると奇数になる理由を問うものがあった。

 mとnを自然数とすると、すべての偶数は2mで表わされ、奇数は2-1で表わされる。両者を足す

 2+2-1)=2(m+n)-1

 ここで、m十n=Nと置き換えると、2N-1となり、2-1と同じ形なので、奇数になることが証明される。これによって、すべての奇数と偶数の場合の足し算についての証明がなされたことになる。

出題者は、こうした答えを求めたのであろう。

 ところが、答えの中に「自分の知っている奇数と偶数を足してみたら奇数になったから」といったものがあったという。例えば、1と4で5、3と6で9といった具合に試してみたのであろう。しかし、それは、1と4、3と6の場合にたまたま奇数になったのかもしれない。もっと巨大な数では、奇数にならないかもしれない。その方法では、すべての数について無限に検証をしなければ結論を出せない。

 ここに個別的な知識と、普遍的な考え方の違いが見て取れよう。学問ということは、個別的な知識を増やすことよりも、ものの見方、考え方を身に着けることのほうが重要である。クィズ番組の答えのような知識をたくさん覚えても、無数の知識の断片を増やすのみで、それによって知の創造的発展は得られない。個別的な知識を学ぶことを通して、ものの見方、考え方を知り、分からないことに出くわしても、どのように調べれば答えが得られるのかという視点を身に着ければ応用が利く。

 釈尊も、個別の教えに囚われることを戒めている。晋遍的な視点を重視していたことの表われである。

それは「筏の讐え」を釈尊自身が説いていたことからも知ることができる。それは、『マッジマ・ニカーヤ』(I・134135)によると次のような話である。

 街道を歩いている人が、激しい水の流れに出会った。こちらの岸は危険で恐ろしいところで、向こう岸は安穏なところである。けれども、こちらには渡し舟もなく、橋も架かっていない。その人は、木や枝などを集めて筏を組み立て、それによって無事に向こう岸へ渡ることができた。そこで考えた。「この筏は、私のために大いに役に立った。私は、これから先もこの筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで歩いていくことにしよう」と。

 このように語って釈尊は、「それは、筏に対して適切なことであるか?」と問いかけた。答えは、もちろん「ノー」である。『金剛般若経』には、次の言葉も見られる。

 「我が説法を筏の喩えの如しと知る者は、法すらなおまさに捨つべし。いかに況んや非法をや」(中村元・紀野一義訳註『般若心経・金剛般若経』56頁)

 釈尊の教えは、「応病与薬」(病に応じて薬を与う)と言って、衆生の能力や置かれた情況に応じて説かれた。特定の情況において説かれたものもあり、異なる情況ではそのまま当てはまらないということも起こる。従って、個別の教えを絶対化することがあってはならないと誡めたのが「筏の譬え」である。だから、個別の教えを断片的に寄せ集めて覚えるよりも、一見、バラハラに見えるものに貫かれている普遍的な視点を身に着けることが大事である。

 断片的知識では、時と場合と情況をわきまえることができず、釈尊の教えを教条主義的に絶対化して、無理が生ずることもあろう。情況をわきまえる応用力は、ものの見方、智慧を身に着けることによって発揮される。知識の断片の寄せ集めでは応用が利かない。「ものの見方」こそが臨機応変にものごとの本質を見抜いて対応できる。それが「如実知見」であろう。

 原始仏典の『スッタニバータ』第202偶に、次の言葉がある。

 「この世におい了智慧を具えた修行者は、目覚めた人〔であるブッダ〕の言葉を聞いて、その〔言葉〕を完全に理解し、あるがままに見る(yathabhatam passati)のである」(『スッタニバータ』35頁)

 これは、釈尊の言葉を聞いて、弟子たちが「あるがままに見る」ことをなしていたことを示しており、そのような弟子たちのことを「智慧を具えた修行者」としていることがうかがえる。釈尊が、あるがままに見る智慧を重視していたことが、ここからも読み取れよう。

 

「真の自己」の探究と「汝自身を知れ」

 仏教が「如実知見」したもので、重視したものの一つは、自己であった。「真の自己」の探究を重視していたことを物語るエピソードが『マハー.ヴァッガ』(I・14)に記されている。それは、釈尊が、ベナレス郊外の鹿の苑(鹿野苑)で初転法輪を終えて、自らが覚りを開いたところであるウルヴェーラーヘと戻る途中のことだった。釈尊は、街道からそれて林に入って樹木の根もとに坐っておられた。その林に30人の友人たちが夫人同伴で遊びに来ていた。そのうちの一人だけは、独身だったので遊女を連れてきていた。ところが、その遊女がみんなの持ち物を持って逃げ去ってしまった。その女を探し求めて林をさまよっていて、釈尊を見つけて尋ねた。「1人の女性を見ませんでしたか」と。そこで、釈尊は、言った。

