第2章:巧みなる方便

 

 

その時、世尊は意識をしっかりとし、思慮深くあって、その三昧(瞑想)から立ち上がられた。立ち上がられてから、尊者シャーリプトラ(舎利弗)に話しかけられた。

「シャーリプトラよ、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来によって覚られたブッダの智慧は、深遠で、見難く、知り難いものであって、一切の声聞や、独覚(僻支仏)によっても理解し難いものである。それは、どんな理由によってか? シャーリプトラよ、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来たちは、実に幾百・千・コーティ・ナユタもの多くのブッダたちを尊敬し、幾百・千・コーティ・ナユタもの多くのブッダたちのもとで修行に修行を重ね、この上ない正しく完全な覚り(阿耨多羅三藐三菩提)へと長期間の〔勇敢な〕努力精進をなして、希有で驚嘆すべき法を体得しておられ、理解し難い法をそなえ、理解し難い法を教えておられるからである。

シャーリプトラよ、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来たちの深い意味を込めて語られたことは、理解し難いのである。それは、どんな理由によってか? 〔如来たちは〕種々の巧みなる方便としての知見、原因、因縁、例証、拠り所、語源的説明、言葉による表現といった、それぞれの巧みなる方便によって、それぞれ〔のものごと〕に執着する衆生たちを解放するために、自らの確信する諸々の法(真理の教え)を説き示されるからだ。

シャーリプトラよ、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来たちは、偉大な巧みなる方便と知見の最高の完成に達しておられるのだ。〔如来たちは、〕執着がなく、妨げられることのない知見と、[如来の十の]力(十力)、〔四つの〕畏れなきこと(四無畏)、〔如来に具わる十八の〕固有な特質(十八不共法)、〔五つの〕働き(五根)と、〔五つの〕能力(五力)、〔七つの〕覚りへの要件(七覚支)、禅定、解脱、三昧、等至などの驚嘆すべき特質を具えておられ、種々の教えを説かれる方なのである。

シャーリプトラ(舎利弗)よ、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来たちは、稀有にして驚嘆すべき大いなる〔法〕を獲得しておられる。シャーリプトラは、まさにこのように言われたことを十分となすべきである。シャーリプトラよ、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来たちは、最高の希有なる〔法〕を獲得しておられるのである。

シャーリプトラよ、実に如来は、如来が知っているところのあらゆるものごと(諸法)、〔その〕あらゆるものごとについて、如来のために説かれるであろう。シャーリプトラよ、あらゆるものごとについてもまた、如来こそが説き示されるのである。あらゆるものごとについてもまた、如来こそが知っておられるのである。

それらのものごと(諸法)は、何であるのか、また、それらのものごとは、どのようにあるのか、また、それらのものごとは、どのようなものであるのか、また、それらのものごとは、どのような特徴を持つのか、また、それらのものごとは、どのような固有の性質(自性)を持つのか――〔すなわち、〕それらのものごとは、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのかということを。それらのものごと(諸法)に対して、如来だけが〔上記の五つの点において〕明瞭であり、明らかに見ておられるのである」

するとその時、世尊はまさにこの意味を重ねて示しつつ、次の詩句(偈)を述べられた。

「人間と神々に伴われた世間において、偉大なる勇者〔であるブッダの数〕は、無量であり、すべての衆生が〔その〕指導者〔であるブッダ〕たちを完全に知ることはできないのである。(1)

それら〔のブッダたち〕が所有するところのこのような〔十の〕力と、解脱、〔四つの〕畏れなきこと、また、このようなブッダの特質をだれも知ることはできないのである。(2)

かつて〔わたしが〕、幾コーティものブッダたちのそばでお仕えしてなした修行は、実に底知れないものであり、微細で、かつまた理解し難く、極めて見極めがたいものである。(3)

そこにおいて、考えることもできない幾コーティ劫にもわたって実践した修行の結果を、私は覚りの座において見た。それは、実にこのようなものであった。(4)

私も、他の世間の指導者〔であるブッダ〕であるところの人たちも、その〔修行の結果〕がどのようにあり、何であり、どのようなものであるか、またこの人の属性がどのようなものであるかーということを知っている。(5)

それは明示することができないし、それ〔を明示するため〕の言葉も存在しない。また、その法をその人に説いたとして、説かれたことを理解するところの、そのようなだれかある衆生は、信順の意向(信解)を持って立つところの菩薩たちを除いては世間には存在しないのだ。(6、7)

さらにまた、世間をよく知る人〔であるブッダ〕に属するこれらの声聞たちで、〔かってブッダたちに〕供養をなし、人格を完成された人(善逝)によって称讃され、煩悩(漏)を滅し、最後の身体をたもつところの人たち、それら〔の声聞たち〕にとってもまた、勝利者[であるブッダ]たちの智慧の中において〔理解できる〕対象は存在しないのだ。(8)

たとえ仮に〔智慧第一の〕シャーリプトラ(舎利弗)に等しい人々が、この世界のすべてを満たしていて、〔その人たちが〕一つになって熟慮するとしても、実に人格を完成された人の知を知ることはできないのだ。(9)

たとえ仮に、あなた(シャーリプトラ)のような賢者たちが十方を満たしているとしても、また私に属するところのこれらの他の声聞たち、それら〔の声聞たち〕がまた、まさにこのように〔十方を〕満たしているとしても、(10)

また、それらの人たちのすべてが今、一つになって人格を完成された人の知を熟考するとしても、またすべて〔の人たち〕が結束したとしても、無量であるところの私のブッダの知〔、そのブッダの知〕を知ることはできないのだ。(11)

煩悩(漏)がなく、感官が鋭く、最後の身体をたもつ独覚たちが、あたかも葦や竹林のように十方のすべてを満たしているとしよう。(12)

〔それらの独覚たちが〕一つになって、幾コーティ・ナユタ劫もの無限の期間にわたって、私の最高の教えの一部分を熟考したとしても、その〔ブッダの知の〕真実の意味を知ることはないであろう。(13)

新たに〔菩薩のための〕乗り物によって出で立った〔新発意の〕菩薩たちは、幾コーティもの多くのブッダたちに供養をなし、〔教えの〕意義をはっきりとよく理解し、多くの法を語るもの(法師)たちであって、それら〔の菩薩たち〕がまた、この十方を満たしているとしよう。(14)

葦や竹のように、〔それらの新発意の菩薩たちが〕常に全世界をすきまなく満たしているとして、人格を完成された人(善逝)が自身の眼をもって観察されたところの法について、[その新発意の菩薩たちが]一つになって熟考するとしても、(15)

あたかもガンジス河(恒河)の無量の砂〔の数〕のように、幾コーティもの多くの劫にわたって〔それらの新発意の菩薩たちが〕心を一つにして微細な智慧によって熟考しても、それら〔の新発意の菩薩たち〕にとってもまた、この〔善逝が自身の眼をもって観察されたところの法の〕中において〔理解できる〕対象は存在しないのだ。(16)

あたかもガンジス河の砂(恒河沙)〔の数〕のように多くの不退転であるところの菩薩たちがいるとして、心を一つにして熟考するとしても、それら〔の菩薩たち〕にとってもまた、この〔善逝が自身の眼をもって観察されたところの法の〕中において〔理解できる〕対象は存在しないのだ。(17)

深遠で、微細であり、思議を超え、そして煩悩(漏)のないすべての法(真理の教え)を〔ブッダは〕覚っておられる。また私は、それら〔の法〕がまさにどのような性質のものであるかを確かに知っているし、あるいは十方の世界にいるところの勝利者〔であるブッダ〕たちも[また知っている]。(18)