 「青年たちよ。きみらはどう考えますか? きみたちが婦女を探し求めるのと、自己(atta)を探し求めるのと、きみたちにとってどちらがすぐれていますか?」(中村元訳)

 青年たちは、「自己を求めることです」と答え、釈尊の説法を聞いて出家を申し出たという。ここでは、「真の自己」の探究ということが重視されている。それは、序章でも触れた「自帰依」「法帰依」とも重なっている。初転法輪直後の教えと、入滅間際の教えが、同趣旨である。ということは、釈尊が一貫して説きたかったことは、あるがままに見ることによる「真の自己」の探究であったと言ってもいいであろう。実は、この一点にこそ「五十展転」の伝言ゲームに誤解を生じない――というよりも、生じさせないカギがあるのではないだろうか。

 そこで筆者は、「ソクラテスはシビレエイで、自分がしびれているからこそ人もしびれさせることができる。それと同じように、自分が感動しているから、人を感動させることができる。自分が感動してなくて人を感動させることはできない」ということで、この「五十展転」について、一人ひとりが『法華経』の一句を聞いて感動する連鎖のリレーの結果として五十番日も感動して功徳が大き――と説明しようとしていた。これまで、ソクラテスの語ったシビレエイの話は以上のような趣旨で語られていたように思う。

 ところが、改めて藤沢令夫訳『メソン』(岩波文庫、4244頁)を開いて前後関係を読んでみると、その解釈は、どうも著者のプラトンが意図したことと違うようだ。対論者のメソンは、ソクラテスが噂どおり「みずから困難に行きづまっては、ほかの人々も行きづまらせずにはいない人」であり、ソクラテスの顔かたちその他が、海にいる平べったいシビレエイそっくりだと揶揄する。シビレエイが、近づいて触れるものを誰でもしびれさせるからだ。

 それに対してソクラテスは、「もし、そのシビレエイが、自分自身がしびれているからこそ、他人もしびれさせるというのなら、いかにもぼくはシビレエイに似ているだろう」と答える。ここで言う「しびれる」とは、「心が魅了されてうっとりする」とか[陶酔する]という転用された意味ではなく、もともとの「身体の感覚が失われ、自由が利かなくなる」という意味である。R・マッジョーリ著、國分俊宏 訳『哲学者たちの動物園』では、「自分自身がしびれている」の部分が「自分自身そういう麻庫状態にあって」147頁)と訳されている。この訳から「感動する」という意味は出てこない。

 ソクラテスは、自らをシビレエイと称するその理由を、「なぜなら[中略]道を見失っているのは、まず誰よりもぼく自身であり、そのためにひいては、他人をも困難に行きづまらせる結果となるのだ」と述べている。ここには、感動という意味は含まれていない。

 自分が無知であるために、「われこそは知っている」と思い込んでいる人に素朴な疑問を投げかける。それによって、「われこそは知っている」と思い込んでいる人たちは困惑に陥るというのであろう。ソクラテスは「無知の知」の立場に立って対話をしているのだ。そう考えると、『ダンマ・パダ』の中で釈尊が語った次の第63偈を思い出す。

 「もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、『愚者』だと言われる」中村元訳『ブッダの真理のことば感興のことば』19頁)

 ソクラテスによってやりこめられたソフィスト(職業的弁論家)たちは、博識を誇り、知識を売り物にし、議論のための議論に耽っていた。ソクラテスは、彼らに対して痛烈な皮肉を込めて、「自らは無知である」と語っていた。それが、自らをシビレエイとしていたことである。それは、ソフィストたちの言う「知」からすれば「無知」ということであったと思う。

 「徳」は学ぶことができるのかという、メソンとの対話でも、ソクラテスは「魂は不死なるものであり〔中略〕魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてかい」。だから「徳についても〔中略〕以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない」として、「探究するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほかならない」と語っている。「汝自身を知れ」には、そういう背景もあったのだろう。釈尊もウッビリーという女性に「あなた自身を知りなさい」と語りかけていた(『デーリー・ガーター』128頁)。

 ソクラテスの言う「想い起す」「想起する」は、仏教の「真の自已に目覚める」に当たるであろう。また、ソクラテスの言う「徳」は、「法」と漢訳された「ダルマ」(dharma)と通じるものである(『仏教、本当の教え』47頁参照)。それは、学ぶべきものではなく、想起するべきものだというのも、ダルマ(方)が日覚める(√budh)べきものとされていたのと共通している。それは、ほかでもない自己に具わっているものであるからだ。

 

自己を離れて「法」はない

 釈尊自身、そのダルマ(法)と自身との関係を簡潔に次のように表現していた。

 「ヴァッカリよ、実に法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る。ヴァッカリよ、実に法を見ながら私を見るのであって、私を見ながら法を見るのである」(『サンユッタ・ニカーヤV120頁)

 ブッダを見るということは、特別な存在としてのブッダではなく、そのブッダをブッダたらしめている「法」を見ることであり、その「法」も観念的・抽象的なものとしてあるのではなく、ブッダの人格や、生き方として具体化されて存在しているというのである。

 しかも、その「法」はブッダのみに開かれているのではなく、だれ人にも平等に開かれている。従って、その「法」に目覚め、「法」を自らに体現すれば、だれでもブッダ、すなわち目覚めた人(覚者)であるということなのだ。これは、人格的側面をとらえた「人」と、普遍的真理としての「法」との切っても切り離せない関係を言ったものだ。ただ「人」と「法」では、具象的な「人」のほうに目が奪われやすい。具体的なだれかを特別視して、自らを卑下してしまい、自己に「法」を体現することを見失いがちである。その点に対して、『涅槃経』(『大正新脩大蔵経』巻12642頁上)、あるいは『維摩経』(植木訳、576頁)は、次のように戒めている。

 「依法不依人」(法に依って人に依らざれ)

「人」を強調すると、具体的であるといえよう。ところが、ある特定の人物が特別で、われわれは駄目な存在だとする差別が生じ、その人に頼ったり、すがったりするという関係になりやすい。一方、「法」を強調すると、普遍的であり、平等であって差別がなくなる。けれども、理想論、抽象論に陥りやすい。それに対して、先の『サンユッタ・ニカーヤ』の言葉は、釈尊という「人」に具体化された「法」であり、それは抽象論ではなく釈尊という「人」の生き方として具体化されたものである。その「法」は誰人にも開かれているものであり、それぞれの「人」が自らに具現化するべきものである。だから、「自帰依」「法帰依」として、「人」としての自己と、「法」をよりどころとするべきことが強調されていたのである。

 「法」と、「人」としての「自己」は、切り離せるものではない。「法」を求めるといっても、「自己」とかけ離れたところで求めても、何も得るものはないであろう。以上のことを書きながら、『華厳経』菩薩明難品第六の次の一節が頭に浮かんだ。

 「讐えば貧窮の人、日夜に他の宝を数うるも、自ら半銭の分なきが如し。多聞もまた是くの如し」(『大正新脩大蔵経』巻9429頁上)

 自己とかけ離れたところでの「多聞」、すなわち「物知り」「博識」であることは、ソフィストの誇ることと同じであり、「自己」とは関係ない。だから、いくら数え上げても自己を豊かにするものではないというのだ。それは、ソクラテスにとって恰好の皮肉の対象となるものであろう。日蓮はこの一節を踏まえて、34歳で著わしたとされる『一生成仏抄』に次のように記している。

 「若し己心の外に法ありと思はば、全く妙法にあらず、麁法なり[中略]都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは。ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり」(現代語訳は、序章22頁参照)

 本来の仏教は、自己とかけ離れた別世界のことを語ったものではなく、ほかならぬ自己のことが語られているのである。別世界の話を聞くとそれぞれの勝手な受け止め方がなされることは避けられない。かつての西洋の教科書に紹介されていたフジヤマ、ケイシャ、スシ、ニンジャ、サムライなどに代表される日本人の姿、生活ぶりを描いた絵を見て、あきれたのと同じことだ。行ったことのないニッポンについての話を聞いただけで想像して描いたものだから、「似て非なるもの」と「似ても似つかぬもの」のオンパレードにならざるを得ない。それに対して、本来の仏教は人間存在について語ったものであり、自己を離れることはない。

 釈尊が説いた法は、別世界の未知のことではない。自分自身のことである。だから、自己に一つひとつ突き合わせるように確認できるものである。そこが決定的に違っている。自己について語られた法は、丸暗記したりするものとしてあるのではない。目覚めるものであり、ソクラテスの言うように"想起”するものなのだ。それにもかかわらず、丸暗記するものとして、自己とかけ離れたところで語り継いでいけば、誤解、思い込み、恣意的な解釈が入り込んだ"伝言ゲーム”による誤解の拡大再生産となろう。