シャーリプトラよ、〔あなたは〕人格を完成された人(善逝)が話されるところの〔教え〕、そこに信順の意向を持っているがよい。偉人な聖仙である勝利者は、誤謬を語る人ではなく、長い時間が経過した時に、最高の道理を説かれるのだ。(19)

独覚の覚り〔の獲得〕へと出で立ったところの、〔また〕私が涅槃に立たしめ、苦しみの連続から解放させたところのこれらのすべての声聞たち〔や、独覚果を求めるものたち〕に私は語りかける。(20)

『これが私の最高の巧みなる方便であり、それによって私は世間において多くの法(真理の教え)を説き、あれやこれやに執着した人たちを解放する。だから、私は三つの乗り物を説くのである』と」。(21)

その時、その〔四〕衆の集まりの中に、偉大なる声聞であるアージュニャータ・カウンディタヤ(阿若憍 陳如)をはじめとする、煩悩(漏)を滅し自在を得た千二百人の阿羅漢であるところの人たち、また声聞のための乗り物(声聞乗)に属するところの他の男性出家者(比丘)・女性出家者(比丘尼)・男性在家信者(優婆塞)・女性在家信者(優婆夷)たち、そしてまた独覚果に到る乗り物(独覚乗)によって出で立ったところの人たち、それらの人たちのすべてに、この〔思い〕が生じた。

「世尊が、如来たちの巧みなる方便について過剰に説明されるということは、果たして理由は何であり、原因は何であるのか。また、『私が覚ったこの法は深遠である』と〔世尊は〕説明される。また、『すべての声聞や独覚たちには、〔それは〕理解し難いのである』と〔世尊は〕説明される。世尊が、『最終的な解説はただ一つ』と、何度も言明されたように、われわれもまた、ブッダの法(真理の教え)の獲得者であり、安らぎ(涅槃)に達したものである。ところが、この世尊が説かれたことの意味を、われわれは理解できない」と。

そこで、尊者シャーリプトラは、それらの〔比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷からなる〕四衆たちに疑念と疑惑があるのを知り、心で〔それらの四衆たちの〕心の思いを知って、自分でも法(真理の教え)についての疑問を抱いていて、その時、世尊にこのように申し上げた。

「世尊よ、世尊が繰り返して如来たちの巧みなる方便や、知見、〔法の〕説示について過剰に説明されるということは、理由は何であり、原因は何でありましょうか。しかも、『私は深遠な真理(法)を完全に覚った』と〔世尊は言われます〕。また、『深い意味を込めて語られたことは、理解し難いのである』と、〔世尊は〕繰り返して説明されます。

また私は、このような法門を世尊のそばで以前に聞いたことがありません。また、世尊よ、これらの四衆たちは疑念と疑惑を抱いています。如来が深遠なる深い意味を込めて、如来の法(真理の教え)の説明を繰り返しなされるということ、その本当のことを世尊はお示しください」

その時、さらに尊者シャーリプトラ(舎利弗)は、次の詩句(偈)を述べた。

「長時間の後、今、太陽のように輝かしい人〔であるブッダ〕は、このような話をされます。『私は無量の力と解脱と禅定を獲得したのだ』と。(22)

そして、あなたは覚り(菩提)の座を称讃されますが、あなたに対する質問者は〔だれも〕存在しません。また、深い意味が込められた言葉をあなたは称讃されます。しかしながら、だれもあなたに質問しません。(23)

尋ねられることなく、あなたは発言され、そして自分の修行について説明されます。智慧に到達したことを称讃され、〔そのことが〕深遠であることを告げられます。(24)

いま、自在を得、煩悩を滅し(無漏)、安らぎ(涅槃)に向かって出で立ったところのこれらの人たちは、『勝利者〔であるブッダ〕はなぜこのように話されるのだろうか』と疑惑を心に抱いています。(25)

このように、独覚の覚りを求めているものたちも、女性出家者(比丘尼)や、男性出家者(比丘)たちも、神々や、龍たちも、ヤクシャ(夜叉)たちも、ガンダルヴア(乾闥婆)たちも、そしてマホーラガ(摩睺羅伽)たちも、(26)

お互いに語り合いながら、〔また〕両足で歩くもののうちで最上の人(両足尊)を仰ぎ見ながら、疑問を抱いております。偉大なる賢者よ、説明をしてください。(27)

ここに、人格を完成された人(善逝)に属するこれほど多くの声聞たちが普くいます。この中で私(シャーリプトラ)は、最高の位に達したものであると、最上の聖仙〔であるブッダ〕は宣言されました。(28)

人間の最上者〔であるブッダ〕よ、この自分の立っているところにおいて、私にも確かに疑問があります。『その時、私に示された修行は、私の涅槃において究極のものなのでしょうか?』。(29)

最も勝れた太鼓の音を持つもの〔であるブッダ〕よ、声を発していただきたい。この法のあるがままに詳しく述べていただきたい。勝利者〔であるブッダ〕のこれらの実の息子たちは、合掌しつつ立って、勝利者を見つめています。(30)

ヤクシャ(夜叉)や、ラータシャサ(羅刹)に伴われたガンジス河の砂(恒河妙)の〔数の〕ように幾千・コーティもの〔多くの〕神々や、龍、さらにまた完全な覚りを求めるところの人(菩薩)たちで、八万もの数を満たして立っているところの人たち  (31)

大地の保護者であるところの王たち、幾千・コーティもの〔多くの〕国土からやってきたところの転輪王たち3、〔それらの神々や、龍、菩薩、王、そして転輪王たちの〕すべてが合掌し、尊敬の心をもって立っています。

『私たちは、いったいどのようにして、修行を完成させるのだろうか?』と」。(32)

〔シャーリプトラから〕このように言われて、世尊は、尊者シャーリプトラ(舎利弗)にこのようにおっしやられた。

〔シャーリプトラから〕このように言われて、世尊は、尊者シャーリプトラ(舎利弗)にこのようにおっしやられた。

「シャーリプトラよ、やめなさい。これらの意味が語られて、何の役に立とうか。それは、どんな理由によってか? シャーリプトラよ、この意味が説明されれば、神々に伴われたこの世間〔の人々〕は驚き恐れるであろう」

尊者シャーリプトラは、また再び世尊に要請した。

「世尊は、お話しください。人格を完成された人(善逝)は、まさにこの意味をお話しください。それは、どんな理由によってでしょうか? 世尊よ、この聴衆の中で、かつてブッダにお会いしたことがあり、智慧を具えているところの幾百もの多くの生命あるものたち、幾千もの多くの生命あるものたち、幾百・千もの多くの生命あるものたち、幾百・千・コーディ・ナユタもの多くの生命あるものたちは、世尊の語られたことを信ずるでしょうし、受け入れるでしょうし、また会得するでありましょう」

そこで、尊者シャーリプトラは、さらに次の一つの詩句(偈)によって世尊に申し上げた。

「人間の中で最高の人〔であるブッダ〕よ、分かりやすくお話しください。

この集会には幾千もの生命あるものたちがいます。信によって心が澄み、人格を完成された人(善逝)に対して尊敬する心を持つところの人たち、それらの人たちは〔善逝が〕説かれた法を理解するでありましょう」(33)