 「仏教の理屈は難しい」「分かりにくい」とおっしやる方が多い。確かに難しく分かりにくく語った人たちもあつたかもしれない。自信喪失し、必死でもがくように本を読みあさっていた学生時代に、三本清の『読書と人生』(角川文庫)を読んでいて、次の箇所に出会って妙に感動したことを思い出す。

「『むづかしい』ということと『わからない』ということとは同しでない。たとえば、高等数学はむづかしい。しかしわからないものではない。順序を踏んで研究すればわかるはずのものである。(中略)わからないものが書かれているために、哲学はむづかしいという評判をつくっていることがないでもないようである。哲学が『むづかしい』ということは致し方がないとしても、『わからない』ものが書かれるというのは困ったことだ。わからないのは、実はそれを書いた当人にもよくわかっていないからだといわれるであろう」(85頁)

「ひとに呼びかけるといったところが偉大な哲学には含まれているようである。そういうものの欠乏が哲学をむづかしく思わせているのではないか。独語的な哲学はむづかしい」(92頁)

 三本清自身、「それはまた私自身にいいきかせる言葉である」(同)と結んでいるが、筆者自身、勉強する時は、この一節を自分に言い聞かせながらやってきたつもりである。

 中村先生も、「分からないことが学術的だと思っている人があるが、そうではありません。分かりやすいことが学術的なのです」「日本には、分からないことが有り難いことだという変な思想があります」と常々語っておられた。

 釈尊は、誰人にもわかる言葉で語りかけ、一人ひとりを自己に目覚めさせ、生き方に目覚めさせた。

仏教は「最も分かりやすいもの」であるはずだと思う。なぜかと言えば、ほかでもない自分自身のことであるからだ。ソクラテスの言うように想い起こせばいいのだ。ただ、それを邪魔するものがある。それは、権威をもって語られた言葉に自縄自縛になったり、種々さまざまの執着心に囚われることである。われわれの身の回りにはそのような束縛が無数にある。成道後の釈尊が「私の覚ったことは世間と逆行している」と言ったのはそのことであろう。権威主義に囚われず、如実知見して執着心を明らかに見据え、先入観などの囚われから離れるところに自由自在な自己が輝き出すのだ。

 

「真の自己」への目覚めが「五十展転」のカギ

 経典としてまとめられた真理の教えは、葬式のために説かれたのではない。人間存在と、世界はいかなるものかを明らかにしたものであり、人がいかに生きていくかを説いたものだ。

 それなのに、仏教を人間離れしたもの、別世界の話にしてしまうと、仏教は難しいものとなるであろう。『法華経』も、読む者に菩薩であることを自覚させ、菩薩としての振る舞いを呼びかけている。別人の話や、別世界の話としてではなく、「始終自身」のこととして読むべきである。「長者窮子の譬え」にしても、「衣裏珠の譬え」にしても、自らを貧しいものだと思い込み、自己卑下して自らに無上の宝石が具わっていることを知らない子どもに、宝石の所有を自覚させる物語である。一人ひとりが真の自己に目覚めることがテーマになっている。

 方便品で明かされた釈尊の出世の本懐は、自ら覚った仏の知見をすべての衆生に開き、示し、悟らせ、入らせる――いわゆる「開・示・悟・人」と言われるものであった(植木訳『法華経』上巻、94、96頁)。それは、如来にとっての「一つの仕事」「一つなされるべきこと」「大きな仕事」「大きななされるべきこと」(同、95頁)としてなされたのである。すなわち、『法華経』は「唯一大事の因縁を以での故に」(同、94頁)説かれためであり、釈尊は、「一切の衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめん」(同、110頁)と欲していた。それは、釈尊の立場からの言葉だが、われわれの立場から言えば、一人ひとりが自已に仏知見を開くことが目指すべきことなのだ。日蓮の著作には、次のようにそうした観点の言葉が多い。

 「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(『昭和定本日蓮聖人遺文』1692頁、『日蓮大聖人御書全集』563頁

 「一人を手本として一切衆生平等なること是の如し」(『昭和定本日蓮聖人遺文』1693頁、『日蓮大聖人御書全集』564頁)

 さらに、寿量品の510文字からなる韻文の自我偈が「自」で始まり、「身」という文字で終わることをとらえて、「始終自身なり」と言っていたのも、以上のことと同趣旨である(中公新書『仏教、本当の教え』142頁参照)。いずれの言葉にも自己への視点が一貫している。

 以上のように見てきて、「五十展転」もの”伝言ヶ−ム”においてどうして感動をもって正しく伝言できるのかという問いへの答えは、一人ひとりが自己に目覚めることを説く経典であるからだということができよう。その上で、仏教は、押し付けや、強制を強いるものではなく、納得を重視するものだということも無視できないことだ。

 釈尊成道後の初めての説法について考えてみよう。5人の弟子たちとの間に何度もすれ違いが繰り返されたに違いない。それでも何とか分かってもらおうと、釈尊は角度を変え、種々の表現や方便を用いて説明を試み続けた。決して、「こんなことも分からないのか」とは言わなかった。その結果、僑陳如(kondana)が初めて覚った。その時、釈尊は喜びのあまり、「僑陳如が覚ったぞ!」(annato kondano)と叫んだ。「自分が覚ったことは、世の中と逆行している。だれにも理解されないだろう」と考え、「何も説かずに入滅しようか」と思ったこともあった。それだけに、覚った僑陳如よりも釈尊の喜びのほうが大きかったに違いない。

 自分が覚ったことを、たった一人であれ理解する人が現われた。釈尊の覚りが。”社会化”されたのだ。その時の叫び声が複合語アンニャー・コンダンニヤ(annato kondana、覚った僑陳如)となって「阿若僑陳如」と音写され、その人の名前のように定着している。何とか分かってもらいたいという思いから巧みなる譬喩が生まれ、巧妙な言語表現となって意思疎通を可能とする原動力となったのであろう。ここに、 ”言葉の限界性”とともに”言葉で説くことの必然性”を感じる。これが”壮大な伝言ゲーム”の始まりであった。この釈尊の対話の姿勢が継承されていれば、その後のインド、中国、日本における誤解の増幅は防げたであろう。その後は、”言葉で説くことの必然性”を切り捨て、”言葉の限界性”のみが強調されたりして、「何とか分かってもらいたい」という釈尊の思いは見失われてしまったようだ。

 しかも、釈尊滅後、仏教教団は保守化と権威主義化を強め、「虎の威を借る狐」の故事のように、釈尊の神格化と併行して出家者たちの権威づけも行なわれた。「釈尊」と「法」は、人々から遠くかけ離れたものに祀り上げられてしまい、釈尊の対話の姿勢とは全く異なるものとなった。『法華経』で「五十展転の功徳」が強調されているのは、原点からのズレを生じさせてはならないという反省を踏まえてのことかと思えてならない。

 五十展転の”伝言ゲーム”が、誤解の拡大再生産ではなく、一人から次の一人へと正しく伝わっていくためには、一人ひとりの「真の自己」への目覚めという視点を見失わないことが欠かせない。そのためには、仏教、あるいは『法華経』を自己の在り方、生き方との関わりの中でとらえる作業が欠かせない。それは仏教を思想としてとらえ、自己との思想的対決の中で仏教をとらえるということだ。序章でも引用した「一心を妙と知りぬれば、亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云ふなり」という一節のように、目覚めたる自己(一心)から他者(余心)へと言語表現(妙経)によって拡がっていく在り方が重要である。

 天台大師智が著わした『摩詞止観』の序文(岩波文庫、23頁)の中で、章安大師灌頂は、「己心中に行せしところの法門を説きたもう」(説己心中所行法門)と記している。智が「己心中」に法門を行じたということは、仏教を自ら主体的に受けとめ、思想的対決を行なっていたということであろう。

 ブラーティモークシヤ(pratimoksa)という言葉がある。「波羅提木叉」と音写され、「別解脱」と漢訳された。原意は「それぞれの(prati)解脱(moksa)ということであり、「それぞれの煩悩について解脱を得ること」である。これが転して戒律の条文という意味で用いられ「別解脱戒」と漢訳された。原意に戻ると、それぞれの抱える悩みや、それぞれの直面する困難と対決して乗り越えることによって得られる解脱ということであろう。自らの置かれたところを離れて解脱はない。普遍的真理への入り口は、それぞれの直面していること以外にはないといえよう。

 それぞれが、自己の直面していることと思想的対決、格闘をなす。その結果、それぞれの「一心を妙と知りぬれば」ということが得られるであろう。それによって、仏教は、晋遍性をもって現代に意義を獲得し、蘇るであろう。

 