すると、世尊は尊者シヤーリプトラに再びまたこのように言われた。

「シャーリブトラよ、この意味が説かれて、何になるのだ。シャーリブトラよ、この意味が説明されれば、神々に伴われたこの世間〔の人々〕は驚くであろう。また、高慢な心にとらわれた男性出家者(比丘)たちは、大きな落とし穴に陥るであろう」

 そこで、世尊はその時、次の詩句(偈)を告げられた。

「ここで法が説かれて、いったい何になるのだ。この知は、微細で、また思議を超えたものである。慢心にとらわれた多くの愚かものがいて、法を説いていると、〔その〕無知なものたちは〔法を説いている人を謗るであろう」 (34)

尊者シヤーリブトラは、同様に3度、世尊に要請した。

「世尊はお話しください。人格を完成された人は、まさにこの意味をお話しください。世尊よ、この集会の中には、私に等しい幾百もの多くの生命あるものたちが見いだされます。また、世尊よ、世尊が過去の世々において成熟させられたところのその他の幾百もの多くの生命あるものたち、幾千もの多ぐの生命あるものたち、幾百・千もの多くの生命あるものたち、幾百・千・コーテイ・ナユタもの多くの生命あるものたち――それら〔の生命あるものたち〕ぱ世尊の説かれたことを信ずるでありましようし、信頼するでありましようし、会得するでありましよう。それは、彼らにとって長い間、利益のため、安寧のため、幸福のためになるでありましよう」と。

そこで、尊者シヤーリブトラは、その時、次の詩句(偈)を述べた。

「両足で歩くもののうちで最上の人(両足尊)よ、あなたは法(真理の教え)をお説きください。〔あなたの〕最年長の息子である私(シャーリプトラ)は、あなたにお願いします。ここにいるところの幾千・コーテイもの生命あるものたち、それら〔の生命あるものたち〕は、あなたが説かれた法を信ずるでありましょう。(35)

また、過去の世世において極めて長い間にわたって常にあなたが成熟させられたところの衆生たち、それら〔の衆生たち〕もまた、すべて合掌してここに立っております。それら〔の衆生たち〕は、あなたのこの法(真理の教え)を信ずるでありましょう。(36)

また、私たちに等しいところのこれらの1200人、それらの人たちもまた最高の覚り〔の獲得〕へと出で立ったものたちであります。人格を完成された人(善逝)は、それらの人たちをご覧になりつつ、〔法を〕説いてください。そして、それらの人たちに最高の喜びを生じさせてください」 。(37)

 すると世尊は、尊者シャーリプトラ(舎利弗)の願いを3度もお知りになって、尊者シャーリプトラにこのように告げられた。

「シャーリプトラよ、あなたは今、3回までも如来に要請したのだから、シャーリプトラよ、このように懇請しているあなたに、私が何を説かないことがあろうか。従って、シャーリプトラよ、確かに聞くがよい。正しくまた適切に熟慮するがよい。私は、あなたのために〔法を〕説こう」

ところが、世尊がこの言葉を説かれるやいなや、その時、そこにおける集会に属する高慢な男性出家者・女性出家者・男性在家信者・女性在家信者からなる5000人が席から立ち上がって、世尊の両足を頭〔におしいただくこと〕によって敬意を表して、その集会から立ち去った。

というのは、増上慢のものたちは、〔貪欲・瞋恚・愚癡の〕不善根によって、〔未だに〕到達していないのに〔既に〕到達したという思いをいだき、〔未だに〕完成していないのに〔既に〕完成したという思いを抱いているからである。それら〔の増上慢のものたち〕は、自分が欠点のあるものだということを知ることなく、その集会から立ち去った。そして、世尊は、〔それを〕黙然として了承された。

そこで、世尊は、尊者シャーリブトラにおっしやられた。

「シャーリプトラよ、私の集会は、価値のないものが立ち去って籾殻がなく、 浄信の真髄に立った。シャーリプトラよ、これらの増上慢のものたちがここから退出したことはよいことである。

従って、シャーリプトラ(舎利弗)よ、私はこの意味を説くことにしよう」

「世尊よ、素晴らしいことです」

と〔言うと〕、尊者シャーリプトラは世尊に耳を傾けた。

世尊は、このようにおっしやられた。

「シャーリプトラよ、如来はいつかある時、このような形の法の教授を告げるのである。シャーリプトラよ、あたかも〔3000年に1度しか咲かないとされる〕ウドゥンバラの花(優曇華)がいつかある時、現われるように、シャーリプトラよ、まさにこのように如来もまたいつかある時、このような形の法の教授を告げるのである。

シャーリプトラよ、あなたたちは私を信じなさい。私は真実を説くものであり、私はあるがままに説くものであり、私は虚妄なく説くものである。シャーリプトラよ、如来の深い意味が込められた言葉は理解し難いのである。それは、どんな理由によってか?

シャーリプトラよ、私は、種々の語源的説明、教示、言説、例証といった、いろいろな幾百・千もの巧みなる方便によって法(真理の教え)を説き明かしたのだ。シャーリプトラよ、正しい教え(正法)は思議を超えたものであり、思議を超えた領域にあって、如来によって〔のみ〕知られるべきものである。それは、どんな理由によってか?

シャーリプトラよ、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来は、1つの仕事のために、1つのなされるべきことのために、大きな仕事のために、大きななされるべきことのために、世間に出現するのである。

それでは、シャーリプトラよ、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来が、それの遂行のために世間に出現されるところの如来の1つの仕事、1つのなされるべきこと、大きな仕事、大きななされるべきこととは、何であるか?

すなわち、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来は、衆生たちを如来の知見によって教化するという理由と目的で世間に現われるのだ。正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来は、衆生たちに如来の知見を開示するという理由と目的で世間に現われるのだ。正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来は、衆生たちを如来の知見に入らせるという理由と目的で世間に現われるのだ。

正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来は、衆生たちに如来の知見を覚らせるという理由と目的で世間に現われるのだ。正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来は、衆生たちを如来の知見の道に入らせるという理由と目的で世間に現われるのだ。

シャーリプトラ(舎利弗)よ、これが、如来のその一つの仕事であり、一つのなされるべきことであり、大きな仕事であり、大きななされるべきことであり、世間に出現するための1つの目的なのである。このようにして、シャーリプトラよ、如来の1つの仕事、1つのなされるべきこと、大きな仕事、大きななされるべきことであるところのもの、それを如来はなすのである。それは、どんな理由によってか?

シャーリプトラよ、私はまさに〔衆生を〕如来の知見へと教化するものであり、シャーリプトラよ、私はまさに〔衆生に〕如来の知見を開示するものであり、シャーリプトラよ、私はまさに〔衆生を〕如来の知見に入らせるものであり、シャーリプトラよ、私はまさに〔衆生を〕如来の知見に目覚めさせるものであり、シャーリプトラよ、私はまさに〔衆生を〕如来の知見の道に入らせるものなのである。

シャーリプトラよ、私はただ一つの乗り物(一乗)、すなわち〔衆生を〕ブツダヘと到らせる乗り物(仏乗)について衆生たちに法(真理の教え)を説くのだ。シャーリプトラよ、〔そのほかに〕何か第二、あるいは第三の乗り物が存在するのではない。.シャーリプトラよ、十方の世界におけるすべての〔ブッダの〕場合に、〔法を法たらしめる〕根本の理法(法性)はこれなのである。それは、どんな理由によってか?