権威を超えて

 バラモン教の聖典は、大きく@シュルテイ(天啓聖典)、Aスムリテイ(伝承聖典)――の2種類に分けられる。前者は人間が作ったものではなく、天から授かったものとされ、後者は人間によって作られ伝承されているものだという。しかし、天から授かったと言っても、それは神話的な話で、所詮は人間が作ったものに権威づけているだけであろう。それは、中村先生の次の言葉からも察することができる。

「聖典を絶対視する思惟傾向は昔から根強かった。〔中略〕聖典の権威を盲目的に承認することがインド人の伝統的思惟方法の有力な性格をづくりあげている」(『インド人の思惟方法』263頁)

 それに対して、仏教の場合は、あらゆる経典が「如是我聞」(是くの如く我れ聞きき)で始まっている。あえて言えば、Aの伝承聖典に相当する。神がかり的に天から授かったなどと言うことはなかった。しかも、原始仏教では、その聖典としての経典に盲目的に従うということは強調されなかった。既に紹介した「筏の讐え」からは、自らの説いた教えですら絶対化し、盲従することを釈尊自身が明確に否定していたことを知ることができる。

 仏教では、文証・理証・現証の三証を重視していた。文証とは、教えが真理であるかどうかを経文から証拠づけることだが、その文証も、理証、すなわち道理や理屈にかなっているかという理論的論証が問われた。現証とは、現実に現われた結果によって検証することである。この3つがそろってはじめて、教えが真理であると証明されることになる。

 「ありがたい教え」とされていることで盲目的に信ずるのではなく、道理にかなっているかということが問われた。迷信・ドグマ等を徹底的に排除したのが本来の仏教であった(『仏教、本当の教え』30頁以下参照)。それは、ガヤー・カッサパの「あるがままの真実に即した道理」という言葉のとおりである。

 昔からの権威ある聖典だからというのではなく、偉い人の教えだからというのでもなく、自分自身の生き方にとって意味があるのか、「だから何なのだ」という問いに納得したこと、それが普遍性をもって現代に意味をもつことになるであろう。その自己との対決という作業が、仏教を思想として現代に蘇らせることになるのではないかと愚考する。

 ゴ−タマの思想は〔中略〕人間の真理を明らかにするということを、めざしていた」(中村元著『宗教における思索と実践』12頁)にもかかわらず、インドの釈尊から「2500年、5000キロ」の時空を経て「壮大な伝言ゲームの果てに」、迷信や、たたり、呪術的信仰に変容したものもあり、わが国の仏教の現状は玉石混交の状態にあると言っても過言ではない。

 これまで、自らの人間としての生き方に照らして、仏教が意義を持ちうるのかどうかといった検証がほとんど行なわれてこなかった。その検証の必要性を訴えておられたのが、中村先生であった。中村先生が亡くなられて10年目の2009年に『宗教における思索と実践』が、サンガという出版社から出版された。昭和24(1949)年2月、敗戦後わずか3年半後に、当時36歳の東大助教授であった中村先生が、毎日新聞社から出された著作だ。その60年ぶりの再刊である。

 中村先生は、その中で自らの戦争についての思いを次のように綴られている。

 「過去10数年の間に経験した日本民族の運命は、いまから思いおこすと、まるで悪魔にとりつかれて夢にうなされていたようなものであった。きらめく銃剣、わめく怒号、うなる爆音、もえたつ火炎――いまなおわれわれの耳になまなましく残り、くっきりと視覚によみがえる」(168頁)

 その戦争のなまなましい記憶のなか、深刻な反省を踏まえて新たな指標を求めてその本は執筆された。その訴えは、36歳の若々しい力強さに満ちている。

 「日本人にあまりにも権式に屈従し隷属する傾向が顕著であった」33頁)

「仏教は思想体系としては理解されていない。現在の日本においては、主として儀礼的呪術的な形態によって、主として感情的な面において、一般民衆と結びついているのであって、現在思想的指導性は極めて乏しいといわねばならぬ」(25頁)
 「幾多の既成宗教は、何らかの固定した教義を立て、何千年にわたる伝統的権威を笠に着て人間の自由な思索に対して圧迫的態度をとって来た」(34頁)

 こうした情況に対して、中村先生は「自己との対決」(32貢)を通して仏教を捉えなおす必要性を訴えておられた。今年(2012年は、中村先生の生誕百年に当たる。わが国の現状を見る限り、63年前に中村先生が指摘されていたことは、残念ながら今なお変わっていないと言わざるを得ない。改めて、「自己との対決」によって仏教を思想としてとらえることの必要性を痛感する。

 

 

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