シャーリプトラよ、過去の世において十方の無量の数え切れない世界におられたところの正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来たち、それら〔の如来たち〕も多くの人々の安寧のために、多くの人々の幸福のために、世間〔の人々〕に対する憐憫のために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために出現されたのだ。

種々の信順の傾向を持ち、種々の素質と考えを持った衆生たちの意向を理解して、種々の〔教化のやり方の〕遂行による教説、〔すなわち〕多種多様な因縁、原因、例証、根拠、語源的説明などの巧みなる方便によって法(真理の教え)を説いたところの〔ブッダ・世尊たち〕、それらのすべてのブッダ・世尊たちもまた、シャーリプトラ(舎利弗)よ、衆生たちにただ一つの乗り物(一乗)、すなわち、一切種智(仏智)を終着点とするブッダに到る乗り物(仏乗)について法を説かれたのである。言い換えれば、まさに如来の知見によって衆生を教化することであって、〔衆生に〕まさに如来の知見を開示し、まさに如来の知見に入らせ、まさに如来の知見を覚らせ、まさに如来の知見の道に入らせる法を衆生に説かれたのである。

シャーリプトラよ、それらの正しく完全に覚られた尊敬されるべき過去の如来たちのそばで〔その〕正しい法(正法)を聞いたところの衆生たち、それら〔の衆生たち〕もまたすべてが、この上ない正しく完全な覚りの獲得者となった。シャーリプトラよ、未来の世において十方の無量の数え切れない世界におられるところの正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来たち、それら〔の如来たち〕も多くの人々の安寧のために、多くの人々の幸福のために、世間〔の人々〕に対する憐憫のために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために出現されるであろう。

また、種々の信順の傾向を持ち、種々の素質と考えを持った衆生たちの意向を理解して、種々の〔教化のやり方の〕遂行による教説、〔すなわち〕多種多様な因縁、原因、例証、根拠、語源的説明などの巧みなる方便によって法を説くであろうところの〔ブッダ・世尊たち〕、それらのすべてのブッダ・世尊たちもまた、シャーリプトラよ、衆生たちにただ一つの乗り物(一乗)、すなわち、一切種智(仏智)を終着点とするブッダに到る乗り物(仏乗)について法を説かれるであろう。言い換えれば、まさに如来の知見によって衆生を教化することであって、〔衆生に〕まさに如来の知見を開示し、まさに如来の知見に入らせ、まさに如来の知見を覚らせ、まさに如来の知見の道に入らせる法を衆生に説かれるであろう。

シャーリプトラよ、それらの正しく完全に覚られた尊敬されるべき未来の如来たちのそばで、その〔正しい〕法を聞くであろうところのそれらの衆生たち、それら〔の衆生たち〕もまたすべてが、この上ない正しく完全な覚りの獲得者となるであろう。

シャーリプトラ(舎利弗)よ、今、現在の世において十方の無量の数え切れない世界に滞在し、存在し、時を過ごしておられるところの正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来たち、それら〔の如来たち〕もまた多くの人々の安寧のために、多くの人々の幸福のために、世間〔の人々〕に対する憐憫のために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために法(真理の教え)を説いておられるのだ。

種々の信順の傾向を持ち、種々の素質と考えを持った衆生たちの意向を理解して、種々の〔教化のやり方の〕遂行による教説、〔すなわち〕多種多様な因縁、原因、例証、根拠、語源的説明などの巧みなる方便によって法を説いておられるところの〔ブッダ・世尊たち〕、それらのすべてのブッダ・世尊たちもまた、シャーリプトラよ、衆生たちにただ一つの乗り物(一乗)、すなわち、一切種智(仏智)を終着点とするブッダに到る乗り物(仏乗)について法を説いておられるのだ。

言い換えれば、まさに如来の知見によって衆生を教化することであって、〔衆生に〕まさに如来の知見を開示し、まさに如来の知見に入らせ、まさに如来の知見を覚らせ、まさに如来の知見の道に入らせる法を衆生に説いておられるのだ。

シャーリプトラよ、それらの正しく完全に覚られた尊敬されるべき現在の如来たちのそばで、その法を聞いているところのそれらの衆生たち、それら〔の衆生たち〕もまたすべてが、この上ない正しく完全な覚りの獲得者となるであろう。

シャーリプトラよ、私もまた今、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来であって、多くの人々の安寧のために、多くの人々の幸福のために、世間〔の人々〕に対する憐憫のために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために、また種々の信順の傾向を持ち、種々の素質と考えを持った衆生こ意向を理解して、種々の〔教化のやり方の〕遂行による教説、〔すなわち〕多種多様な因縁、原因、例証、根拠、語源的説明などの巧みなる方便によって法を説くのだ。

シャーリプトラ(舎利弗)よ、私もまた、衆生たちにただ一つの乗り物(一乗)、すなわち一切種智(仏智)を終着点とするブッダに到る乗り物(仏乗)について法(真理の教え)を説くのだ。言い換えれば、まさに如来の知見によって衆生を教化することであって、〔衆生に〕まさに如来の知見を開示し、まさに如来の知見に入らせ、まさに如来の知見を覚らせ、まさに如来の知見の道こ入らせる法を私は衆生に説くのだ。

シャーリプトラよ、今、私のこの法を聞くところのこれらの衆生たち、それら〔の衆生たち〕もまたすべてが、この上ない正しく完全な覚りの獲得者となるであろう。シャーリプトラよ、それは、このように知られるべきである。『十方の世界のどこにおいても、第2の乗り物についての報知があることはなく、第3〔の乗り物〕についてはなおさらのことである』と。

ところで、実にシャーリプトラよ、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来たちが、時代の濁り(劫濁)の中で出現され、あるいは衆生の濁り(衆生濁)の中で、あるいは煩悩の濁り(煩悩濁)の中で、あるいは見解の濁り(見濁)の中で、あるいは命の濁り(命濁)の中で出現される時、その時、シャーリプトラよ、このような時代の混乱という濁りの中では、多くの衆生たちが貪欲で、善根が乏しいので、シャーリプトラよ、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来たちは、巧みなる方便である三つの乗り物(三乗)による教示を通して、そのただ一つのブッダの乗り物(一仏乗)を説かれるのである。

その場合に、シャーリプトラよ、ブッダに到る乗り物について教化する如来ここの行為について聞くこともなく、達することもなく、理解することもないところの声聞、あるいは阿羅漢、あるいは独覚たち、それらの人たちは、シ一リブトラよ、如来に属する声聞たちではないと知られるべきであるし、阿羅漢でもないし、独覚でもないと知られるべきである。

ところで、シャーリプトラよ、男性出家者であれ、女性出家者であれ、だれであれ、阿羅漢の位であると自認し、この上ない正しく完全な覚りへの誓願を抱くことなく、『私はブッダに到る乗り物から捨てられている』と言うならば、〔また〕『この程度のものが、私の身体の最終的な涅槃である』と言うならば、シャーリプトラよ、あなたはその人を高慢なもの(増上慢)と知るがよい。

それは、どんな理由によってか? シャーリプトラ(舎利弗)よ、煩悩は尽きているが〔これまでこの法を聞く〕機会のなかった阿羅漢の男性出家者(比丘)が、如来が面前におられる時、この法を聞いて信じないであろうということ、それは道理に反したこと〔、あり得ないこと〕であるからだ。〔ただし、〕如来が完全なる滅度に入られた後は、別である。それは、どんな理由によってか? 実にシャーリプトラよ、如来が完全なる滅度に入られて後、その時、その場合においては、それらの声聞たちは、これらのこのような諸々の経の極致の受持者、あるいは説教者となることはないであろうからだ。しかしながら、シャーリプトラよ、〔それらの声聞たちは〕正しく完全に覚られた尊敬されるべき他の如来たちのところにおいて、疑いのないものとなるであろう。

シャーリプトラよ、あなたたちは、これらのブッダの法(真理の教え)を信じ、私を信じ、信頼すべきである。実にシャーリプトラよ、如来たちに妄語は存在しないのである。シャーリプトラよ、乗り物はこの一つだけ、すなわちブッダに到る乗り物(仏乗)〔だけ〕なのである」

そこで、世尊はその時、まさにこの意味を重ねて示しつつ、次の詩句(偈)を述べられた。

「その時、慢心にとらわれ、また信のないところの男性出家者・女性出家者・男性在家信者・女性在家信者たちは、5000人を下らなかった。(38)

穴のあいた学問を身に着けた愚かな知性を持つものたちは、この欠陥を見いだすことなく、欠点を保持したまま退出した。(39)

それら〔の愚かなものたち〕を集会の中のかすであると知って、世間の保護者[である私]は、その〔5000人の退出〕を黙認した。その人たちがこの法を聞くとしても、その人たちに有益なことはないのだ。(40)

私の集会は、清められ、〔不要な〕籾殻がなくなり、確実なものとなった。価値のないものが、すべていなくなって、そしてこの〔集会〕は最良のものとなった。(41)

シャーリプトラよ、最上の人〔であるブッダ〕たちが、この法を完全に覚られたということ、また、指導者であるブッダたちが、幾百もの種々の巧みなる方便によって説法されるということを、私から聞くがよい。  (42)

それら〔のブッダたち〕は、この世で種々の信順の意向を持つ幾コーティもの生命あるものたちの考えや、行ないがどのようであるかを知って、またそれらの人々の種々の行為や、それらの人々が過去においてなしたところの善を知って、〔説法されるのである〕。(43)

私もまた、種々の語源的説明や、原因によって、それらの生命あるものたちにこの〔法〕を得させるのであり、因縁や幾百もの譬喩によって私はそれぞれに応じてあらゆる衆生を満足させたのである。(44)

私は、まさにそのように諸々の経(修多羅)を説く。私は詩頌(伽陀)、過去物語(本事)、前世物語(本生)、奇跡物語(未曾有)と、因縁物語(因縁)を、幾百もの種々の譬喩物語(譬喩)とともに、歌詠(祇夜)、論議(優波提舎)〔からなる九部経〕をそのように説くのである。(45)

幾コーティもの多くのブッダたちのもとにおいて、劣ったものを喜び、無知で、修行もせず、生存の循環(輪廻)に執着し、非常に苦しんでいるところの人たち、それらの人たちに私は安らぎ(涅槃)を説くのだ。(46)

独立自存するもの〔であるブッダ〕は、ブッダの知の覚醒を目的として、この〔巧みなる〕方便をなすのであり、私はそれらの人たちに、『あなたたちも、この世間においてブッダとなるであろう』とは、いかなる時にも決して言わないのだ。(47)

理由は何か? 保護者〔であるブッダ〕は、時を観察して、また機会を観てから、その後に〔法を〕説かれるからである。今、まさにその機会がようやく得られた。それゆえに、私は今、決意を定めて〔法を〕説くのである。(48)

9つの部分からなる私のこの教えは、衆生に能力があるか、能力がないかということによって説かれたのであり、私は、願いをかなえる〔ブッダの〕知に〔衆生を〕入らせるためにこの方便を説いたのである。(49)

私には、常に清らかで、明晰で、高潔で、大変に満足した、幾コーティもの多くのブッダたちのもとで努力をなしたブッダの息子(菩薩)たちがここにいる。私は、それら〔のブッダの息子たち〕に諸々の広大なる経典を説くのである。  (50)

すなわち、それら〔の菩薩たち〕は、意向の達成のために、清められた身体となるために、用意が調ったものとなった。私は、それら〔の菩薩たち〕に『あなたたちは、未来の世において〔人々の〕安寧のために慈愛を有するブッダとなるであろう』と言うのだ。(51)

すると〔それを〕聞いて、〔それらの菩薩たちのすべては、〕『私たちはすべて、あらゆる生き物の中で最高の人であるブッダとなるでありましょう』〔と言って〕、喜びに満ちあふれるであろう。さらに私は、それら〔のたち〕の行ないを知って諸々の広大な経を説き示すのである。(52)

また、この最も勝れた教えを聞き、〔ただ〕一つの詩句(偈)でさえをも聞いたり、あるいは受持したりするところの人たち、それらの人たちこそが〔世間の〕指導者〔であるブッダ〕の弟子(声聞)たちであり、〔それらの〕すべて〔の弟子たち〕にとって覚りにおける疑いは存在しないのである。(53)

乗り物はただ1つであり、第2のものは存在しない。実に第3のものも世間には〔いついかなる時にも〕決して存在しない。乗り物が種々に異なっていることを説くという人間の中の最高の人〔であるブッダ〕たちの方便除いては。(54)

世間の保護者〔であるブッダ〕は、ブッダの知の顕示のために世間に出現されるのである。なされるべきことは、ただ1つであって、第2のものは存在しない。ブッダたちが、貧弱な乗り物(小乗)によって〔衆生を〕導かれることはないのである。(55)

独立自存するもの〔であるブッダ〕が自ら立っているところ、〔すなわち〕このようにありのままに覚ったところのもの、また[ブッダの具える10の]力、そして禅定と解脱の能力であるところのもの、まさにそこに〔ブッダは〕衆生たちをも立たせるのである。(56)

清らかで卓越した覚りを得ていながら、もしも私が1人の衆生でさえも貧弱な乗り物(小乗)の中に立たせるとするならば、私にとって、〔それは〕まさにもの惜しみというあやまち〔を犯すこと〕になるであろうし、私にとってそれは正しいことではないのだ。(57)

私には、もの惜しみはどこにも存在しない。私には妬みも〔存在し〕ない。また、欲望と貪愛も〔存在し〕ない。私にとって、あらゆるものごと(一切法)は悪が断ち切られている。それ故に、世間について覚知していることで、私は〔目覚めた人、すなわち〕ブッダであるのだ。(58)

私は、〔32の〕相によって飾られ、この全世界を照らしている。まさにそのように、〔私は〕幾百もの種々の生命あるものたちによって尊敬され、この法の本性の目印(実相印)を説くのである。(59)

シャーリプトラよ、私はこのように考える。『いったいどうしたら、一切衆生がこのように32の身体的特徴を具えた自ら輝くもの、世間をよく知るもの、独立自存するもの〔であるブッダ〕になれるのか』と。(60)

また、私が見た通りに、また私が考えた通りに、また私にかつて深い決意があった通りに、この私の誓願は達成された。私はブッダと覚り(菩提)について説こう。(61)

シャーリプトラよ、もしも私が衆生たちに、『あなたたちは、覚り(菩提)〔の獲得〕のために意欲を起こすがよい』と説いたとして、その際、無知なものたちはすべて当惑するであろうし、私かよく語ったことを決して理解しないであろう。(62)

また私は、まさにそれらの人たちについて、このように知っていて、〔それらの人たちは〕過去の誕生において修行を行なったものたちではなく、感覚的享楽に執着し、愛欲に耽溺し、心が愚かで迷妄にとらわれているのである。(63)

それらの人たちは、愛欲という原因によって〔3つの〕不幸な生存領域(3悪趣)に陥り、6種の生存領域(六趣)において苦しめられている。また、何度も何度も死を繰り返し、それらの福徳の少ないものたちは苦悩によって苛まれている。(64)

〔それらの人たちは〕誤った見解という叢林に常にとらわれていて、『それはある』と〔言ったり〕、『それはない』と〔言ったり〕、『それがあるのと同様に、それはない』と〔言ったりする〕。それらの人たちは、62の誤った見解にすることを確信し、虚貨なる実在をとらえて、〔それらに固執したまま〕留まっている。(65)

高慢なものたちや、欺瞞的なものたち、心のひねくれたものたち、虚偽のものたち、浅学のものたち、そして愚かなものたちは、清めるのが困難なものたちである。それらの人たちは、幾千・コーディもの生においても、ブッダの素晴らしい声をいかなる時にも決して聞くことがないのだ。(66)

シャーリプトラよ、私は、それらの人たちのために『あなたたちは、苦を終わらせよ』と〔言って〕、方便〔の教え〕を説く。苦によって苛まれている衆生たちを見て、そこで私は安らぎ(涅槃)について説くのだ。(67)

また私は、このように告げる。『これらのあらゆるものごと(一切法)は、常に寂滅(涅槃)しているのであって、本来、寂静であるのだ。そして、修行を満足させたところのブッダの息子(菩薩)は、未来の世において勝利者になるであろう』と。(68)

私が、このように3つの乗り物(3乗)を説くということは、私の巧みなる方便である。しかし、乗り物はただ1つであり、真実もまた〔ただ〕1つであって、指導者たちのこの教えもまた〔ただ〕1つである。(69)

今、だれであれ疑惑があるところの人たち、〔それらの人たちの〕疑惑や疑念をあなた(シャーリプトラ)は如実に取り除くべきである。世間の指導者〔であるブッダ〕たちは、虚妄なく語るものであって、乗り物はこの1つであり、第2〔の乗り物〕は存在しないのだ。(70)

さらにまた、過去の世の数え切れないほどの劫の間に出現されたところの過去の如来たちや、完全なる滅度(涅槃)に入られた〔ところの〕何千という多くのブッダたち、それら〔のブッダたち〕の数は〔無量であって〕決して見いだされることはないのだ。(71)

それらのすべての最高の人〔であるブッダ〕たちは、譬喩と、因縁や原因、そして幾百もの多くの巧みなる方便によって、多くの浄らかな法(真理の教え)を説かれた。(72)

また、それら〔のブッダたち〕はすべて1つの乗り物を説いたのであり、考えることもできない幾千・コーディもの生命あるものたちを、1つの乗り物に到らしめ、1つの乗り物の中において成熟させるのだ。(73)

勝利者〔であるブッダ〕たちには、その他の種々の方便があり、如来たちは〔衆生の〕信順の意向や、考え方を如実に知ってから、それら〔の方便〕によって神々に伴われた世間において私の〔この〕最高の法(真理の教え)を示すのである。(74)

また、その〔世間〕においてそれらの〔如来たちの〕面前で法(真理の教え)を聞くか、聞き終えたところの衆生たち、また施物を施し、戒を実行し、忍耐によってあらゆる修行を完成し、(75)

努力精進と禅定において努力をなし、あるいはこれらの法を智慧によって熟慮し、種々の善行をなすところの人たち、それらの人たちはすべて覚りの獲得者となった。(76)

また、それらの勝利者たちが完全なる滅度(涅槃)に入られた後で、だれであれ、〔それらの完全なる滅度に入られた勝利者たちの〕教えに携わり、その〔教え〕において堪え忍び、調養され、教導されるところの衆生たち、それら〔の衆生たち〕はすべて覚りの獲得者となった。(77)

また、それらの勝利者〔であるブッダ〕たちが完全なる滅度(涅槃)に入られた後で、だれであれ〔それらの完全なる滅度に入られた勝利者たちの〕遺骨への供養をなし、宝石からなる何千もの多くのストゥーパを造るところの人たち、さらには金や銀、また水晶の〔ストクーパ〕、(78)

また、瑪瑙のストゥーパ、そして猫目石や真珠からなる〔ストゥーパ〕、同様に最も美しい琉璃の〔ストゥーパ〕、サファイアの〔ストゥーパ〕を造るところの人たち、それらの人たちもまた、すべて覚りの獲得者となった。(79)

〔だれであれ〕岩の中にストゥーパを造るところの人たち、〔また〕だれであれ栴檀や沈香の〔ストゥーパを造る〕ところの人たち、また〔だれであれ〕松の木のストゥーパを造るところの人たち、また、だれであれ木材の組み合わせからなる〔ストゥーパを造る〕ところの人たち、(80)

煉瓦で造られた、あるいは泥土を積み重ねた勝利者たちのストゥーパを喜んで造り、また〔ストゥーパを〕目的として砂の堆積でさえも荒野や険難の所に造らせるところの〔大〕人たち、(81)

あるいはまた、さらに、だれであれ砂礫からなる堆積を造って、勝利者のストゥーパになぞらえて、あちこちで遊んでいるところの子どもたち、それら〔の大人や子どもたち〕はすべて覚りの獲得者となった。82)

まさにそのように、だれかある人たちに〔仏像を〕意図して32の身体的特徴を具えた宝石造りの像を造らせたところの人たち、それらの人たちもまたすべて覚りの獲得者となった。(83)

そこにおいて、だれであれ七宝からなる、あるいは銅の、あるいは同じく真鍮の人格を完成された人(善逝)の像を造らせたところの人たち、それらの人たちはすべて覚りの獲得者となった。(84)

〔だれであれ〕鉛の、また鉄の、あるいは泥土によって、あるいは漆喰を塗り固めて、人格を完成された人たちの見るも美しい像を造らせたところの人たち、それらの人たちはすべて覚りの獲得者となった。(85)

壁画において幾百もの徳のある相を具え、完全円満なる身体を持った像を造る〔ところの人たち〕、また自ら進んで描いたり、あるいは〔人に〕描かせたりするところの人〔たち〕、それらの人たちはすべて覚りの獲得者となった。 (86)

そこにおいて、だれであれ学びながら、また遊びの喜びを楽しみながら爪や木切れで壁に〔如来の〕像を造ったところの大人や、子どもたち、(87)

それら〔の大人や子どもたち〕もまた、すべて慈悲の心を持つものとなり、それらのすべてが、幾コーディもの生命あるものたちを救った。それらの人たちは、すべて多くの菩薩たちを鼓舞(教化)しつつ、覚りの獲得者となったのである。(88)

また、如来たちの遺骨に、あるいはストゥーパに、あるいは泥土で作られた像に、また[如来が]描かれている壁に、土砂のストゥーパに花や香を供えたところの人たち、(89)

また、その時その〔ストゥーパの〕ところで、妙なる響きを持つベーリー〔という小鼓〕や、法螺貝、パタハ〔という小鼓〕といった楽器を演奏したところの人たち、また最も勝れた最高の覚りへの供養の実施のために太鼓を鳴り響かせたところの人たち、(90)

また、心地よく鳴り響くヴィーナー(琵琶)やシンバル、パナヴア〔という太鼓〕、ムリダンガ〔という小鼓〕、ヴァンシャ〔という笛〕、あるいは極めて優美なエーコーツァヴァー〔という楽器を演奏した〕ところの人たち、それらの人たちはすべて覚りの獲得者となった。(91)

鉄の鈴や、水、あるいは掌を太鼓のように打ち鳴らし、人格を完成された人(善逝)たちの供養のために、甘く魅力的な歌を上手に歌うところの人たち、  (92)

それらの人たちは、人格を完成された人たちの遺骨に対してどんなにわずかであれ、ただ一つの楽器でさえをも演奏して、その遺骨への多くの種類の供養をなしてから、〔この〕世間においてすべてブッダとなった。(93)

また、壁に描かれるべき人格を完成された人たちの像を、ただ1つの花によって供養したとしても、また、心が悩乱した人たちが供養したとしても、〔それらの人たちは〕幾コーティものブッダたちに続けてお会いするであろう。(94)

そのストゥーパに対して〔両手で〕完全な合掌〔をなすか〕、あるいは片手で手刀〔を切るようにして挨拶〕をなすか、あるいは頭をわずかの時間でも下げ、同様にただ一度でも身体を屈めるところの人たち、(95)

その時、遺骨を安置したそれら〔のストゥーパ〕に対して悩乱した心によってでさえあれ、『ブッダに敬礼(帰命)すべし』と一度でも言うところの人たち、それらの人たちはすべて直ちにこの最高の覚りに達した。  (96)

その時、その時代に、それらの人格を完成された人たち が、〔既に〕完全なる滅度(涅槃)に入られた後にせよ、あるいは〔まだ世間に〕存在しておられる時にせよ、〔それらの人格を完成された人たちの〕法(真理の教え)の名前だけでさえも聞いたところの衆生たち、それらの人たちはすべて覚りの獲得者となった。(97)

幾コーティもの考えることもできない多くの未来のブッダたちーそれら〔のブッダたち〕には、〔その数を〕量ることもあり得ないが、それらの勝利者で最上の世間の保護者たちもまた、この方便を説かれるであろう。(98)

それらの世間の指導者〔であるブッダ〕たちには、無限の巧みなる方便が具わっているであろう。それによって、〔それらのブッダたちは、〕この世において幾コーティもの生命あるものたちを煩悩(漏)のないブッダの知へと導かれるであろう。(99)

それらの〔ブッダたちの〕法(真理の教え)を聞いて、1人の衆生でさえもブッダにならないであろうということは、いかなる時にも決してないのだ。『私は、覚り〔の獲得〕のために修行してから、〔他の人たちを〕修行させるのだ』。これこそが、如来たちの誓願である。(100)

未来の世において、〔如来たちは〕幾千・コーティもの多くの法への入口を説き示されるであろう。〔如来を如来たらしめる〕如来の本性において、この1つの乗り物(ー乗)を説き明かしつつ、まさに法について語られるであろう。(101)

この真理を見る眼(法眼)は、常に確かに存続していて、あらゆるものごと(諸法)の本性は常に光り輝いているのである。〔そのことを〕知って、両足で歩くもののうちで最上の人(両足尊)であるブッダたちは、私の〔この〕1つの乗り物を説き示されるであろう。(102)

この覚り――法の継続性(法住)と法の確実性(法位)は、世間において不動で、常住しているということ――ーを、ブッダたちは、地上における〔覚りの〕座において方便も巧みに説き明かされるであろう。(103)

人間や神々によって供養されたガンジス河の砂(恒河沙)〔の数〕のように〔多くの〕ブッダたちが十方におられる。それら〔のブッダたち〕もまた、すべての生命あるものたちに安楽を得させるために、この世において私のにの〕最高の覚りを説かれるのである。(104)

〔十方におられるブッダたちは、〕この和らいだ最高の境地を覚っておられ、巧みなる方便を説き、多種多様な乗り物を示して、〔ただ〕1つの乗り物(一乗)を〔明かりを灯すように〕説き明かすのである。(105)

また、それら〔のブッダたち〕は、身体を持つものであるあらゆる〔衆生〕たちが、かつて心の〔欲する〕ままに修したところの行ないを知り、また努力精進や、勢力を知り、それら〔の衆生たち〕の信順の意向を知って

から、〔法を〕説き明かされるのである。(106)

指導者〔であるブッダ〕たちは、知の力によって多くの譬喩と因縁、そして多くの原因を説き示し、衆生が種々の傾向を持っていることを知って、〔衆生に〕種々の〔教化のやり方の〕遂行を示されるのである。(107)

そして、勝利者の王の中の指導者である私もまた今、衆生たちに幸福を得させるために〔この世に〕生まれて、このブッダの覚りを、幾千・コーティもの種々の〔教化のやり方の〕遂行によって説き示すのである(108)

私は、生命あるものたちの信順の意向や傾向を知ってから、多くの種類の法(真理の教え)を説き、種々の方便によって〔生命あるものたちを〕喜ばせるのだ。これが、私の独自の知の力である。(109)

智慧と福徳を欠き、〔六種の〕生存領域の循環(輪廻)に落ち込み、険難の所に閉じ込められ、さらには苦しみの連続に陥った〔心の〕貧しい衆生たちを私もまた見る。(110)

〔それらの心の貧困な衆生たちは、〕あたかもヤタ(梨牛)が尻尾に対〔して執着〕しているように、欲望に対して執着していて、この世において、あらゆる時に愛欲によって盲目となり、偉大な威徳を持つブッダを求めることもなく、苦の終極に達する法(真理の教え)を模索することもないのだ。(111)

〔それらの心の貧困な衆生たちは、〕六種の生存領域(六道)に心が閉じ込められており、誤った考え方の中にあってじることなく、苦によって苦を追い求めている。しかるに、それら〔の心の貧困な衆生たち〕に対する私の同情は力強いのである。(112)

その私は、その〔菩提樹の下の〕覚りの座において覚って後、まるまる37日〔、すなわち21日}の間、〔覚りの座に〕坐っていた。そこにおいて、まさに〔その菩提樹の〕木を仰ぎ見ながら、実にこのようなこの道理について熟慮したのである。(113)

その樹木の王〔である菩提樹〕を私は瞬きもせずに仰ぎ見て、実にその〔菩 。提樹の〕下で私はそぞろ歩き(経行)をするのだ。これは、卓越した希有なる知である。しかしながら、これらの衆生たちは迷妄によって盲目であり、無知である。(114)

その時、ブラフマー神(梵天)が、私に懇願する。また、シヤクラ神(帝釈天)と、4人の世界の守護者(四天王)とマヘーシュヴァラ神(大自在天)と、イーシュヴァラ神(自在天)と、さらにまた幾千・コーディもの〔風を司る〕マルット神の群れが、(115)

すべて合掌して、尊敬を持って立っている。そこで、私は〔その〕意義を考える。『私は、どうしようか? 私は、覚りについての諸々の称讃〔の言葉〕を語るが、これらの衆生たちは諸々の苦によって征服されている。(116)

それらの愚か者たちは、私の〔説いた〕法に対して〔罵りの〕言葉を発する。〔罵りの言葉を〕発してから後に、悪しき境遇(三悪道)に陥るであろう。〔従って〕私にとって、決して〔何も〕言わないほうがいいのだ。まさに今、私には静穏なる滅度(涅槃)があるべきである』。(117)

しかしながら、過去のブッダたちを思い浮かべつつ、それらの〔ブッダたちの示された〕巧みなる方便のように、今、私もまたこのブッダの覚りを3つの種類に〔分類〕して説いてから、ここに示すことにしよう。(118)

この法について私はこのように考えた。すると、十方におられるところの他のブッダたち、それら〔のブッダたち〕は、その自分の身体を私に現わし、『素晴らしいことです』という声を発せられた。(119)

「世間の指導者の先端にいる高貴なる賢者よ、あなた(シヤーキャムニ)は、この世においてこの上ない知に達して、世間の指導者たちの巧みなる方便について熟慮しつつ習学しておられる。(120)

私たちもまた最高の位を覚ったその時、〔教えとしての乗り物を〕3つの種類に〔分類〕して、〈あなたたちは、ブッダになるであろう〉と説くのだ。実に[心の]卑しい傾向を持つ無知な人間たちは、〔それを〕信じようとしないのである。(121)

それゆえに私たちは、[その]原因を把握することによって巧みなる方便を用いつつ、〔それらの無知な人間たちが、ブッダになるという〕結果を願う〔ようになる〕ことを広く称讃しながら、多くの菩薩たちを教化するのである』と。 (122)

また私(シャーキャムニ)は、その時、牡牛のように勝れた人〔であるブッダ〕たちの快い声を聞いて、〔心が〕高揚していた。私は心が高楊していて、それらの保護者〔であるブッダ〕たちに言った。『最も勝れた説法者である偉大なる聖仙たちよ、[私はあなたがたに]もちろん敬礼(奇妙)いたします』と。(123)

『賢明な世間の指導者〔であるブッダ〕たちが語られるように、そのように私もまた実行するでありましょう。私もまた、この恐ろしい激動の〔時代の〕ただ中で、衆生たちの汚辱の真っただ中に生まれてきたのである〔からです〕』。 (124)

まさにそれゆえに、シャーリプトラよ、私はその時、〔そのことを〕知って、ヴァーラーナシー(波羅奈)へと出で立ったのだ。その〔近郊にある鹿の園(鹿野苑)〕において私は、5人の男性出家者(比丘)たちに対して、ものごと(法)が寂滅の境地にあることを方便によって説いたのである。(125)

そこにおいて、私の真理の車輪(法輪)は転じられた。そして、ニルヴァーナ(涅槃)という言葉が世間にあることとなった。同様に、アルハン(阿羅漢)という言葉、ダルマ(法)という言葉、そしてサンガ(僧伽)という言葉がそこにあることとなったのである。(126

私は、長い歳月の間、〔教えを〕説き、また安らぎ(涅槃)の境地を説き示した。そして私は常に、『これが、生存の循環(輪廻)に伴う苦しみにとっての終極なのだ』と、このように告げるのである。(127

またシャーリプトラよ、私はその時、最高で最上の覚りへ〔向けて〕出で立ったところの両足で歩くもののうちで最上の人(両足尊)たちの幾千・コーディもの多くの息子(菩薩)たちを見るのだ。(128)

そして、〔かつて〕勝利者〔であるブッダ〕たちの法(真理の教え)を巧みなる方便によって多種多様に聞いたところの人たち、〔それらの人たちの〕すべては、まさに私のそばに近づいてから、敬意を持って合掌して立った。(129)

そこにおいて、その瞬間に、この〔思い〕が私に生じた。『私の最上の法を語る時が来た。私は、そのことのためにこの世に生まれてきたのだ。その最上の覚りを今、私は説き示そう。(130)

今、この世において、意識が現象的な特徴(相)にとらわれていて、愚かな見解を持ち、心に増上慢を抱き、無知であるものたちにとって、このことは信じ難いことであろう。けれども、これらの菩薩たちは〔私の説法を〕確かに聞くであろう』。(131)

またその時、私は、すべての臆病な心を捨て去って、恐れる心がなく、歓喜しており、人格を完成された人(善逝)の息子(菩薩)たちの中で〔法を〕説き、まさにそれら〔の菩薩たち〕を覚り〔の達成〕へと教化するのである。    (132)

このようなブッダの息子(菩薩)たちを目の当たりにして、あなた(シャーリプトラ)の疑念もまた取り除かれたであろう。そして、煩悩(漏)のないところのこれらの1200人〔の阿羅漢たち〕、これらのすべて〔の阿羅漢たち〕は、世間においてブッダとなるであろう。(133)

あたかも、それらの過去の保護者〔であるブッダ〕たちや、未来の勝利者〔であるブッダ〕たちにとって、ものごとの本性(法性)〔がそうである〕ように、まさにそのように〔現在のブッダである〕私にとってもまた、この〔ものごとの本性〕は、二者択一〔という誤った考え〕を離れているのである。私は今、あなた(シャーリプトラ)に〔それを〕説き示すことにしよう。(134)

いつか、どこかで、かろうじて、牡牛のように勝れた人〔であるブッダ〕たちの世間への出現がある。しかしながら、無限の視力を持つもの〔であるブッダ〕が世間に出現されても、いつかある時に、このような法を説かれる〔だけな〕のである。(135)

このような最上の法は、幾コーティ・ナユタもの劫のうちにも極めて得難いであろう。また、最上の法を聞いて、〔そ法を〕信ずるところのこのような衆生たちは、極めて得難い〔であろう〕。(136)

あたかも、得難いウドゥンバラの花(優曇華)が、いつか、どこかで、かろうじて現われるように、その〔ウドゥンバラの花〕は、人間にとって心にかなった美しい姿をもつものであり、神々に伴われた世間〔の人々〕にとって希有なものであろう。(137)

けれども、この法(真理の教え)が雄弁に語られたのを聞いて、歓喜し、〔讃嘆の言葉を〕一言でも語ろうとするところの人、〔その人は〕一切のブッダに供養をなしたことになるであろう。〔それは〕この〔ウドウンバラの花の〕ことよりもさらに希有であると私は言うのだ。(138)

あなた(シャーリプトラ)は、ここにおいて疑念と疑惑を取り除くがよい。法の王である私は告げる。『私は最高の覚りにおいて教化するのであり、私にとって、この世に声聞〔と言われる人〕はだれ一人として存在しないのだ』と。 (139)

シャーリプトラ(舎利弗)よ、このことはあなたにとって秘要〔の教え〕であるべきである。また、私に属するところのこれらのすべての声聞たちも、また最も重要な人たちであるところのこれらの菩薩たちも、私のこの秘要〔の教え〕を受持するべきである。(140)

理由は何か。5種類に汚濁した時代(五濁悪世)には、衆生たちは卑しく、また堕落した人たちであり、この世において愛欲によって盲目となって、愚かな考えを持っていて、それら〔の衆生たち〕には覚り(菩提)の〔獲得〕への心は全くないのである。(141)

そして、『私の乗り物はこれ一つである』ということを、その勝利者〔であるブッダ〕が説かれ、〔そのことを〕聞いて、未来の世における衆生たちは当惑し、〔この〕経を誹謗して地獄に落ちるであろう。(142)

〔その一方で、]残基の念を持ち、清らかであり、また最も勝れた最高の覚り(菩提)〔の獲得〕へと出で立っているところの衆生たち、それら〔の衆生たち〕のために私は、畏れなきものとなって、1つの乗り物(一乗)にっいての限りない讃嘆を説くのだ。(143)

指導者たちの教えはこのようであり、これが最も勝れた巧みなる方便である。まさにこれは、多くの深い意味が込められた言葉によって語られていて、習学の未熟なものには、理解し難いのである。(144)

だからこそ、世間〔の人々〕の教師であり、保護者であるブッダたちの深い意味が込められた言葉を知って、疑惑を捨て、疑念を取り除くならば、あなたがたは、ブッダとなるであろう。〔だから〕あなたがたは歓喜を生じなさい」  (145)

 

 

以上が、聖なる“白蓮華のように最も勝れた正しい教え”(妙法蓮華)という法門の中の「巧みなる方便」の章という名前の第2である。

 

 

 

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